◇ ペトラを助けて助けられる 前編
「………聞きまして?調査兵団の噂。」
「ええ。前回の壁外調査でもまた何も得るものが無かったとか。巨人の腹を満たすだけ満たしてそれらの謎は解けず終い。」
「まあ。」
「そもそも……彼等の存在は真実に必要なのですか?壁内は百年の安泰を保っているではありませんか。
……とみにこの内地が巨人の脅威に晒されるなど、私はどうしても考えられないのですよ。」
「最早わざわざ危険を犯して壁外に出る必要は無いのでは」
「物好きなものです」
「我々の資金のみを食いつぶして、まるで内側から病魔を齎しては啄んでいく寄生虫のような存在ではありませんか。」
「左様。王や先祖代々が築き上げて来たこの国の障りですな。じつに嘆かわしいことです。
それに最近は内地にまで訪れては金を無心にくる。」
「…………本日も来るそうですよ。」
「またあの女兵士が」
「恥を知らない」
「よく顔を出せるものですよ」
「まるで娼婦の真似事ですね。下品極まりない。
そう言えば………聞かれましたか、彼女この前、」
「………、ほら……噂をすれば。」
「ペトラ君」
声をかけられて、ハッと我に返る。
そしてそろり…と自分より上背のある彼女のほうを見上げた。
「…………みんな、見ているよ。」
その言葉に、呆気に取られていた所為か忘れることが出来ていた緊張感が舞い戻ってくる。
息を呑んで身体を固くすると、そっと支えるような仕草でペトラの腕にシルヴィアの掌が回った。
「大丈夫。みんな初めて見る君に興味を持っているだけだから……悪意は無いよ。然程は…多分。」
シルヴィアは耳元で囁いた後……しっかり頼むね、と付け加えてはその腕を離す。
それと同時にまるで精神的な支えをも失ったような気がして、ペトラの心には不安が渦巻いて襲って来た。
…………周りは普段自分たちが過ごす環境とは大違いに、綺羅びやかで全てのものが仰々しい。
周りに飾られた大輪の花々や夫人の強い芳香の香水、料理やアルコールの匂いに目眩がした。
一角では優雅な管弦楽が奏でられている。しかし緊張しきったペトラの耳にはそれすらも遠かった。
そして視線が…灯りを目指しては群れてくる夜の羽虫のように自身に集中しているのが分かる。
…………シルヴィア副長は悪意は無いと言っていたけれど……間違いない、これは
「いやあ……シルヴィア副長、お久しぶりです。お元気でしたか…!」
ふと、自分から離れていってしまったシルヴィアのいる方から機嫌の良さそうな声が響く。
「ええ、ええ!アルバース伯もお元気そうで何よりです。
相も変わらず素晴らしい催しです。これを全て貴方が取り仕切ったと思うと驚きと目眩を覚えますよ…!」
それに応えるように彼女は機嫌よく初老の男性と握手を交わしていた。
………朗らかな表情である。常々何か悪巧みをしていそうなあの微笑の人物とはまるで別人のようだ。
「シルヴィア副団長、久々です。相変わらずお美しい…しかし今日の格好はどうしたのですか。」
「嫌ですアーヘン殿、そのように御婦人を惑わす称揚は奥様の為に取っておかねば……。
…………本日は少し趣向を変えまして。元よりドレスよりもこう言った服のほうが慣れておりますので……」
「おお、それはそれは。貴方は常々貴婦人のように高貴な情緒がおありだから遂兵士だということを忘れてしまう」
「おや……、なんてことを仰るのですか。
まだ一滴も飲んでおりませんのに喜びで酔いが回ってしまった気持ちですよ。」
…………今度は別の紳士である。
先程の男性よりも年寄りだが……その言動から随分と女好きと分かる。
ピクシス司令と言い男性というのは身体が衰えても尚、色好みのほうは健在な人間が多いようだ。
「シルヴィア副長、まだ飲んでいらっしゃらないのですか。
それでは是非私と一杯目の乾杯を。」
「…エーレット伯爵夫人ではありませんか。お久しぶりです、お会いしたかった…!」
「ええ、私もですわ。だって私たちお友達ですものね……。」
「勿論です。私は貴方といると心が休まるのです。
……このような場所に相応しく無い卑しい兵士という身分の私にも隔てなく接して下さる………。」
「……………そんなことを仰らずに。皆貴方を歓迎しています。」
「そうだと嬉しいのですが。」
「本当ですことよ………。調査兵団は私たちにとっても英雄ですもの………。」
そう言って、シルヴィアは今度は色香を漂わす夫人と含みのある笑みを交わしてはグラスを受け取り、軽く触れ合わせる。
……………恐らく。
心にも無いことを言っていることをお互いに理解し合っている表情だ。
だがそれは口にも態度にも出さず、ひたすら和やかに親密に。
「あ、あの………兵長。これは。」
ペトラはシルヴィアと違って未だ入口近く、自分の傍で動かずにいたリヴァイへと声をかける。
………彼は非常に不機嫌そうであった。
これ以上この場に足を踏み入れたく無い心持ちが態度にありありと滲み出ている。
リヴァイは…一度息を吸って、細く吐く。
それから後頭部を軽くかいてから、ようやくペトラの方を見た。
馴染みのある色濃い瞳に見つめられて、彼女はようやく心が安らぐ気持ちがする。
「……………気にするな、毎度あいつはこれだ。別人と思え。同一人物だと思うと頭がおかしくなりそうだ。」
だが、反対に彼は眉間に皺を寄せて低い声で零した。
……………周囲の人間はリヴァイの存在にだんだんと気が付いてきているようで……入口近くで立ち尽くす二人に更に視線が集中してくる。
一方シルヴィアは最早こちらに見向きもせず、大勢の人物と華のような笑顔を浮かべて会話に興じていた。
それがペトラの目にはとても遠く感じた。……距離としてはそこまで離れていないのだが、何故か。
「…………あのババアの食えないところだ。
よくもまあ自分を安売りしやがって……。だから俺は奴が嫌いなんだ。」
リヴァイの呟きは微かだった為にペトラの耳に入ることは無かった。
彼はもう一度溜め息をする。心底うんざりしているようだ。
……息詰まりなこの場所に、愛想を振りまくシルヴィアに、それからそして。
「まあ……、安心しろ。奴は常々職務怠慢な態度が目立つがここでは間違いなくどの兵士よりも手練だ。」
俺たちはただ奴が用意した場に同席していれば良いだけだ、とリヴァイは切り替えるように声を一段大きくして言う。
「ペトラ。」
そして未だに不安そうにしている彼女の名を呼ぶ。
ペトラは一層身を固くして彼の方を見た。
「仕事だ。やるべきことを実行しろ。」
それだけ言ってリヴァイは彼女の頭を軽くぽんと叩き、足を踏み出しては喧噪の中へと分け入っていく。
…………流石人類最強と徒名されるだけはあり、その周囲にはすぐに人集りが出来て……あっという間に姿は見えなくなってしまった。
一人残されたペトラは不安な白鳥のように孤独でたゆたっていたが……
やがて覚悟を決めたようにぎゅっと自らの掌を一度握ったあと、目眩がしそうなほど鮮やかなドレスや装飾品、そして対照的に真っ白い人の肌の色が渦巻く場へと進んでいった。
*
…………………三人は、三者三様の状態で固まっていた。
まずペトラに飲み物を手渡した男性は、グラスを差し出した掌の形のままで。
受け取った筈だったペトラは、グラスの中身を飲もうとそれを覗き込んで。
そしてシルヴィアは………ペトラの桜色の唇があてがわれる寸前にそのグラスをするりと奪い去り、相も変わらず華のある笑顔でにっこりと微笑んだ。
「…………見事なワインですね。色…匂い、申し分ない。さぞや高価なものなのでしょう…。」
尚も固まったままの二人へゆるりと向き直りながら、シルヴィアは穏やかな表情で言う。
「ですが……うちの新米兵士には勿体ない飲み物でございます。ここは私が頂いてもよろしいでしょうか?」
彼女の発言に、男性の顔色がさっと青くなった。
「待っ…………、」
だが彼の制止を聞かずに…シルヴィアは一口で透明なグラスの中、薄い赤色の液体を全て飲み干してしまう。
そして空になったグラスを彼に返しながら「やはり…味わい深いものですね。素晴らしい。」と言っては、また笑った。
……………彼は顔色を悪くしたままそれを受け取り、逃げるように…別れの言葉ひとつも残さず、辺りの喧噪に紛れていってしまった。
シルヴィアはその後ろ姿を見送りながら……「中々思い通りにはいかないものなんだよ…」と零しては唇のカーブを少しだけ緩める。
「いやあ、良かったよ!寸での所で気が付いて!!」
そしてペトラに向き直り、彼女の両肩に手を乗せるとほっとしたように言った。
ペトラは今夜初めて…久方ぶりにいつもの上官の表情を見た気がして、ふうと心が楽になっていくような気がする。
……場所が違って公の顔になってはいるけれど、やっぱりこの人は私たちの副長なんだと……。
そして、「……………?危なかった、って…どういうことですか。」と先程の彼女の発言に対する疑問を呈した。
シルヴィアはひとつ溜め息を吐く。そして少しだけ眉を下げて再び口を開いた。
「あれは有名なスケコマシなんだよね…。
まあよくある手口だよ。お酒に混ぜ物をしてひどく女性を酔わせるんだ……。そしてそれを介抱するという名目でさらってしまう。」
だから、無事で良かったよ……とようやく彼女の両肩から手を離そうとするシルヴィアに対してペトラは「ええ!?」と頓狂な声をあげた。
「お、おお……。びっくりした。でも大丈夫だよ、飲むのは回避できたじゃ「そういうことじゃなくて!!」
ペトラは必死な形相で訴えるようにシルヴィアに言う。
………常々大人しい彼女の突然の勢いにシルヴィアは驚いたようにした。
「だって今……副長、あのお酒飲んだじゃないですか…!!それも全部!」
大丈夫なんですか!?と……ようやく自分が非常に危うい状態に居たことを悟ったペトラが、顔色を青くして詰め寄る。
…………シルヴィアはそんな彼女の剣幕を前にして、少しだけおかしそうに…くすりとした。
「それならね、手品師とかがよく使う手だよ。……飲んでいるように見えて実は全く飲んでいないんだ。」
自らの取り乱しように対して裏腹な彼女のいたずらっぽい表情と発言に、ペトラは…え?と間抜けな声を小さくあげる。
「………色々仕込んであるのよ。万が一のことを考えて。」
だから心配しなくて大丈夫、と言いながらシルヴィアはペトラの綺麗に結われた髪を安心させるように優しく撫でた。
「そ、それじゃあ……さっきの飲み物はどこに……」
何だか今日は心配されては頭を撫でられてばかりだ、と思う。そしてペトラは彼女の離れゆく掌を眺めながら聞いた。
…………シルヴィアはまた、いつものにやりともにこりともつかない表情でふふんと笑った。
「………種も仕掛けも沢山あるけれど、それは秘密。」
そう言って彼女は軽く片目を瞑っては、人差し指を自らの薄い唇にそっと当てた。
それから辺りを見回して……少々恰幅の良い口ひげを蓄えた紳士を発見して「おお、」と声を漏らす。
「ね、ペトラ君。あれが今回君が相手をして欲しいクラナハ伯爵だ。
…………今から私が彼の元に挨拶に行くから…数分した後に自然と話に加わって来て欲しい。」
できるかな、と言いながらシルヴィアはペトラのちょっとした後れ毛を耳にかけてやった。
……………まだ先程の混乱から上手く抜け出せていないペトラは、ただ呆然と首を縦に振るしかできない。
「大丈夫。ペトラ君はいてくれるだけで場の雰囲気が華やかになるからね。傍に来てくれるだけで大助かりだよ。」
シルヴィアはもう一度、確認するようにペトラへと笑いかけた。
…………ゆっくりと、彼女はまたペトラの元から離れていってしまう。
筋の通った、凛然とした背中。
……………彼女が過ごして来た…短く無い兵士としての…そしてこの仕事と付き合った年月を思い、ペトラは少しだけやるせない気持ちになった。
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