銀色の水平線 | ナノ
◇ 雪とダイヤモンド 前編

「…………ふむ。」


シルヴィアは大きな姿見の前に立って一声そう漏らす。


「とても美しい、お似合いです」

それを眺めていた男性が微笑みながら言った。


彼女は「そりゃあ…ここのドレスを着れば誰だって美しくもなる。素敵だもの」とおかしそうに応える。

「光栄です」と彼はひとつお辞儀した。


「ペトラ君、どう思う。」


シルヴィアは、その視線を鏡から傍らに立ち尽くす部下へと移して尋ねる。

…………ペトラは慣れない高級洋裁店の中で非常に落ち着かない気分を味わっていた。

そうして、それと同時に眼前の副団長を改めて年齢不詳と思った。……十代と言うには艶やか過ぎるが、二十代ならば充分通るだろう。


「とても……綺麗です。」


正直な感想を述べれば、ありがとうと微笑まれる。

………しかし深い青色に冷たい銀色の糸で刺繍が施されたドレスは、彼女の無機質に白い肌を際立たせて少々不気味だった。


「…………。でも、少し露出が高いような気が」

「そうかもね。流石にこの年になると肌を出すのも見苦しいものがある。」

「あ、そういうつもりじゃなくて……」

「そう?」

「うん……、何と言いますか。副長……貴方はもう自分一人のものじゃないんですから……」


歯切れの悪いペトラに対してシルヴィアは少々不思議そうにした。

彼女が言わんとしていることを察することがまるで出来ていないようである。


「とにかく、貴方が露出高い服を着ると怒る人がいるんですよ……!」

「そ、そうなの。」

「そうなんです!!」


それってペトラ君のこと?とシルヴィアは急に語気を荒げた部下に驚いたようだった。

そうして傍らに背筋正しく控えていた先程の男性に「これに合うショールか長い手袋…腕まであるのね、を選んで頂けるかな」と頼む。

男は恭しくお辞儀をして店の奥へと消えていった。







山を下りて行くのなら

そこに住むあの人によろしく伝えて下さい

彼女はかつて私の真実の恋人でした


彼女に私のために亜麻布のシャツを作らせてください

縫い目も細かい針仕事もなしに

そうしたら彼女は私の真実の恋人になる


それを楓の小道で織るように言って

そしてそれを花の籠に集めるように

そうしたら彼女は私の真実の恋人になる




よく聞く歌だ。シルヴィアの口からしか聞いたことは無いが。

何故なら彼女の故郷のものだから。綺麗なこの人がどこからやって来たのか誰も知らない。

その音楽が好きなのだろうか。折々静かな時間に漏らされる旋律から、ペトラはそんなことを考えた。



「今日は貴重な非番だったのに付き合ってもらって悪かったね。」


調査兵団の公舎へと帰ってきたシルヴィアは、ペトラを自室へと招いて紅茶と簡単な菓子を振る舞っていた。


「いえ、私も楽しかったので……」


謝る彼女に応えてペトラは言う。シルヴィアは少し安心したようで、「そっか」と向かいで僅かに笑った。


暫時して、ペトラが小さく声をあげる。

シルヴィアはどうしたと訝しげにするが……彼女の膝に音も無く黒く毛深い同居人が乗っかっていくのを確認して、「こらこらやめなさい」とそれを諌めた。


「まったくしょうがないね。腐っても雄だ、若い女の子が来るとすぐこうなる」


猫は主人に対して愛想ない反応をした後、引き続きペトラの膝の上で甘えた素振りを見せる。

シルヴィアは呆れていたが、ペトラは満更でもない気分だったので……艶やかな黒い毛をそっと撫でてやった。気持ち良さそうにしている。



「…………でも、今日はついてきてくれて嬉しかったよ。やっぱり買い物は女友達と一緒に限る」


シルヴィアは紅茶を一口飲んでから切り出した。

ペトラは口の中にあった素朴な味のケーキを飲み込んでから「それは分かります」と表情を和らげる。

…………友達、と疑問もなく自然に言ってもらえたのがなんだか嬉しかった。


「本当は服なんてこんなにいらないんだけどねえ。見栄ってやつは彼らの世界で余程大きな意味を持つらしい。
お陰でこちらの財布の事情はカンカンだ」

「………副長そんなに貧乏な訳じゃないでしょう。」

「私の大事な大事なマネーをこんな暑苦しい着物の為に使えと!!??ごめんだよ!!銭子も札美も全部私のものだ!!!」

「……………。お金に名前つけてるんですか。」


それなのに、この猫は未だ名無しらしい。

喉の辺りをくすぐってやりながらペトラはそんなことを考えた。


「でも、わざわざ買わなくても貸衣装とか…他に手はあるのではないでしょうか。
買ってしまうと出費は勿論、かさばって大変じゃないですか。」

「できるだけそういうのも利用しているよ。……ただ貸衣装を使っているのをバレるとまた厄介だ。
噂の種を彼らに与えたくないんだよ。調査兵団の評判をこれ以上悪くしたくないし……純粋に傷付く。」

「副長も傷付くんですか?」

「傷付くともお。今日だって想像以上にお外が寒かったから咽び泣きたい」

「それは単に情緒不安定なだけでは」


シルヴィアは軽く肩を竦めて「冗談」と悪戯っぽく言う。「分かってますよ、それくらい」とペトラも堪らずに吹き出した。



…………確かに、今日は寒い。

暦の上ではすっかり春だと言うのに未だに辺りは冬の気配が色濃く立ちこめていた。

部屋の外では灰色の雲が重たそうに空を覆う光景が広がる。



「まあ……こんな無意味なことに金銭を利用するのは私だって不本意だから、安く済ます努力はしてるけれど……。
衣装を借りるとなると汚れたときに中々困る。」


シルヴィアがペトラと同じ方向、外の景色を眺めてぽつりと呟いた。

ペトラは少し考えるようにしてから「汚さないように気をつけたら良いんじゃないですか」と当たり前のことを返す。


「うん……。でも、気をつけても避けることができない場合もあるし……。
次にその衣装に袖を通す人のことを思えば時々、躊躇することもある。」


ペトラは彼女が言う意味が分からずに首を傾げた。

シルヴィアは未だに窓へと視線を向けたままである。


「………呪いのドレスなんて流行らないじゃないか。そういうのは十数年前に娯楽の題材にされつくした。」


続いた言葉から、ペトラはシルヴィアの膨大な蔵書の一角を見た。

勿論ミステリーや怪奇ものの書籍も各種揃っている。嫌いでは無いから時々借りるので…その場所はすぐに分かった。



「冗談」



また一言そう零してからシルヴィアは肩を竦める。

目を伏せて軽く笑う仕草から、これはきっと冗談じゃ無いんだろうなあと分かって……ペトラは眉をひそめた。


少しの間、部屋はしんとした気配に包まれる。

マッサージする手が止まったことを遺憾に思ったらしい猫が腹の辺りをふみふみと触ってくるので、ようやくペトラは我に返った。



「ああ……ペトラ君、見てごらん。」


猫に対する指圧を再開した彼女に対して、シルヴィアは囁くようにした。

言われた通りに外を見る。小さく声を上げた。


「こんな時期でも、まだ雪はふるんだね。」


シルヴィアは淡い溜め息を吐く。

ペトラは細かく舞い上がる白い結晶をじっと眺めては「……綺麗。」と呟いた。


「そうだね、綺麗だ。」


シルヴィアはそっと目を細める。

それから「少し待っててね」と言って立ち上がった。



やはりあの歌を軽く口ずさんでいる。暗いけれど優しい音楽。

でもどうしてか、不幸な曲に思えてならなかった。







戻ってきたシルヴィアは、深い緑色のビロードに覆われた平たい箱を持っていた。

ペトラの前に置いて、開けてみるよう促してくる。逆らう理由も無いので従った。


「わあ……」


思わずペトラは感嘆の声を漏らす。その反応にシルヴィアは満足そうにした。


「素敵ですね」


ありのままの感想を口にする。シルヴィアは嬉しそうに「やっぱり女の友達は良いものだね」と返した。


「これをね、ペトラ君にどうかなあなんて思って。」


しかし、続けられた言葉にペトラの顔からさっと血の気が引く。……首をぶんぶん振って、恐縮の意を示した。


「そんな風にしないで。私にはもう……ちょっと派手すぎるし。君にもらって欲しいのよ。」


シルヴィアは箱の中から連なっては輝く宝石の飾りを持ち上げる。……長さからして首にするものだ。


惚けてそれを眺めてしまう。……純粋な透明が眩しい。こんな光があるのかと思った。

水晶……?いやもっと堅牢なものだ。



…………しかしペトラは少し瞼を下ろして、やはり首を振る。


「………私、もらえません。勿論遠慮もありますが……それだけじゃないです。」


僅かに残念そうにするシルヴィアへと向かって、彼女は言った。


「呪いのダイヤモンドなんてそれこそベタじゃないですか。三流の作家でも今時そんなの……時代遅れです。」


シルヴィアは聞きながら苦笑した。「手厳しいね」と一言。


「それに私……シルヴィア副長ほど強くないです。まだ、行き場の無くしたものを背負っていく覚悟はありませんし……」


ペトラはそろりと手を伸ばしてシルヴィアから首飾りを受け取った。

ずしりと重い。ゆらゆらと繊細な輝きを卓上に落としながら、それは元いた箱に収まっていった。


「いやです、こんなの。まるで形見を預けられてるみたいじゃないですか……」


二人の視線がしばし交わる。

その時のペトラは、自分がどんな表情をしているのかよく分かっていなかった。でも、なんだか無性に悲しい気分である。


「…………そう。」


気が変わったらいつでも言ってね、とシルヴィアは食い下がらずその蓋を閉めた。

ぱたんと軽い音。部屋はいつもの光景に戻った。


宝石というのは不思議なものだ。存在するだけで空間を非日常へと導く。夢見心地な、けれど惑わされるような。


(こんなもの、毎日つけてたらそれこそおかしくなるわ)


ペトラは残りの紅茶を一口に飲んだ。

少し温い。そしてお馴染みの渋さ。しかしこれが嫌いでは無い。



「………あの、副長。」


ペトラは白いカップをソーサーに戻して、上官を呼んだ。

シルヴィアはいつものように穏やかに応える。自身の元に返ってきた猫を抱き上げて膝に乗せてやりながら。


「あの……。私、副長が好きなんですよ。」


ペトラの発言にシルヴィアは笑った。「照れるね」と言って唇に寂しい弧を描く。


「だから、副長がやってることを責めたりしませんよ。
………私は若くて経験不足ですから、きっとまだ納得は出来ていないんでしょうが。」


シルヴィアはペトラのことを真っ直ぐに見つめ返してくる。

………薄い色の光彩、黒い瞳孔。その奥でなにを考えているんだろう。分からない。分かりたいとずっと思っているのだけれど。


「でも……貴方と団長がやることだから意味はあるんでしょう。」


深呼吸をしてから、ペトラは笑おうと試みた。成功したかどうかは定かでは無い。


「ご武運を……と。今の私には、それしか。」


最後の言葉を辛そうに絞り出して言った。それに反してシルヴィアは綺麗に笑っている、ずっと。


ありがとうと礼を言われた。そんなの、と弱々しく返す。駄目だ泣いてしまいたい。そのまま呟けば、優しい子だねと褒められる。



窓の外には雪が深々と降り続ける。

やがて景色本来の色は失せて、全部白く覆われていってしまう。


シルヴィアと一緒にそれを眺めれば、また小さな歌が聞こえる。

弱い光を反射して輝く白い結晶と一緒に沈んでいくような声だった。



………やっぱり不幸な歌だと思う。


何故ならこれは結局不可能しか求めていないからだ。


この世のどこに、縫い目も細かい針仕事もなしのシャツが。洗いものが出来る乾いた井戸が。


『彼女』は二度と『私』の真実の恋人にはなれないに違いない。



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