銀色の水平線 | ナノ
◇ 雨のミルク 前編

「………………眠いです」


どんよりとした口調でサシャが零した。


「まだ始めて一時間も経っていないじゃないか……」

アルミンは呆れながら彼女の方を見る。

……既にその瞼は重そうであり、頬杖をつく姿勢は勉強への意欲を全く持って感じさせない。


「大体……やっとこさ訓練兵から卒団出来たのに、まだ座学の考査があるなんて聞いてないですよ…」

調査兵団なんかに入るんじゃなかった…とサシャは心底嫌そうにノートの上を転がる鉛筆をつついた。


「どこの兵団も幹部以外は定期的にやってるよ、考査は。身体能力だけじゃなくてこういうのもやっぱり必要なことだからね。」

「アルミンは得意だからそう言うんですよ…」

「サシャ、アルミンは貴方の為に時間を割いて勉強に付き合っている。文句を言ってはいけない。」


アルミンの隣で同じ様にノートを開いて何かを書き込んでいたミカサが顔を上げて言う。

サシャは応えの代わりに奇妙な呻き声をあげた。そして溜め息。

余程彼女は机に向かって勉学に励む行為が苦手と見える。


…………図書室の窓の外はしとしとと雨が降っていた。冷たい冬の雨である。

しかしその心地良い雨音が更にサシャの眠気を募らせていく。

分厚い雨雲の所為で室内は薄暗い。これをもう寝ろと言っているようなものだ。


「こらサシャ…そうやって怠けてばかりいると、どっかの良い加減な大人みたいになっちゃうよ?」

アルミンがコツンと鉛筆のお尻のほうでサシャの額を叩く。


「どっかの良い加減な大人……?」

「そう、決して参考にはしないように。」

「え?なんのことです」


どういう訳かアルミンは少々表情をしかめて背もたれに寄りかかる。

年季の入った木の椅子はぎしぎしと軋んだ。



「…………んー。ちょっと、目覚ましにそこいらを歩いてきます。」

「良いけど…。なるべく早く戻ってくるんだよ。君、このままでいくと割とそこそこ本格的にやばいんだから。」

「大丈夫、10分経っても戻って来ないようなら私が探しにいく。」

「うへえ…分かりましたよ。何ですか、ミカサはいつになく積極的ですね。」

「別に積極的ではない。ただアルミンの負担は軽減してあげたい。」

「…………はあい。」


サシャは目を擦って立ち上がっては…ふらふらとしながら入口の方へと消えていく。

その危なっかしげな足取りをする背中を、アルミンは苦笑しながら見守っていた。


「なんだかんだで……ミカサって面倒見良いよね。」


サシャの姿が見えなくなると、アルミンは自身のノートを見ながら呟く。

ミカサは何の事だと言いたそうな視線を彼に向けた。


「サシャのこと、結構気にかけている気がするから……。」

アルミンは穏やかに続ける。ミカサは表情を変えないままで「そんなつもりは…」と小さく言った。


「………ただ、勿体ないと思っているだけ。彼女はやれば出来ることが多いのにしないから。」

「まあ…サシャみたいな活発な人間はこういう風にじっとしているのを、少し退屈に感じてしまうんだろうね。」


それに応えながらアルミンは…ミカサは三年に及ぶ訓練、そして調査兵団に入ってから少しずつではあるけれど変わってきたなあと考える。

勿論良い方向へ。


家族、そして幼馴染の三人の間だけで完結していた彼女の世界は僅かながら広がっていっている。


(うん………。)


アルミンは一人悦に入って頷く。

そんな彼の様子をミカサはただ不思議そうに眺めていたが…やがて教本へと向き直り、再び勉学へと励み始めた。







(雨ですねー………)


外へと張り出した屋根の下、ぼんやりとしながらサシャは空を見上げた。

絶え間なく、細い糸になって天から垂れてくる。


(雨ってどこから来るんでしょう。)


ふと、そんな素朴な疑問が頭を過る。


この灰色の空の向こうに大量の水でもあるのだろうか。こんなに降り続いては、いつかは乾涸びてしまわないのか。

壁内が雨のときは、壁の外も雨なのか。どこまでも雨なのか。晴れとの境目は。


濃い色をした楢の葉が雨の重みで頭を垂れてしまっているのを前景とし、右によって尖塔がひとり雨空に聳えて居る。

濡れた屋根屋根、それを越すと煙る景色の向こうに黒い壁が一眸におさめられる。



「君は天気の境目をまだ見たことが無いのか」



ふと……すぐ横で聞き慣れない声がした。


(…………え)


雨音に混ざって、でもよく通って響いて、届く。


「私も一度しか間近で見たことはないけれどね。」


壁外を出てすぐは平野が続くから、運が良ければ見えることもある。と言葉は紡がれていく。


「あれは良い、せいせいする眺めだった。………まあ私が一番に目標にしている虹の裾は未だに未確認なんだがな、」


どうだ、今度一緒に目指してはみないか。中々付き合ってくれる人がいなくて寂しいんだよ



…………サシャはゆっくりと顔を上げて声がする方を見る。


驚く暇が無かった。


だって……この人は……いつここに来た?


音が、気配が……何も



「…………不思議な顔をしている。
ふふん、さては君も自身の考えが唇から漏れていたことをうっかり忘れてしまうくちだなあ?」



淡い光を伴った気味悪いくらい白い皮膚の輪廓は、煙った様に、雨空と周囲の黒ずんだ線から区切られている。


サシャは彼女を誰だか分かっていた。

きっと一方的に分かっているだけだと思っていた。調査兵団にいる人間なら誰しもが彼女を知っているから。


「こんなところでどうしたのかな、サシャ君」


けれど、シルヴィアは薄く笑ってはこちらを真っ直ぐに見て、自分の名前を呼ぶ。


「ははあ、サボりか。」


サシャの返答を待たずに彼女はおかしそうにした。


「それならお揃いだね」


こんな雨だ、やる気も大いになくなるものだよね…と呟く彼女がゆっくりと腕を伸ばして、サシャの茶色い髪を撫でる。


冬の雨と同じ様に冷たい掌だった。でも、優しいような気も少し。



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