05扉は開かれている
翌日私たちは縦一列に並んで街を歩いていた。
....すごく恥ずかしいのだ。マルコの顔が見れない。横に並んで歩くなんてもってのほかだ。
「クロエ、大丈夫?」
うつむき加減な私をマルコが心配そうに振り返って尋ねる。
「お、お気になさらず...」
非常に弱々しい声である。視線を合わせられず、目線は下げられたままだ。
「...?....ほら、こっちにおいで。」
「え」
手を引かれて横に並ばされる。
そしてその手が繋がったままマルコは歩き出してしまった。
......なんということでしょう.....頭が真っ白になった。
「?どうしたんだい」
「ど、どうもこうも....」
「でも懐かしいなぁ。昔もよくこうやって手を繋いで歩いたよね。」
「そうだね...」
「あの時はクロエの頭が僕の肩位だったんだけどね。本当に背が伸びたなぁ、羨ましいよ。」
「こんなに背が高くても...みっともないだけだよ...」
「そんな事ないよ。格好良いと思う。」
(格好、良いか....)
私は背だけが高くて中身が全く伴わない人間だ。今までも外見の印象と中身が違い過ぎる事によって色々な人を失望させてきた。
(情けないなぁ....)
手を引かれながらしょんぼりしていると、マルコが足を止めた。
「着いたよ」
随分と古ぼけた建物がそこに建っていた。
一階は定食屋らしく、今は『準備中』の札がかかっている。
マルコについてその脇の細い階段を昇る。
手すりは錆びていて、踏みつけるとぎしぎし鳴る階段が危なっかしい。
階段を登りきると、この建物同様随分と古ぼけていて、所々ニスが剥げた木製のドアが出現した。
「開けてごらん」
そう言われてドアを開けると、鼻孔に懐かしい独特の匂いがぶわりと舞い込んで来た。
「わ.....」
目の前の棚には様々な種類の溶剤が入った瓶が整然と並んでいる。
左の棚には絵具がきちんとグラデーション順に揃えられていて、右の棚には小さい箒程もあるものから毛先が針の様に細いものまで大中小の筆が収まっていた。
狭い室内には所狭しと画材がおかれ、天井近くの棚からは石膏像がほこりを被りながらこちらを見下ろしている。
「いらっしゃいませ」
声をかけられた方を振り向くと、眼鏡をかけた女性がカウンターの奥から現れた。
ゆるやかに結われた亜麻色の髪が美しい。
「あら、誰かと思えばマルコ君じゃないの。」
そう言って髪を耳にかける彼女の動作ひとつひとつに優雅な雰囲気が漂っていた。
「お久しぶりです。」
「彼女がこの前連れてきたい、って言っていた子ね。こんにちは、ここの店主です。」
眼鏡の奥で長い睫毛に縁取られた目が私を捕える。
「こんにちは...クロエです...。」
「とても可愛らしいお嬢さんね。二人で並んでいるとお似合いのカップルだわ。」
「カっ....!?」私の顔中に熱が集まった。
「あらあら、照れないの。でもわざわざいらしてくれるなんて嬉しいわ。クロエちゃんは絵が好きなのかしら。」
.....私は絵が......どうなのだろう.....夢を諦めた私に、好きという資格はあるのだろうか.....
「....よく、分からないです....」そう言って目を伏せた。
「あら駄目よ、嘘ついちゃ。」
「え...」
「もう何年もこういう商売をしているんですもの。絵を愛している人かどうかは目を見ればすぐに分かるわ。」
そう言って彼女は柔らかく笑う。
「私はもう描くのをやめてしまったんです...」
その瞳がきらきらとしてあまりに綺麗なので、思わず目を背けてしまった。
「クロエちゃん....絵描きに必要なものってね、忍耐と努力や知恵と注意、色々あるけれども....一番大事なのは誠実さなのよ。
今何をしたいのか....どうなりたいのか....自分に誠実に生きないと、きっと後悔するわ。」
私の肩に置かれた彼女の手はしっとりとした熱を持っていて、そこから言葉が直接体に入り込んで来る様だった。
「さ、じゃあ今日はお近づきの印に何か好きな物をひとつ持って行っていいわ。お店の中は物が多いから転ばない様に気をつけてね。」
仕切り直す様にそう言うと、店主さんは優雅な足取りでカウンターの中へ戻っていった。
「素敵な人ね...」
「そうだね。彼女目当てにこのお店に通う人もいるらしいよ。」
マルコと話しながら店内を見て回る。どれでもひとつ持っていって良いと言われると逆に迷ってしまう....。
絵具を買っても筆が無ければ描けないし、オイルだけあっても仕様がない。
油絵を描くならキャンバスも必要だ....。絵を描くのはお金がかかるなぁ...。
「よし」
そう言って私が手に取ったのはスケッチブックだった。
これなら鉛筆一本あれば絵が描ける。色が使えないのは残念だが...
「スケッチブックかぁ....なんかいいね。」
「?何がいいの」
「うーん、真っ白でさ、何にでもなれる可能性があるっていうか...希望みたいなものを感じるからかな。
...っと、ごめん。なんか変な事言っちゃったね。」
「そんな事ないよ。素敵な事だと思う....」
ありがとう、と言って彼は照れくさそうに微笑んだ。
「店主さん、本当にありがとうございます。」
「ふふ、素敵なもの選んだわね。」
店主さんは深緑の紙でスケッチブックを包んでくれた。....わざわざスケッチブックにリボンまでかけなくてもいいのに....
「だってこれは私からクロエちゃんへのプレゼントですもの。」
だそうだ。
「それにしても若くてかわいい二人が羨ましいわ。私もあと50年若ければね...」
「ご、ごじゅ....?」ちなみに彼女はどう見ても20代に見える。
「冗談よ...」
クスクスと笑う仕草はどこか妖艶で、もしかしたら見た目よりずっと長い年月を生きて来た魔女なのかもしれない、と思ってしまった。
*
「マルコ、今日はありがとう。」
「僕は何もしてないよ。それに僕もクロエと久しぶりに沢山話せて楽しかったよ。」
「そ、そうかな...私もとっても楽しかったよ...」
行きと違って横に並んで歩きながら私たちは帰路を辿っている。
「そうだクロエ、これは僕からの今日付き合ってくれたお礼。」
思い出した様にそう言うと、マルコは深緑の紙に包まれた物体を手渡してくれた。
「え?....そんな...いいの?」純粋にびっくりしてしまった。
「うん、開けてみて。」
促されて紙をぺりぺりと剥がすと、中から色鉛筆のセットが現れた。
「本当は絵具を買ってあげたかったんだけど高くてね...こんなのでよかったら使ってくれないかな。」
はにかみながら言う顔がとてもかわいい。
「ありがとう...でも悪いよ...」
「じゃあさ、その色鉛筆で絵が描けたらそれをもらってもいいかな。これで貸し借りはなしにしよう。」
「....そんなのでいいの?」
「そんなのって....僕はクロエの絵のファンだよ?もっと自信持ちなよ。」
そう言って私の頭をぽんぽんと叩いてくれた。
マルコは優しすぎる。
その優しさに私はいつも甘えてしまうのだ。
(自分に、誠実に....)店主さんの言葉がふと頭をよぎった。
....できる事なら手を繋ぎたい。そばにいたい。もっと話をしたい。
(まだそうしたいと言える勇気はない....
でも、いつかは貴方に...この思いを伝えられる位強くなりたい...)
夕暮れの街はだんだんと茜色に染まり、二人の影を長くしていった。
扉:境界や通過を表す。
また、中世以来教会の扉は聖書や教義を表す浮き彫りによって装飾される様になり、
それによって無学な民衆への信仰への扉の役割を果たした。
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