月と酒
……………身体をしっかりと抱かれた。
こうしてもらうのはきっと初めてだと思う。
固い抱擁の中で、肩越しの月を眺めながらクロエはほんの少しの安堵を感じた。
彼はずっと謝っている。小さな声で、やりきれないとでも言う様に。
もういいよ。大丈夫。
そんなに謝らないで。
そう言ってあげたかったけれど声にはならなかった。
どういうわけだか喉に栓をされたように何も言葉を扱うことができない。
だから無言で…せめて自分からも腕を回した。
そうして……、うん。これが最後なんだろうなあと感じる。彼もまた同じことを考えたに違いない。
無責任としか言いようが無い。けれど、どうか幸せになって欲しい。
それだけ言い残されて、その人とは二度と会うことは無かった。
寂しいけれど、良かったのかもしれない。
最初で最後でもきちんと愛してもらえて嬉しかった。
………幸せだったと胸を張って言うことが、できると思う。
*
(転生、結婚後)
クロエはアニの白い…今は少し紅く色付いている…に軽く触れる。
………無反応のことを確かめてから少しだけ摘んでみた。想像以上に柔らかいのがおかしかった。
「………寝ちゃったみたい。」
彼女は向かいに座るマルコにひっそりと報告する。
マルコもそれに応えて穏やかに微笑した。二人は顔を見合わせてしばらくくつくつと楽しそうにする。
…………ひとしきり笑い合った後、マルコも隣で机に突っ伏しているジャンをちら、と見た。
「…………多分こっちも夢の中だ。」
「えへへ、飲ませ過ぎちゃったかなあ」
「クロエも少し控えた方が良いと思うよ……」
「大丈夫だよ、お酒は百薬の長なんだから」
「そんな親父臭いこと言って……」
マルコは……机の上に置かれた、クロエがほぼ一人で空にした酒瓶の数々を眺めて溜め息を吐いた。
…………遠くない未来に子供が出来たとき、この娘はきちんと禁酒が出来るのだろうか。
そんなマルコの心配とも将来への期待とも言える考えにクロエは気が付かず、隣のアニの頬を触っては「アニはかわいいねえ」などと零している。
………勿論意識の無いアニにその言葉は届いていないのだが。
「それにしても……アニがここまで無防備に酔っぱらう姿って珍しいな」
「そうかなあ?」
「うーん、アニってきちんとしていると言うか…隙を見せないイメージが強いから」
「そんなことないよ、アニってば結構おっちょこちょいで可愛いんだから」
クロエはこれだけの量を飲んでも未だにほろ酔いらしい。
至極嬉しそうににこにことしながら眠りこんでしまっていたアニの頭を優しく撫でていた。
その仕草に沢山の愛しさが内包されていることは、眺めているマルコにもよく伝わってくる。
「………お前は本当にアニが好きなんだな…」
と零せば、淀みの無い声で「うん、大好き」という答えが返って来た。
「マルコだってジャンが大好きでしょう?」
「いや……まあ、大好きと表現するのはかなり抵抗があるから言わないけれど…」
勿論嫌いでは無いよ、と言ってマルコはすっかり耳まで紅くなってしまっている親友を見下ろした。
………少し、しんとした空気が室内を満たす。二人は心地良い沈黙に感じ入っていた。
クロエはゆっくりと瞼を下ろす。じんわりとした感覚が身体を巡っていくのが分かった。
再び瞳を開くと、マルコが安らいだ様子で彼女のことを見守っている。
応えて笑い返した。アルコールの所為で非常にしまりのない表情ではあったが。
「………少し、出る?……外。」
そう呟いて彼がベランダを視線で示す。
クロエが無言で頷くと、マルコは立ち上がり彼女の近くまで来ると自然な動作でその掌を取った。
促されて立ち上がり、二人は手を繋いだままで窓へと向かう。
ガラス超しの青い闇の中ではぽっかりと黄色い月がたったひとつ浮かんでいた。
綺麗だねえ、と舌足らずにクロエが言えば、マルコも綺麗だね。と同じ言葉を繰り返す。
握り合った掌の力が少し、強くなった。
*
…………外は冬らしくきんとして空気が冷たい。
暖房が効いた室内との温度差が、高くなっていた二人の体温には心地良かった。
「今……月がある景色の絵を描いているんだ。」
ふいにクロエが口を開く。マルコはふうん、と相槌を打った。
「珍しいね。クロエの絵は明るい風景が多いのに。」
「そうだね。……夜景は描くの初めてかも。夜って暗くて心細くて…あまり好きじゃなかったから。」
「何か心境の変化が?」
「うーん……」
クロエはゆっくりとマルコの方を見た。マルコもまた同じ様にする。
風が沙椰と吹いて彼女の髪と、それを結わえた水色のリボンを揺らしていった。
「夜も綺麗なんだなあ、ってこの年になってようやく思えるようになったからかなあ……」
「………そっか。」
「もっと言うと、……もう夜になっても心細くは思わなくなったから、ね。」
クロエは繋いでいた手をしっかりと握り直す。
マルコは何だか恥ずかしくなって、それを隠す為に曖昧に笑った。
「心細かったんだ……」
そして呟く。
「うん。」
クロエは正直に答えた。
「………。ごめんね。」
「……もういいよ。大丈夫。そんなに謝らないで」
クロエは少し困ったようにする。……謝らせるつもりはなかったのだ。
「今は、昼も夜も……晴れた日や雨の日、春夏秋冬も全部好きだよ。
どんな時も綺麗な景色が必ずあると思うから…。」
何よりも、マルコや皆が傍にいてくれるからね。と言ってクロエは心から幸せそうにした。
「………クロエ、ちょっと酔ってるね」
いつになく素直な彼女の発言が嬉しくてでも照れ臭くて、マルコは一度咳払いする。
クロエは相変わらずふにゃりとした笑みで、それはもう…と答えた。
マルコは少し呆れながら溜め息を吐いた後…ゆっくり繋いだ手を離して、彼女の肩を抱く。
………願わくばもう少し身長が低くなって欲しいのだが。
だが自分の行為を嬉しそうに甘受するクロエの笑顔を前に、そんなことは些細なんだと考え直す。
ぴったりと身を寄せて、二人はもう一度黄色く円い月とその背景の夜空を眺める。
一点の曇りもない冴えた景色で、遠くのビルや街灯りまで煌々とよく見えた。
………まだ、あそこでは人々がせわしなく行き交ったり話したり、仕事に勤しんだりしているのだろう。
だがそんなことも感じさせないほど静かな、見渡す果てもなく一面に銀泥を刷いたように白い光で包まれた綺麗な風景だった。
唐突に……幸福であるという実感が、クロエの胸の内で大きく光った。
そうしてそれはこれからも続くに違いない。根拠は無い。けれどこの感覚はとても尊いことだ。
(…………お父さん)
クロエは且つて自分のことを抱いてくれた人を呼ぶ。当たり前だが応えは無い。
………こちらで生を受けた時、両親の姿は違った。平凡な、しかし自分を優しく大切に育ててくれる人たちだった。彼等とは違う。
(今……どこかにいるのかな)
もしそうなら伝えたいなあと思う。
ちゃんと幸せになれたのだということを。やはり言葉にはならないけれど、今度こそ確かに。
クロエは隣にいる愛しい人の体温を感じながらそっと瞼を下ろす。
月明かりは眩しくて、瞑った瞳の奥でもしばらくその光は宿り続けていた。
*
「…………………。」
室内で、身を寄せ合うクロエとマルコを眺めていたジャンが盛大に溜め息を吐いた後…立ち上がった。
「………どこへ」
端的にアニが尋ねる。二人とももうすっかり酔いは覚めていた。
「帰んに決まってるだろ。もう色んな意味で腹が一杯だ」
「………そ。でも片付けはしていきなよ」
「へいへい……。そう言うお前はどうするんだ終電なくなるぞ」
「泊まって行くに決まってるでしょ」
「決まってるのか……。意外と面の皮厚いのな」
「今帰ってあれを二人きりにしてみなよ。間違いなく間違いが起こる」
アニは持っていた水の入ったコップを勢いをつけてテーブルの上に置く。中身が跳ねてやや飛び散った。
「いや……結婚してんだから別に間違っちゃいねえだろ……。」
ジャンのぼやきに似た言葉にアニは無反応を貫く。いつも以上に不機嫌そうに腕を組むだけだった。
「お前もなあ…。良い加減納得しろよ」
「納得するかどうかは私の勝手だよ。あんたに口出しされる謂れはない」
「分かりましたよ…っと。……………つくづく難儀な生き方してるな、お前も。」
そう言ったジャンの顔の脇を翳めてコップが飛んでくる。
ジャンは苦笑しつつそれを受け止めた。アニが小さく舌打ちする。
「まあなんだ…今夜も世はすべてこともなし……だな。」
良い事だ、と零したジャンの言葉にやはり誰も返すものは無かった。
*
…………月夜の絵だ。
男はそれを眺めて溜め息を吐く。
純粋に美しい景色だと思った。何人もの人間がそれの前で足を止めて、細かく描き込まれた樹々や星のひとつずつを眺めていく。
沢山並んだ絵の中で、これが、これこそがこの絵なんだと男は分かっていた。
館内は暖房が効いて非常に温かだと言うのに、とても寒く感じる。震えが止まらない。
見ているうちにもっとひどく、立っていられないくらいに震えてくる。
「…………クロエ」
男はか細い声で名前を呼んだ。且つて娘だった人間の名を。今は他人だ。繋がるものは何も無い。
でも、確かにあれは俺の子供だ。これからも会う事は無い。けれど俺の子供だ。
「お前……幸せか」
その問いかけは雑踏の中に消えていく。だが、答えは返ってくる。この画が何度でも答えてくれる。
男は笑った。
立ち去りながら無言のままで、今夜は月を見てみようと考えた。
きっと綺麗だろう。そしてそれを見ながら飲む酒は、美味いに違いない。
藤乃様のリクエストより
結婚後のお話で、マルコとジャンとアニと一緒に四人で宅飲み。で書かせて頂きました。←[
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