アニとあんぱんと青空 前編
(転生後、女子高生設定)
アニは廊下に展示されている絵を眺めていた。
静かな絵だった。
全体に深い青の画面で、空と湖が描かれている。
鏡の様な水面は黒く連なる針葉樹の森をそのまま映し、空と水とに二つの月があった。
そして....その奥には、
(.......壁?)
石を積み上げて造られたのだろうか。.....高く、長い壁だ。どこまでも続いて、画面を横切っている。
....こんな壁は世界の何処にも...いや、中国に似たものが...違うな、前景があの国とかけ離れ過ぎている。
「あ、クロエの絵だ」
「ほんとだ。キレーだねえ。」
「あの子は身長と絵にステータス全振りし過ぎだと思う...。」
「他は駄目駄目だしねえ」
「ねえ」
通りかかった女生徒の楽しげな会話を断ち切る様にアニが声をかけた。
二人は身を固くする。アニはいつでも...そして今も...近寄り難い雰囲気を醸しているので、傍に寄ると多大な緊張を強いられるのだ。
「.....クロエって...誰?」
そう聞けば、しどろもどろになりながらも彼女たちは話し出す。
「えっと...背が、高くて...絵がうまいんです...」
「それはさっき聞いた」
「あの...五組の生徒で...美術部で...」
「...美術部?活動している所なんて見た事ないよ」
「部員は彼女一人だから...。」
「それに、クロエは...こっちの美術室じゃなくて旧校舎のを使っているから、...あ」
彼女達の言葉が終わる前にアニは背を向けて歩き出してしまう。
その後ろ姿を呆然と見送った後、二人は小さく溜め息を吐いた。
*
全ての講義が終わり...放課後となる。
この時間が嫌いだ。
昼の終わり、夜の始まり....。その不安定な時間帯が、居場所の無さ、自身の孤独の影をより濃くするから。
上履きから黒いローファーへと履き替えて外に出ると、辺りは不気味な程赤く染まっていた。
その中へ、一歩、一歩足を踏み出し.....
.......ふと、振り返ると、低い太陽が灰色の洋風建築...木造の旧校舎の上に留まっていた。
この時刻、建物は悲しげに遠い地平へ落ちてゆく茜色を眺めているかのように見える。
.....足はふらふらとそちらへと向かう。
頭の中で、こんな事はやめて早く帰ろう、と自分に言い聞かせた。
しかしそれは適わず.....いよいよ足は、黴臭い旧校舎へと踏み入って行く....
*
......何故来てしまったのだろう。
旧校舎の廊下は、踏みしめると酷い軋み方をする。
板壁の釘が腐って落ちかけていた。屋根は低く、圧迫感を感じる。
ニスの剥げかけた木の格子に囲まれた張り出し窓から空を見ると、そこは徐々に薄紫に変わりつつあった。
灯りが...漏れている部屋がひとつ。
湿った黴臭さと、それに混ざって明らかに異質な匂いがする。
慣れている者にはどうという事は無いのだろうが、自分には刺激が強過ぎる。
これでは...画家に短命が多いのも頷ける。
『第二美術室』
文字が辛うじて読めるプレートがドアにかかっている。
....第一美術室もあるのだろうか。どうでも良い事を考えながら、それを少しだけ開けて中を覗いた。
頼りない電灯の下....薄汚れた...元は白かったのだろう...石膏像が置かれている。
すぐ傍に絵具がこびりついたイーゼルが置かれ、その上に先程の石膏を描いた木炭デッサンが乗せられていた。
(.....誰もいない)
電気は点いているにも関わらず、人の気配は無かった。
それにほっとして中に入る。
.....今はデッサンをしているが、普段はやはり油絵を描いているらしい。
床には揮発性油や亜麻仁油の空瓶が転がり、ここを使用している生徒がややズボラである事を知らせていた。
木炭デッサンは、黒い背景に真っ白な石膏像が浮き上がる様にして描かれていた。
灰色に見える程汚れたこの像が、彼女にはここまで白く見えるらしい...。
「あれ、珍しいなあ」
ゆったりとした口調が背後から聞こえた。思わず肩が跳ねる。
「ここは幽霊が出るとか噂があるから来る人はあんまりいないんだけど...」
....先程自分が入って来た扉からだ。声は徐々に近付いてくる。
振り返らずに「.....うまいね。」話しかけると小さく笑う気配がした。
「ありがとう。」
礼を述べながら、すぐ後ろに彼女が立った。..自分より随分背が高いのが、振り返らずとも分かる。
「貴方はどうしてここに?あぁ、もしかして美術部に入部したいの?」
期待のこもった明るい声がした。
そして肩に手を置かれて...顔を覗き込まれた。...途端に、彼女の顔色が蒼白なものに変わる。
「....うそ....」
眼を見開いて、じっと見つめられる。
.....しばらく、古びた教室の中は時が止まった様だった。
彼女の髪を結わえた水色のリボンがいやに鮮やかに見える。
その向こう、遠くの方に、頭や腕のない石膏の女人像が一面に埃におおわれたまま転がっていた。
「...アニ?」
彼女の口から自分の名前が呼ばれる。
....私の名前を、知っている....?
「やっぱり、貴方ね....。」
そう呟くと、彼女は心から嬉しそうに眼を細める。
そっと、首に白い腕が回った。...冷たい。まるで、本当に幽霊の様な、とり憑かれてしまいそうな、....
「久しぶりね、アニ」
耳元で、愛しそうに切なそうに囁かれた言葉に反応して、脊髄から恐怖がせり上がる。
激しい動揺に見舞われ、思わず自分を抱き締めている人物を突き飛ばしてしまった。
彼女は寸での所で踏みとどまり、ぽかんとした表情をこちらに向ける。
「.....初対面の人間に、いきなり抱きつくなんてどういうつもり...」
気持ち悪い、と軽く睨みながら言葉を放つと、今度は彼女の瞳に動揺の色が浮かんだ。
それから、目を軽く伏せ...「そう、覚えていないの...」と呟いた。
「ごめんなさい、知り合いに似ている人がいるから、」
ちょっと、ね...と彼女は寂しそうに笑った。
「それで...こんな所に来て、どうしたの?」
気を取り直す様に明るい口調で彼女は言う。
「....特に、用事は...」
「あ、分かった。やっぱり美術部に入部したいのね?」
「それは絶対に無いから」
「じゃあ私と友達になりに来たとか?」
「もっと無いから」
「私はクロエっていうの。よろしくね」
「話を聞きなさい」
「そして美術部にも入っていきなよ!」
「耳ついてる?」
溜め息をひとつ吐き、バックを肩にかけ直す。
入口へと向かおうとすると、後ろからクロエが「何処へ行くの?」と声をかけて来た。
「....帰るに決まってるでしょ」
「そっか...。....じゃあ私も一緒に「却下」
アニのあんまりな返答にクロエはしばらくショックで固まる。
「.......馴れ馴れしくしないで。」
首だけ動かして後ろを睨みながら言った。
「うん....」
小さな小さな声でクロエは返事をする。
とても悲しそうな表情をした彼女を一瞥すると、アニは振り返らずに美術室を後にした。
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