愛しい雨 | ナノ


子供になる 後編  


「......結構深いな、こりゃ」

訓練が終わった直後、宿舎へと戻って来たジャンはマルコの上腕にできた傷を見ながら呟いた。

「いや....見た目は結構派手に血が出てるけどそんなに大した傷じゃない。医務室に行かなくてもこれ位なら自分で.....」

そう言いながら食堂の前を通り過ぎようとした時、ハッと思い出した様にマルコがその入口に近付く。

部屋に一人で閉じ込めるのも可愛そうだろう、という事で食堂の中にスケッチブックと一緒にクロエを置いておいたのだ。

......基本的に絵を描かせておけば一日中ぴくりとも動かないから何処かに行ってしまう事はないだろう....というのが理由である。

しかしマルコは正直心配していた。クロエはしっかりしている様で相当抜けている人間だ。何事も無いと良いのだが.....


食堂の入口から中を覗くと、隅の方の椅子にちんまりと座って懸命にスケッチブックに何かを描き込むクロエの姿があった。

集中している。扉を開ける時にそれなりの音はした筈なのに全く気付いていない。

「クロエちゃん」

マルコが声をかける。反応無し。

「クロエちゃん」

今度はもう少し大きな声で呼びかけると、ようやく顔を上げたクロエと目が合う。

声をかけて来た相手がマルコだと分かると、彼女は嬉しそうに笑い、すぐに席から立ち上がって入口に近付いて来た。

マルコとジャンも彼女が無事だった事に安堵しながらそれを迎える。

......が、クロエが手を伸ばしてマルコへと抱きつこうとした時、その表情にぴしりと亀裂が入った。

二人は不思議そうにそれを見つめる。

一日中ずっと和やかだったクロエの顔がさあと青くなって、いつもやや下がっている眉が更に下がり、口を手で覆っておろおろとし出す。

そして首を小さく振ってからそろりとマルコの傷...今も血が出ている...がある上腕に触れてその傷口を眺めると、勢い良くどこかに駆け出してしまった。


「.....あいつ、どしたんだ?」
ジャンは呆然としながらその小さな後ろ姿を見送る。

「いや...分かんない。」
マルコもまた首を傾げた。


....すぐにクロエは戻って来た。手に大量の...持てるだけの包帯、ガーゼ、絆創膏、消毒液....他にも他にもを持って。

何となく事情を察したジャンは「あー....落ち着け、クロエ。」と言い、とりあえずマルコとクロエを食堂の中に促した。

マルコを向かい合う様に座らせ、クロエが持って来た大量の救急道具の中から扱いやすそうなものを選んで処置を進めて行く。

その間も、クロエは今にも泣き出しそうな表情で治療の様子を見つめていた。

「大丈夫だよクロエちゃん。これ位はすぐに治るから....」
マルコが困った様に空いている方の手で彼女の頭を撫でた。

それでもクロエは表情を和らげない。

「あんまり見んなよ。やりにくいだろうが」
ジャンがうんざりした様にクロエに言うが、彼女の耳には届いていない様だ。

終始手は落ち着き無く組んだり解いたりを繰り返し、マルコが消毒液がしみた所為で小さく声を上げた瞬間などはこの世の終わりが来たような顔になって怪我をしていない方の腕にぎゅうと縋り付いてしまった。

「.....よし。確かに全然深くは無かったな。数日経てば塞がるだろ」

治療を終えてジャンがマルコの傷口を包帯の上からぺしりと軽く叩く。
思わずマルコが「いたっ」と漏らすとまたしてもクロエの顔色が青くなっていってしまった。

「あー、悪い。じょ、冗談だ。」

クロエのあまりの慌てぶりに遂ジャンは謝ってしまう。

彼女はマルコの包帯に覆われた傷口に手を伸ばし、そろりと触れた後、眉を思いっきり下げた顔で彼を見上げた。

心配で心配で堪らないであろう彼女には悪いが、マルコはその真剣な眼差しが何だかむず痒く、目の前の少女がとても愛らしく思えた。


「......ジャン。僕、クロエが落ち着くまで少し外歩いて来るよ。夕食までには戻るから....」

自分の事をじっと見つめて来るクロエの頭をもう一度撫でてからマルコはジャンにそう告げる。

「お、おう。」

特に止める理由も無かったジャンは手を繋いで食堂の入口へと向かう彼等の背中を見送った。

それから机の上にこんもりと置かれた大量の包帯やら何やらを眺めて、「これ...オレが片付けんのかよ」と思わずぼやく。

はあ、と溜め息が口から漏れた。

消毒液の瓶をひとつ持ち上げ、そのラベルの文字を何となく目でなぞる。

それから二人が消えて行った入口に視線を向けて、「......心配しなくてもクロエの一番は今も昔もお前だよ....」と呟いた。







外は夕焼けが収まりつつあり、藤色の夜空がそこまで迫っていた。

二人は手を繋いで無言で歩く。マルコは何だか少年時代に戻ったような気がした。

想いが通じて付き合う様になった二人は、実はまだ手を繋ぐのが少し恥ずかしかった。

だが、昔はこうして全く持って自然な動作として、よく手を繋いだものだったのだ。


太陽のその日最後の光を宿した赤い雲が林の中にある静かな池の水の上に映っている。その周囲には花が白・黄・紫に咲いていた。


クロエがふとそれに目を留める。そしてようやく表情を柔らかくして、綺麗だねと言う様にマルコの事を見上げて微笑んだ。

自然とマルコも笑い、丁度落ち着ける場所を探していたので、ここにするか...と腰を下ろす。クロエもそれに倣って隣に座った。


しばらく二人の間には全く会話が無かった。
それでも居心地は悪くなく、むしろそれが自然な事の様に昔が思い返されるのであった。


「.....クロエちゃんはさ....昔から僕の事になるとひどい心配性になってたよね....」
ぽつりとマルコが呟く。

「風邪引いたりしたらそれはもう大変でさ....皆病人の僕より君の事を心配してたのをよく覚えてるよ」

クロエは膝小僧を抱えてその話に耳を傾けていた。

「僕、小さい頃はそれについて何か落ち着かないな...位にしか思ってなかったんだ。
.....君の優しさに気付けなくてごめんね。」

ゆっくりとクロエはマルコの事を見上げた。マルコもまたクロエを見る。

小さく幼いがやはり彼女はクロエだ。今も昔も変わらない、僕にとってただ一人の....

「クロエ。いっつも....何でそんなに僕を大切にしてくれるの...。」

静かな声が空の色を映してすっかり群青色に変わった池の上を滑る様に広がって行く。

これはずるい質問だったろうか。何故なら答えはすでに察しがついていたからだ。

......それでも、聞きたかった。


クロエは柔らかく笑って目を細める。

それから言葉を探す様に少しの間中空を見つめた後、小さな声で「好きだから....」と答えた。

「....私はずっと貴方の事が好きだから。私が勝手に心配して、勝手に好きでいるだけだよ....。
だから、マルコは何にも気にしなくて良いの。」

今日、彼女は一番長く喋ったのでは無かろうか。

何だか照れた様に目を伏せて再び膝小僧を抱え込む姿を、マルコは惚けた様に見つめた。

それから幸せそうに笑って彼女の頭を優しく撫でる。クロエも頬を染めながらもそれを受け入れた。


「....ありがとう。」

嬉しかった。本当にクロエは昔から自分を好きでいてくれたのだ。それに気付かなかった僕は相当鈍感だったらしい。

「君はこれから大きくなって....それでもずっと変わらずに僕の事を想っていてくれたんだね....」

彼の言葉をあまり理解できていないクロエは首を傾げた。

「.......そうかあ.....クロエはやっぱりクロエちゃんだったんだなあ....」
マルコは当たり前の事を呟いて空を見上げる。

藍色に変わったそこにはひとつ星が瞬いていた。

それを見つめていると、想われる事はこんなにも幸せな事だったんだな...という清々しい実感が胸に湧き起こった。


「......クロエ。」

返事は無い。相変わらず無口だ。

「僕も好きだよ.....。」

やはり返事は無い。昔はこれで会話が成立していたのだから凄いものだと思う。

「.....行こうか。お腹が減ったね。」

そう言って手を差し出して立ち上がろうとすると、逆に彼女の方にくいと服の袖を引っ張られる。

それに合わせて屈むと、クロエはマルコの耳そっと顔を近付けた。そして、自分の小さい声が確実に彼に届く様に手を添えて一言囁く。


「.......大好き。」


......本当に微かな、小さな声だった。しかしマルコの体温を上昇させるには充分過ぎた。

やや赤くなった顔で彼女を見つめて、はあと息を吐く。


「......クロエ。クロエちゃんのままでも充分可愛いけどさあ....やっぱり、早く元に戻ってよ....」
そう言いながら今度こそ立ち上がってクロエの手を取る。

「.......これじゃあ、何もできないじゃないか.....」

やはりその意味をよく理解できていないクロエは再び首を傾げた。

しかし、マルコと手を繋げた事が嬉しかったのかやがて穏やかに笑って隣に並ぶ。



無人になった池の端では、夜の空を映して底光りのする水面に沢山の星のかげが浮いていた。

枯れた樹の梢にぼんやりとした三日月のかかっているのを見ることもできる。

二人はなるべくゆっくり歩きながら、宿舎への道を辿るのだった。







「クロエ、おはよう。」

翌日、アニと並んで朝食を摂っていたクロエの正面にマルコとジャンが座って来る。アニは非常に嫌そうにそれを見つめた。

「うん、おはよう....」

何だかクロエはぐったりとしている。心配になったマルコが「どうしたの?」と尋ねた。

「......うん、何か体中が痛い....。」
間接を揉みほぐしながらクロエが答える。

「そりゃお前、成長痛だな。」
ジャンがパンを食べながら口を挟んだ。

「えぇ!?これ以上伸びるの?」
クロエがショックを受けた様に応える。

「まあ痛くもなるんじゃない...。50cm以上背が伸びれば....」
アニがぼそりと言った。

「50cm!?一体何の話をしてるのアニ!?」

どうやら昨日の記憶はさっぱり無いらしい。

誰も何も返答してくれないのでクロエは諦めた様に食事を再開した。


「......おはよう。」

そこに頭上から挨拶が降って来る。「.....おはよう。」と意外な人物からの挨拶にクロエは戸惑いながらも返した。

しばらくベルトルトはクロエの事を見つめてはあ、と溜め息を吐く。

「おい、何朝っぱらから人の顔見て溜め息ついてんだよ」

ジャンが非難する様にベルトルトに声をかけるが、それは全くもって聞こえていないようである。

ベルトルトはしばらく無言で考え込む様に顎に手を当てるが、やがてクロエの頭をよしよしと撫でた後、「.......クロエは調査兵団が向いてるよ」と呟いて去って行った。

残された一同はぽかんとその後ろ姿を見つめる。

クロエに至ってはさっぱり意味が理解できないとばかりに目を瞬かせていた。


「ま、まあ....とりあえず飯食おうぜ....」

ジャンの言葉に皆我に返った様に食事を再開する。

やがて雰囲気は和やかなものとなり、いつもと変わらず会話を交わしながらの食事となった。

「.....お前、今日はよく喋るな」

「そうかな....?いつもと変わらないけど....」

「いや、こっちの話だ」

「そう......?......ん?」

ジャンと話していたクロエがふと視線に気付いてマルコの方を見る。互いの視線がばっちり交わった。

「マルコ....どうしたの?」

クロエが自分をじっと見つめていたマルコに少し恥ずかしそうにしながら尋ねる。

「いや.....」
自分でも無意識の行動だったのかマルコもまた照れ臭そうにした。

「何か....クロエ、大きくなったなあ..って思って...。」
そして鼻の頭をかいて笑いながら言う。

ジャンとアニは(....始まった....)とうんざりとした表情をするが、クロエだけはショックを受けた様に固まってしまった。

「わ、私...そんなに大きいかなあ....」

「ああ、デカいな。」
きっぱりとジャンが言い放つ。

「うわあん、酷いよジャン!」

「違うんだクロエ!そんなつもりで言ったんじゃ.....」

「デカいもんをデカいと言って何が悪いんだ2m級」

「そこまでおっきくないもん!」

「ややこしくなるからジャンは黙れよ!!」

(.......うるさい)



おっきくない、おおきい、で言い争っている内に、早々に逃げ出したアニ以外の三人は見事に訓練に遅刻し、仲良く一発ずつ教本の角で殴られた。




リン様のリクエストより
何らかの薬で身体が幼児化して、周りに可愛いがられヤキモチを焼かれる話で書かせて頂きました。




prev next

[top]


×
「#年下攻め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -