愛しい雨 | ナノ


幸せな思い出、そして今 後編  


「も、無理.....。飲めない......。」
机の上にへたり込んだマルコが情けない声を上げる。

「お前相変わらず弱えのな。」

オレは呆れた様に机にへばりついているマルコを見下ろした。

「君等が強過ぎるだけだよ....」

「そうかな?」
クロエが台所から汲んで来た水をマルコに渡しながら言う。

「特にクロエ......!君、肝臓どうなってんの....」

「あぁ、そいつの蟒蛇っぷりは昔からだよ....」

「.....クロエは絶対すぐに赤くなるタイプだと思ってたのに....」
クロエから受け取った水を飲むマルコの顔は赤く、雀斑の下を通る血管がよく見えた。

「あぁ、なんか悔しいな....!」
空になったコップを机の上に置くと、マルコは自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。

「.....何がだよ?」

「......クロエがお酒に強い事だよ.....!絶対酔っぱらったら可愛いと思わないか?」

力説するマルコをオレはうんざりとした様に眺めた。

.......結婚してからというものこいつ等はより一層互いへの恋慕を募らせているらしく、のろけ話は耳が腐り落ちる程聞いている。

正直もう勘弁して欲しい。

「.....マルコがそう言うなら、私、酔っぱらうよ....」
クロエもクロエで可愛いと言われた事が嬉しかったのか少しだけ頬を染めながら言う。

......いやいや、酔っぱらおうと思って酔えるもんじゃねえだろ、お前の沼みたいな肝臓じゃ。

「いや.....やっぱり大丈夫だ」
クロエの事を見つめながらマルコはぽつりと零した。その目の縁はやや赤い。

「......今も充分可愛いから」

にっこりと笑ってそう言う奴にもうオレは我慢できなくなり、席から立ち上がってその頭をはたいた。何だこいつ。

「あれ、クロエ...少し酔った?」
顔赤くなってるよ、とマルコはオレに殴られた事を意に介さない様子でクロエに尋ねる。

確かにクロエの顔は明らかに色付いていた。

......だが、明らかに酒の所為じゃねえだろ。お前の所為だろ。

「う、うん....酔ったかも....。」

ぼんやりとした様子でクロエはマルコを見つめ返した。あ、何か嫌な予感がする。

「......マルコに酔って「うるせえ!」

オレはクロエの言葉が終わる前に彼女に頭突きを食らわせた。

「......!?痛いよ、ジャン」
何が起こったのか分からずにクロエは赤くなった額を押さえてこちらを見る。

「当たり前だ、痛くしてんだからなあ!」

「な、何で?」

「自分の胸に聞け!!お前ほんっと壁外に追い出してやろうかあ!?一回食われて来い、もしくは今すぐ爆発しちまえ!!」

「ここには壁も巨人もないよ....!あと爆発はしたくない....」

「何してんの?クロエと遊んでるなら僕も混ぜてよ」

「遊んでねーよ!!」

「怒鳴るなよ....近所迷惑だろ....」

「うっせえ!」

「.....っと、クロエ。そろそろ寝ないと駄目だよ。明日から新しい仕事だろう?」

酔っていてもマルコはマルコだ。

クロエの手の中からグラスを笑顔で取り上げながら言う。

「......もう少し」

クロエは名残惜しそうにマルコの手の中へと行ってしまった自分のグラス眺めた。

「駄目。ただでさえクロエは朝が弱いんだから。遅刻して向こうに迷惑かけたら駄目だろう?」

「うん....分かったよ」
クロエは渋々と諦めた様に目を伏せる。

マルコは短く「良い子だね」と言ってそのまま先程クロエから奪った酒を飲んだ。

......もう飲めないって言ってた割には大丈夫そうだな....。

「.....ん、お前仕事って...アニとやってる奴じゃねえの?」
ふと疑問に思った事を尋ねる。

「うん、勿論それが主なんだけど、少しの間臨時でね....」

「へえ、臨時。.....お前絵描く以外になんかできる事あんのか?」

「ひどい....。一応美術関係だよ。」

「ふうん、具体的には何すんだよ」

「それはね......」

「.............。」

クロエが言った言葉にオレはしばし言葉を失った後、盛大に吹き出した。

「無えよ!!それは無えよ!!お前にできる訳ねえーじゃん!!あー、腹痛い」

「ひどい.....。できるよ!ちゃんと免許も持ってるんだよ?」

「僕はクロエならきっと立派にやると思うなあ」

「そうかな....嬉しいよ、マルコ。」

「あーあー、そうやってお前がクロエを甘やかすから体ばっかりでかくなって中身はガキのまんまなんだよ」

「そ、そうかな.....」

「大丈夫大丈夫。クロエは今のままで良いんだよ。今が一番可愛い。」

「....ほんと?そう言うマルコも今が一番格好良いよ....」

「あー、今すぐ地球爆発しねえかな」



結局その後もクロエはジャンとマルコと飲み続け、お約束とばかりに翌朝寝坊した。







「おい」

ハインツは隣の席で慎重に自分の爪にネイルを塗るエーリカに声をかけた。

「なにー?話しかけないでよ、綺麗に塗れないでしょー」

「もうすぐ授業が始まるから仕舞え。あとうちの学校ではマニキュアは禁止だ。」

眉を寄せて彼女の鮮やかに彩られた爪を見下ろしながら言う。

「何よお。花の盛りの女子高生がオシャレして何が悪いの?つーか一限美術でしょ?絵具と変わんないじゃん.....はあ美術かー。タルいわあ....。まじ地球爆発しないかなー」

「.....地球が爆発したらお前も死ぬぞ」

「そういう事言ってんじゃないの。馬鹿?」

「馬鹿なお前に馬鹿と言われる筋合いは無い。.....美術だって大切な授業のひとつだ。きちんと受講するのが学生の義務だと思う。」

「うわキモ。へったくそな絵しか描けないくせに良く言うわー」

「なっ.....結果ではなく、努力した過程が大事なんだ。お前には分からないだろうがな....」

「.....キモい。何がキモいって口調がキモい。何それ、漫画のキャラの真似?」

「違うわ!というかお前も昔からの付き合いなら僕の口調は知っているだろう?」

「ああそうだった....アンタがキモいのは昔からだったね...」

「キモくなんか無いわい!!」


「おい!!ビックニュースだぜ!!良く聞けよ!」

いつもの如く小競り合いを繰り広げるハインツとエーリカの耳にクラスの盛り上げ役の男子生徒の声が響く。

ハインツはその大声に眉をひそめながら、エーリカは興味無さげにその方向に視線を寄越した。

「なんと.....あの美術のじいさん先生が病気して、新しい先生が来るんだってよ!」

「本当かよ?」

「でもどうせまたじいさんとかばあさんだろ?」

男子生徒の報告にクラスの面々は他者多様な反応をする。

「ちっげーよ!若い人だって!しかも、女!!」

嬉しそうに彼はVサインを作ってみせた。その言葉に男子生徒達がこぞって反応する。

「美人なのかよ?」「可愛い?」「胸は?」「足とかはどうだった?」「清楚系?それとも派手目?」

男子生徒は次々と出される質問に対し、手を挙げて一旦それを静めた。

「落ち着きたまえ諸君。実は先程委員長が職員室でその方を見かけたらしい。」

皆の視線が一斉に教室の後ろの方に座っていた委員長へと移動する。

視線を向けられた彼は少し考える様な仕草をした後、ゆっくりと口を開いた。

「......確かに、美人だった。」

その答えに教室中....特に、男子生徒達.....が沸き返る。

「ただ.....」

「「「「「「ただ?」」」」」」

委員長の言葉の続きを促す様に周りがそれに被せて返す。

「.........デカかった。」

「「「「「「へ?」」」」」」



「......こんにちはー、今日から美術の臨時の担当となりましたクロエと申します....遅刻してごめんなさい....」

その言葉と共に教室の扉がからりと開いた。クラス中の視線が一斉に集まる。

...............。

((((((でけえ..........。))))))

みんなの心がひとつになった。


しかし、彼女の身の丈の高さに驚くクラスメイト達以上に、何よりも誰よりも驚愕している人物が二人いた。


「.......うそ」

エーリカの手元からネイル用の小さな刷毛が滑り落ちる。

それはかたりと音を立てて床に落ち、鮮やかな赤色の沁みを作った。

「え.......。」

ハインツもまた驚きのあまり言葉が出ず、夢を見ている様な感覚で目の前の女性を眺める。

それから喉の奥から熱いものがせり上がってくるのを感じ、口元を押さえた。

エーリカは走り出した。

普段気怠げな表情しか見せない彼女の必死な形相にクラスメイト達は何かと思ってそれを眺める。

クロエも自分の方に走って来る女生徒の顔と姿を確認すると、眉を下げて泣き出しそうな表情をした後、柔らかく笑った。

「.........クロエ隊長!!」

エーリカが彼女に抱きつき、クロエもまた彼女をきつく抱き返した。

ざわめくクラスメイト達を掻き分けて、更にハインツも彼女達の元に駆け寄り、クロエを抱き締める。

三人はしばらくそうやって互いを抱き締め合っていた。エーリカに至ってはしとどに涙を流している。


クロエの全く変わっていない姿にエーリカは嬉しくて仕様がなかった。

辛い事ばかりだった以前の世界も、クロエの下で働けた事は大きな喜びとなって今でも胸に残っている。

あぁ、本当に変わっていない....高い背も、少し下がった眉も、艶やかな髪も、それを結わえた水色のリボンも.....

ただ....変わった事がひとつある。左手の薬指にある、銀の......


それを確認した瞬間、エーリカの瞳の奥から新しい涙がせり上がって来た。

ハインツも同時に発見したらしい。クロエを抱く腕の力が一段と強くなった。


「........クロエ隊長.....幸せに、幸せになられたんですね.....。ようやく、やっと.....」

体を彼女から離して、エーリカはそっとその左手を握る。嬉しくて仕様が無いのに、胸は締め上げられる様に痛んだ。

辛く、苦しんだ以前の彼女の人生を思うとどうしてもやりきれなかったのである。

だが.....それでも、やっとクロエ隊長の元に愛する人が帰って来たのだ....。

長い、長い時間をかけて....本当に、長い、長い......


クロエの掌を握りながら震えるエーリカの手の上から更にハインツが手を被せて来る。

普段ハインツに触られる事を蛇蝎の如く嫌うエーリカもこの時ばかりは何も言わなかった。


「.......良かったです。貴方の想いが報われて、本当に良かった.....」

彼の言葉は徐々に掠れていく。泣きそうになるのを寸での所で堪えた。

本当に....心から純粋に思う事だった。


「二人は......」

クロエは二人を愛しそうに眺めながら口を開く。

「二人は、今幸せ....?」

「....はい...!幸せですよ....!
お腹いっぱい食べれるし、可愛い服も好きなだけ着れるし....強いて言うならハインツの馬鹿が何回席替えしても隣に来る事だけが堪らなく不幸ですね!」

「僕だって隣になりたくてなってるんじゃない!」

「なりたくてなってるんだったら気持ち悪くて死ねるわ!」

「気持ち悪いって言うな!さっきから地味に傷付いてるんだぞ!」

クロエは目の前で始まった諍いをしばらく呆れた様に眺めた後、困った様に少し眉を下げて笑った。


「.......懐かしいわねえ」

その小さな声は、言い争いの佳境にいる彼等の耳には届かなかった。


......そしてクロエの波乱の教師生活が幕を開けるが、とりあえず初日から遅刻し、公衆の面前で生徒と抱き合った事により職員会議で吊るし上げを食らう事になる。







その日マルコが家に帰ると、死んだ様にソファにその長身を横たえているクロエの姿があった。

「クロエ。寝るんならベッドで寝なさい」

タイを緩めながらそう声をかけるとクロエの口からは意味を成さない言葉がぼろりと零れる。

......どうやら相当疲れている様だ。

「ほら....寝室まで連れて行ってあげるから....」

とりあえず上半身をよいしょと起こしてやる。

.......ふと、ぱっちり目が合った。てっきり半分眠っているだろうと思っていたマルコは驚く。

二人はそのまましばらく見つめ合った。そしておもむろにクロエはソファに手をついてマルコに顔を近付ける。


「あ........」


あまりにも自然な所作で唇を重ねられた為、まともに反応する事もできなかった。

クロエは穏やかに笑ってマルコの頬を撫でている。

「......どうしたの?.....クロエからしてくれるなんて珍しいね.....。」

微かに頬を染めながらマルコが尋ねた。

「......駄目だった?」

「駄目じゃないけど.....。いや、むしろ嬉しかったけど.....。」

マルコが歯切れ悪く言葉を選んでいると、クロエはそっとその体に腕を回して抱き締めてきた。


........本当に、今日はどうしたんだろう......。


マルコは戸惑いながらもクロエを抱き締め返し、その髪を撫でる。

クロエはマルコの首筋に顔を埋め、深く呼吸した。柔らかい吐息が皮膚を撫でていく。


「......私は幸せだよ.....。」

押しつぶす様な声が彼女から漏れた。クロエの腕の力が強くなる。

「.....マルコ、ねえマルコ。私ね、泣くのはマルコの傍ってずっと決めていたの。
....だから、どんなに寂しくても泣いてなんか無いよ、本当だよ........」

言葉の端が熱を帯びて来ている。マルコもまたクロエの事を強く自分の元に引き寄せた。


「.....そっか。よく、頑張ったね。」

そう言うと、自分の肩口がじわりと濡れる。背中のワイシャツがぎゅうと掴まれた。

どんどん彼女の白い皮膚が熱を帯びていく。その温度はこうして自分にも伝わって来る。

....熱い。この、痛みを伴う激しい熱の中でクロエは....ずっと、ずっと....


「マルコ、ありがとう.....」


やっとの思いでクロエはたった一言そう言った。

マルコにもそれだけで全ての事が伝わった。


しんとしたリビングで、二人は音も立てずお互いの体温を感じ合っていた。

胸の内が微かに鼓動する度に掛け替えの無い存在を感じる事ができ、それがひどく苦しく、切なく愛おしかった。

やがて静けさと温かさが心地よかったのかクロエは穏やかな寝息を立て始める。

マルコはそれを見て苦笑した後、頬にひとつキスを落とした。

寝室に連れて行く為抱えた彼女の体は相変わらず身長の割に軽い。

彼女を抱き締める力は痛い程強くなる。もう二度と離れない様にと願っては更にきつくその身を抱いた。

眠りながらもその力強さを感じる事ができたクロエの頬には涙がもう一筋伝っていく。

それにマルコはもう一度口付け、ベッドに寝かした彼女の事をいつまでも愛しそうに見つめていた。




........人を好きになる事が、こんなに辛い事だとは知らなかった。

何十年の歳月、痛みと寂しさと悲しさに爛れ続けて、死んでしまいたい時だって本当は沢山あった。

......だが、それでも.....頑張って良かった。

こうして想いが通じた今....心の底からそう思うのだ.....



青様のリクエストより
ハインツとエーリカにマルコとの思い出を語る。
転生後、ハインツとエーリカに再会する。で書かせて頂きました。




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