幸せな思い出、そして今 前編
......疲れた。
その一言が頭を埋め尽くす。
時刻はもうすぐ日付を越えようとしていた。オーバーワーク気味の毎日に身体はぎしぎしと悲鳴を上げている。
.......調査兵団に入団して早いもので十数年経った。
年を重ねればそれなりに出世するもので、オレもそこそこの役職に就いていた。
しかし....地位が上がれば忙しさも勿論増し、近頃はほとんど公舎と部屋の往復しかしていない。
そういえばここ最近あのひょろ長い友人にも会っていない。奴もこんな生活をしているのだろうか.....
背ばかり高くて泣き虫だった女も分隊長となり、それなりに忙しい日々を送っている筈だ。
以前....まだ程々に暇があった時はよく互いの部屋に行き来したものだが.....
.......いや。断じて断じて会いたいとかそういう気持ちは1マイクロミリメートルも無い。
ただなあ.....うん、そうだ。オレは心配なんだ。
あれは結構繊細な所があるから日々の仕事に忙殺されてないか気になるだけなんだ。
だからたまには様子を見に行ってやらねえと.....
しかし....理由も無しに....この、壁外調査前の忙しい時期に尋ねていっていいものだろうか....。
クロエだって疲れているかも知れない。
.............。
........正直な話、こういう.....体のみならず心まで摩耗してしまった時は、何故かあいつと話したくなる。
......クロエは変わらないからだ。
十数年の時を経ても相変わらずデカいし、眉はいつも困った様に下がっているし、髪は水色のリボンで結っている。
あいつの姿や仕草は、オレの中で幸せだった頃の記憶に繋がるものがあるのだ。
そう.....オレと、クロエの間に奴がいて....何の不安も無く笑っていた、あの時代に.....
だが.....オレ達はもう大人だ。
自分自身の勝手な都合でクロエの貴重な時間を奪ってはいけない。
しかしそうすると....次会えるのはいつだ?
いよいよ壁外調査間近になれば勿論会えないし、終わったら終わったで後始末に忙しい。
そうこうしている内に次の壁外調査の準備を始めなくてはいけない。
.......あれ、これじゃあ.....オレとクロエはいつまで経っても会えないじゃねえか....
.......もう一度、胸の中に十数年前の事を思い描く。
あの時はうんざりする程同じ時間を一緒に過ごしていて.....それの尊さに気付けなかった。
今更気付いても.....遅いのだろうか。
時間というのは本当に容赦無く全てのものを変化させていく......。
よろよろと曲がり角を曲がるとようやく自室の扉が見えて来る。緊張の糸がたゆんと緩むのを感じた。
もう今日は色々考えるのは止そう。幸いな事に明日は休日だ。気の済むまで朝寝をさせて頂こう。
鍵を取り出して鍵穴に突っ込み、回す。
(.........ん?)
妙な感触がした。いやに軽い。恐る恐るドアノブをひねってみると.....回る。
(...........んん?)
更に扉を押してみると.....開いた。
(........んんん?)
..........何故か中には明かりが灯っている。そしてテーブルを囲んで談笑しながら酒を飲んでいるのは.....
「あ、ジャン!お仕事お疲れ様。」
「キルシュタイン補佐官、お邪魔してまあす。」
「僕はやめようって言ったんですが....あの、その、止められなくて申し訳ありません....」
自分を明るく出迎えた三人を呆然と見つめる。目を擦ってもう一度見る。しかし三人は相変わらず笑顔で目の前に居る。
........オレは今まさに開けていた自室の扉を勢い良く閉めた。
「.....ちょ、ちょっとジャン!何で閉めるの!?」
すぐにクロエが飛び出してくる。オレはすかさず奴の脇腹をどつき、更に頬をぎりぎりと引っ張った。
「......痛い、痛いよジャン.....」
「当たり前だ。痛くしてんだからなあ......」
「ひどい!」
「ひどいはお前だ!!何故オレの部屋でお前とその部下が酒盛りをしてんだ!!日々仕事に追われるオレへの当てつけかあ!?ああん!!??」
「そ....そんなに怒んないでよ....!本当は部屋の外で待っていたんだけど鍵が開いてたから....」
「ふざけんな!!とっとと出て行け!この壁内から出て行け!!壁の外で暮らした方がお前の体のサイズにはお似合いだ!!」
「ひどい!!」
久々に会えて内心嬉しいと言うのに遂々こういう態度を取ってしまうのは昔からの癖だ。
申し訳ないと思う反面、もう自分なりの愛情表現という事で納得させてもらっている。
「それにまだ出て行けないよ....今日はジャンに会いに来たんだから」
「はあ?何の用だよ」
彼女は「えへへ」と子供みたいに笑ってオレの手を引く。少し酔っている様だ。
それから部屋の中に戻り、机の上に合った濃緑の瓶のラベルが見える様にオレへと向ける。
「この前仕事で内地に行った時にとっても美味しいワインをもらったんだ。ジャンと一緒に飲もうと思って持って来たんだよ」
ジャン、赤好きだったでしょう?とへらりと間抜けに微笑まれてオレは何だか脱力した。
「......というのは建前で」
しかしクロエはそこで指を1本立てて笑いながらも困った様に眉を下げる。
「ほんとはジャンと会って話がしたかったの」
「え.......」
「最近ずっと会えなかったから何だか寂しくて.....。
でも会いに行く理由が無いでしょう?だからここ一週間くらいもやもやしてて....そうしたらね、」
クロエが椅子に座っていたエーリカの頭をぽん、と撫でた。彼女は嬉しそうに目を細める。
「理由なんて作っちゃえば良いって言ってもらえたの。だから今日はジャンと一緒にお酒を飲む為に会いに来たんだよ。」
照れくさそうに、何とも情けない顔で笑うクロエを見て.....オレも「仕方ねえ奴」と眉を下げて笑った。
こういう時に....ひどく思う。
....マルコがクロエの事を選んだ理由が分かる気がする...、と。
ひとつ溜め息を吐いてクロエが腰掛けていた隣の席に座る。
オレがようやくその気になったのが嬉しいのか彼女は更に笑みを濃くした。
「それじゃ、改めて....乾杯?」
各自のグラスに酒を注ぎ直しながらクロエが言う。
「クロエ分隊長!やめて下さい、お酌なら僕がしますから...、」
ハインツが慌ててそれをやめさせようとした。
「いいのよ、今日は無礼講だから」
「つーか何でこいつらまで来てんだよ」
「すみません....」
オレが一睨みするとハインツが申し訳無さそうに目を伏せる。
「お酒はみんなで飲んだ方が楽しいと思いまあす!」
それに反してエーリカは全く気にしていない。.....全く、クロエが甘やかすからこういう事になる....
「.....というかオレと飲みに来たという割にはもう随分と出来上がってんな....」
机の下には空の瓶が数本置かれていた。
「大丈夫だよ、一番美味しいのはまだ開けてないから。」
クロエがにへらと笑う。
「......どうせお前がほとんど飲んだんだろ」
「えへへ、当たり」
「.....お前の蟒蛇っぷりにはいつも驚くを通り越して気持ち悪さを感じるぜ...」
......非常に意外な事だが、クロエは酒に滅法強い。沼の様にあらゆる種類、量の酒を飲み込んでいく。
恐らく兵団内で一番強いのでは無かろうか。
オレが初めて1対1で酒を飲んだ相手もクロエだったが、潰されて非常に悔しい思いをしたのを覚えている。
きっと、この事実にはマルコも驚くだろう。何に対しても臆病で劣等生だったこいつが酒豪とはなあ....
「はい、それじゃあ久々の再会を祝ってかんぱーい」
クロエの上機嫌な声で四つのグラスが合わさった。
......クロエにも、少しずつマルコが知らない一面が増えていく。オレはそれを複雑な思いで傍観するしかない。
あの頃と変わらずに居て欲しい。マルコの隣に居た時と変わらずに。
それが無理なのは分かっているが......だが、それでも......
まあ良い....。とにかく、今日は会えて良かった。
.......本当に、良かった。
*
エーリカは頬杖を付きながら向かいに並ぶクロエとジャンを見つめていた。
「......どうしたの?」
視線に気付いたクロエが不思議そうに尋ねる。
「......うーん、いや......」
歯切れ悪くエーリカが答えた。そしてしばらく唸っていると、意を決した様に口を開く。
「あの!本当にキルシュタイン補佐官とクロエ隊長はお付き合いしていないんですか?」
その質問に隣に居たハインツが盛大に酒を吹き出した。
「やだっ、汚い」
「お前....そんな事聞いて失礼だとは思わないのか....!」
「今日は無礼講だって言ってもらったじゃない!」
「お前は万年無礼講だろうが!」
一通り小競り合いをした後にエーリカがもう一度二人に向き直った。
「だって、今日の会いたいのどうのとかのやり取りなんて完全に恋人のそれですよ。
前々から仲良過ぎるとは思ってたんですけど、そこん所どうなんですか?」
「.....オレは自分よりでけえ女とは付き合わねえよ」
ジャンが若干うんざりした様に答える。この質問をされたのは初めてでは無いらしい。
「........あれ、小さい女の子が好みですか?」
エーリカが期待の眼差しをジャンに向ける。ちなみに彼女の身長は150cm台半ばと言った所である。
「それは違うよエーリカ。だってミカサちゃんは「黙ってろ2m級」
「......そんなにおっきくないよ」
「第一いつの話してんだよクソ!!古傷が抉れる!!」
「ご.....ごめん。」
「それになあ、クロエにはもう相手がいるんだよ。オレとは何にも無えよ。」
ジャンの返答にエーリカは好奇心に顔を輝かせる。それからクロエの方へずいと身を乗り出した。
「嘘...!だって今まで全然そんな気配無かったじゃないですか!!
あ、もしかしてこの前アトリエの床に落ちてた写真の人ですか?そうですよね!!是非是非お会いしたいです....!今度連れて来て下さいよ!」
弾丸の様に次々と発せられる彼女の言葉に呑気なクロエも少し戸惑う。
ハインツは何やらその隣でショックを受けた様に固まっていた。
少しして、クロエは気を取り直す様にふうと息を吐く。そして眉を下げて小さく笑った。
「ごめんなさい、会わせてあげる事はできないの」
「........そうですか。」
少し残念そうにエーリカは声のトーンを落とす。
「残念です....。でも、秘密にしたい程素敵な彼氏さんなんでしょうねえ。羨ましいです。」
しかし気を取り直した様にうっとりとした表情を浮かべた。恋愛の話となると相変わらず楽しそうである。
「.....もういねえんだよ」
埒が明かないと思ったジャンがグラスの中身を一口飲んだ後、そう零した。
「え.....?」
エーリカが頭上に疑問符を浮かべて聞き返す。ハインツもまた不思議そうにジャンの事を見つめた。
「もう十数年経つかな....オレ達がまだ訓練兵だった頃...例のトロスト区防衛戦で呆気なく逝っちまったんだよ。」
「...........。」
ジャンの言葉に年若い二人は沈黙する。
調査兵となって年月はまだ浅いが、友人の死が齎す痛みはもう充分過ぎる程知っていた。
「......ごめんなさい」
エーリカの口からぽつりと言葉が零れる。
その悲しげな響きに、クロエは彼女が派手な見た目や普段の立ち振る舞いから誤解を受けやすいが、非常に繊細で優しい人間である事を思い出した。
「.....大丈夫だよ。もう十年以上前の事だもの....全然気にしてないよ」
そう言ってクロエは穏やかに笑う。
項垂れていたエーリカも、彼女の優しい声色に安心した様に表情を和らげた。
「........あの、」
ようやく収束した場に、今度はハインツの声が響く。
逡巡しながら言葉を探しているその様子に、ジャンは多少嫌な予感を覚えた。
「先程....キルシュタイン補佐官は『もう相手がいる』と....未だにお付き合いしている様に仰いましたが....
十数年前に亡くなってしまった方とどの様にして.....」
そこでハインツは言葉を切る。思考がまだ纏まっていないのか単語の並びが散漫だ。
「......あの、もしや....今でもなお.....」
またしても声は途切れる。
クロエは彼の思考を読み取ったのか、淡く微笑んで手元のグラスを指で軽く弾いた。
「.......好きだよ。大好き。」
そして濁り無い誠実な笑顔で答える。
ジャンは思わず溜め息を吐いた。
......なんというか、ハインツ....お前は全く持って勝ち目のない恋をしてるぞ.....
「でも....もう亡くなっているんですよ...?それなのに想い続けるのは辛いものがあるでしょう....」
必死に言葉を選びながら話す彼をエーリカは道に落ちている片方だけの軍手を見る様な目で眺めた。
「そうねえ.....」
クロエは特に気分を害している様子は無く....むしろ楽しそうにハインツの言葉に耳を傾けている。
「生き死には余り問題じゃないかな....。不思議だよねえ、もう随分長い事会っていないのに好きっていう気持ちは強くなる一方なのよ」
昔を思い出しているのか、幸せそうに...しかし、少しだけ寂しそうに彼女は言葉を紡いだ。
「それにね、私は彼に小さい頃からずっと....十年近く片思いをしていて....その時の辛さを思えば、想いが通じている今は何て幸せなんだろうと思えるのよ。」
クロエの事を真っ直ぐ見つめていたハインツは視線をテーブルに落とす。
そして小さな声で「.....もう、二度と会えなくても....想い続けるのですか?」と弱々しく尋ねた。
「うん。それが今の私の支えだからね.....。彼の事を想えば、どんなに苦しくて辛い事もへっちゃらなんだ。」
彼女の口調は死んだ恋人の事を話しているとは思えない程明るく、希望に満ちていた。
まるで、いつか出会える日が来ると確信している様に......
「うわあぁあぁ」
その場に似つかわしく無い間抜けな声がエーリカの口から漏れる。
何かと思ってそちらに視線をやると彼女は大粒の涙を流していた。
「エ、エーリカ....?貴方、どうしたの?」
クロエがぎょっとした様に声をかける。
「感動しましたあぁぁあ!これぞ純愛!純愛の王道です!!舞台化決定です!!」
「.....泣くなよ気持ち悪い」
ハインツはそんな彼女の事を川岸に打ち上げられて三日経った魚を見る様な目で眺めた。
「何ようほんとはあんただって泣きたい癖に!」
「そ、そんな事は断じて無い!第一純愛だ何だと言って泣く位ならお前もちょっとは見習って性生活の乱れを直すべきだろう!!」
「うっさいわ童貞!!」
「どっ......ちゃうわ!!」
「触んないでよ童貞が伝染ったらどうしてくれんのよう!!」
「伝染って堪るか!!」
つかみ合う二人を眺めながらクロエは「楽しそうだね」と笑って少なくなっていたジャンのグラスに酒を注いだ。
軽くそれに礼を述べた後に彼も呆れた様にそれを見つめる。
そしてクロエはよくも毎日この二人の面倒を見れるな、と感心した。
彼女は中々どうして人望がある。悪く言えば呑気な、良く言えば懐の深い性質がそれに一役買っているのだろう......
......ああ、やはりクロエにはマルコの面影がある。
きっと奴が人の上に立つ事になっていたら、同じ様に面倒見が良い...慕われる指揮官になっていただろう...
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