怪我をする 前編
その場を見て、目を疑った。
血。血だ。
地面に広がる、真っ赤な血。
石も、草も、落葉も、そこから生える背の高い常緑樹の幹も―――
あいつがいつも絵の中で綺麗な色を沿えて描くものが全て、どす黒い、赤に―――
「ひどい怪我だったね」「あんな出血の量初めて見た」「治るの」「やばいんじゃねえ?」「助からないかも」
そんな、そんな.....嘘だろう?
「誰が怪我したんだ」「ほらあの背の高い」「いつも白いリボンをつけていて」
駄目だ....。その先を言うな。あり得ない。そんな事はあり得ないんだ。
「確か名前は」「あれ、なんだっけ」「思い出せない」「大人しくてあまり印象に残らないから」
思い出さなくて良い。若しくは違う奴だ。だって、ついさっきまであいつは.....の隣で.....
「あぁ、思い出した。」「クロエだ。」「そうだ、クロエだ。」「間違えない」
マルコの隣で、笑っていたのに――――!!
「おい、これはどういう事だ」
話をしていた奴らに割り込んで問いただす。
あいつはこんなヘマは絶対にしない。オレがクロエに一から立体起動を教えてやったんだ。それだけは言い切れる。
「俺たちも見ていただけだから」「気付いたらあんな事に」「運が悪かったんだよ」
「見ていただけだと!?何で助けなかったんだ!!」
口々にそう言う奴らの内の一人、特に声がでかかった金髪の胸ぐらを締め上げる。
「....手を離せよ、ジャン。何故俺を責める。俺は関係無え。あいつが勝手にトチったんだろ」
そう言う奴の顔をよく見ると、以前食堂でクロエを罵倒した奴だと気付いた。胸の中に苛立ちが募って行く。
「もしトチったと言っても、周りのフォローがあればこんな大事には至らなかった筈だ....!!」
その顔を睨みつけながら言う。こいつを責めた所で何にもならない事は分かっていたが、今は目の前の男が憎くて仕様が無かった。
「.....何だよ。一歩間違えたら怪我するのは俺の方だったんだぞ?俺は被害者だよ」
........その言葉に、全てを悟った。体が一気に脱力する。
あぁ、クロエ.....。お前、馬鹿だな。
お人好しなのは知っていたけどここまでとは俺も知らなかったぜ....。
お前、こいつを庇って怪我したんだな.....
*
クロエとの面会は謝絶されたままだった。
その間のマルコは...努めていつも通りに振る舞おうとしていたが....日を追う毎に顔色が悪くなり、話しかけても上の空な事が多くなった。
心ここにあらずと言うのか....何と言うか、もう...見ていられなかった。
いかにあいつの中でクロエの締める割合がでかいのか、という事が痛い程よく分かる。
マルコとクロエは紆余曲折を経て、ようやく想いを伝え合ったばかりだ。
まぁ随分前からお互いを想い合っているのは誰の目から見ても明らかだったんだが.....
クロエは自分の片思いだと決め込み、マルコは自分の想いに気付いていなかった。
そんな二人がやっと、不器用ながらも並んで歩み始めたという矢先に....
「....これはねぇよな.....」
なぁクロエ.....。お前が大好きなマルコが悲しんでるぞ....
お前もあいつにこんな思いをさせたかった訳じゃねえだろ....!
畜生....お前、こんなところでくたばってみやがれ....オレは一生お前を許さないからな。
だから、頼むよ.....。
頼むよ、クロエ......!
*
クロエとの面会が許可されたと聞いて、その日の訓練が終わった後脇目も振らずに医務室へと駆けて行った。
.....が、そこにはすでにあの男がいた。
「.....アニか。」
マルコはそう言いつつも私の方を全く見ようとしない。
視線はベッドに横たわるクロエに注がれたままだ。
その隣に立ち、私もまた彼女の事を見つめる。
まるで眠っているかの様だった。
今にも目を開けて、いつもの様に、私に笑いかけてくれるのでは....と。そんな幸せな想像ばかりが...
「.......見なきゃ、良かった」
ぽつりとそう零す。
......彼女は何とか一命を取り留めた。だが、目を覚ますかは分からない。
その不安定な状況を、目に見える形で突きつけられて....胸の内の不安は一気に膨らんだ。
もし....ずっとこのまま....目を覚まさなかったら....?
嫌だ。それだけは嫌だ。どんな形でも良い。生きていてくれればそれで良い。
お願いだから目を覚まして....私の、大切な、たった一人の.....
震える指でクロエの頬をなぞる。
.....温かい。それだけで、涙が出る程嬉しかった。
「クロエ。」
その名前を口にするだけで、私の胸の内にはいつだって優しく温かなもので満たされた。
「クロエ。」
でも今は違う。こんなに悲しい言葉がこの世に存在したなんて....
「クロエ.....」
一番涙を見せたくない男が目の前にいるのに....それでも止まらなかった。
どうしよう。どうしよう。
クロエが。クロエが.....
どうしよう。
二度とかえって来なかったらどうしよう.....!
「アニ。落ち着くんだ。」
マルコの声が隣から聞こえる。涙を拭って睨みつけてやると、ようやく視線が合った。
「......僕らが悲しんでもクロエの状態は変わらない。....今僕たちにできるのは、ただ待つ事だけだ....」
そう言いながらこちらにハンカチを渡して来る。当然それは受け取らなかった。
「......ふうん。随分落ち着いてるんだね。」
「.....落ち着いていないさ。」
「..........。」
「..........。」
しばらく二人は無言で見つめ合ったが、やがて私の方が根負けしてクロエの傍から一歩離れる。
「アニ」
医務室の入口へと歩みを進めるとマルコが自分を呼ぶ声が聞こえた。
それには応えず、更に歩を進める。
「アニ。出来ればまた来てやってくれ。クロエも....目覚めた時にアニがいたらきっと安心する」
一回も振り返る事無く、私は医務室をあとにした。
......あの男、何なの?『出来ればまた来てやってくれ』?
言われなくともそうするよ.....
あいつはクロエの何のつもりなの....
今度はあの男がいない時に行こう.....イライラして仕様が無い.....
*
しかし、医務室にいつ訪れてもマルコはそこに居た。
よっぽどの暇人なのか.....違う。あの男が何を思ってあそこにいるのかは...どんな馬鹿でも分かる...単純な事だ。
それはいつもクロエの白い掌をそっと握ってやっている事であったり....時折髪を梳いてやる優しい手付きであったり....眠ったままの顔をじっと見つめる熱い視線だったり....随所に、彼の強い想いが表れていて.....
(.......違う!!想いの強さなら私だって負けてない筈だ....)
クロエは私の友達だ.....!
あの子の想いに気付かず、のうのうと過ごしていたあんたが何を今更.....!!
イライラとしていた所為かその夜は酷い夢を見た。
....どんな夢かは覚えていない。
.....額に滲む汗が不愉快だ。
「........クロエ」
......酷く、会いたくなった。
そっと寝床を抜け出してもぬけの殻の彼女のベッドに腰掛ける。
枕を抱けばあの子の優しい匂いがした。
.......会いたい。
もう、たまらなくなった。
枕を元の場所に戻して立ち上がり、真っ暗な廊下へと私は足を踏み出した。
*
......だが....こんな真夜中にも関わらず、あの男は医務室にいた。
.......何で。何であんたがここにいるの?
あんたはいつも、こんな時間になってもクロエの傍を離れようとしなかったの?
....私が寝ている、この間も.....
ランプのオレンジ色の光で照らされながら、マルコはただ....音も無く涙を流していた。
だらりとして力が入らないクロエの手を握りながら、次々と溢れる涙を拭う事もせずに...
その姿を見て、重たいもので頭を殴られた様な気持ちになった。
近付く事が出来ない。ただ彼等の姿を遠くから見つめる事しかできない。
.....気付いてしまったのだ。
想いの強さに勝ち負けがあるのなら........あの涙に私はきっと勝てない。
あれは....それだけの悲しみと痛みと愛しさと....彼の中にある全ての感情が総動員された、重い重い涙なのだ....
細く長く息を吐き、音を立てない様に後ろに下がると、私はそのまま以前の様に振り返らずにそこをあとにした。
冷たい風が吹く廊下を歩いていると、世界中で一人きりになった様な気がして涙が零れそうになる。
あぁクロエ、早く目を覚ましてよ。
それで私を安心させて....。
一人じゃないと....。ついていてくれると....そう言って。
そしてまた、私の隣に....。お願いだから....
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