愛しい雨 | ナノ


グンタの誕生日、少し前 後編  


(そうか)


なんとなく、途中から予感はしていたが、そこに辿り着けばグンタはやはりという感慨を抱かずにいられなかった。

古く痛んだ木の桟に嵌められた窓硝子からは、自室の窓が見える。……まるきり、いつもと逆の風景だ。


辺りを取り巻くのは懐かしい……あの、初老の男性の部屋と同じ揮発性油の匂いである。

床に転がるそれらの空き瓶を爪先で転がして避けながら、「ごめんなさい、場所作ったばかりだからまだ片付けきれてないんですよー」とクロエはやはり間が抜けた声で言った。


「お陰でとっても助かっちゃいました。」


描きかけの油彩画の数々を眺めていたグンタに彼女は声をかける。

ハッとして、「……ああ」と同じく間抜けた返事をしてしまう。


「えっと、まだお名前伺ってないですよね。先輩のお名前は」


木箱の中から取り出した硝子瓶の中、青色の顔料をしげしげと眺めながら彼女が問う。

………先輩に名前を尋ねるならきちんとこっちを見ろ、と言いたかったグンタだが…まあ、今日は休日だし…良いか。と思い直して「グンタだ」と簡潔に述べた。


「そうですか、グンタさん。」

次にクロエは、毛先が針のように尖った細いリス毛の筆の先をつんつんと触りながら彼の名前を繰り返す。

…………炭酸の抜けた発泡酒のような、ひたすらにふわふわとした空気が漂っていた。

外は気持ち良く晴れ、暑いくらいの陽気の中に透明な光が降り注いでいる。


「ありがとうございました、グンタさん」


クロエは朗らかに笑って、ようやくこちらに向き直り礼を言う。

彼女の背景、大きなキャンバスには緑の平原が描かれていた。

遠くから遠くへと吹きぬける風が、湖面の波のように吹き払って草木を揺らすような、そんな感覚が。





「今日は良い天気ですねえ。」


上機嫌らしいクロエは窓の外を眺めて、ほうと溜め息する。

そうして自然とそこを開け放ち、室内に風を入れる。外の温度は夏らしく暑かったが、風があった為爽やかな気分になった。

彼女は羽織っていたジャケットを脱いで傍の椅子にかける。下に着ていた服は袖が無かったため、彼女のへんに長く白い腕があらわになった。


「グンタさん、この後何かお仕事は」

ぐるりと首だけ傾けて尋ねてくる。「いや…とくに」と返せば、クロエは嬉しそうに顔を綻ばす。よく笑う奴だなあ、と半ば呆れた気持ちになった。


「お礼と言っちゃあなんですが……」


そう言いながらクロエは脇に置かれた大きな箱の中を何やらごそごそと漁る。

その横顔はまた、例の悪戯小僧のような表情になっていた。



「グンタさんは赤と白、どっちがお好きですか?」


そう言って見せられたものに、グンタは思わず大きく息を吐いた。


「お前……そんなもん隠し持ってたのか」

「大丈夫です、水みたいなものですから、これ。」

「……水はこんなに赤くねえよ」

「あ、ジュースです。ジュース。」

「しかも今は真っ昼間だ。どういう神経してるんだお前」

「まあまあ」


まあまあじゃねえよ……。とぼやいて、グンタは脇にあった比較的汚れていない椅子にどっかと腰掛ける。

………今日は、祭日だしな。と何かに心の中で言い訳しながらクロエの誘いに乗る意を示す。


「良かったあ、お酒は一人より誰かと一緒が美味しいんですね」

「言っておくが俺は酒にはうるさいぞ」

「ええ、私みたいなヒラ兵士が手に入れられるものなんて安ものばかりですよ?」


どうしましょう、と全然どうもしてなさそうな雰囲気でクロエが呟く。


やがて、がたがた言う…机と呼ぶにはあまりに頼りない木材の上にささやかな酒盛りの準備がなされる。

………ワインに、ケーキ。何故ケーキなんだと尋ねれば「親友にもらいましたー」と楽しそうな返事。

真っ昼間から酒を飲む上に、肴がケーキ。なんともちぐはぐな雰囲気ではあるが、正面に腰掛けたクロエは楽しそうだった。

長い身体を窮屈そうに折って小さな箱椅子に腰掛ける様が少々滑稽である。


「さあ、私たちは私たちでお祭りを楽しんじゃいましょー!」

晴れ晴れとそう言いながら、安もののワインが注がれたグラスを持ち上げた彼女に合わせて、グンタも少しだけグラスを傾けた。


リン、とグラスが合わさる音の背景で再び風が吹く。

絵具まみれの重たいカーテンが揺らされる景色が、ひどく長閑だった。







「…………これはヨセフスさんに対しても思ったことなんだがな。」

アルコールが入ってやや開放的になった気分でグンタはクロエへと話かける。

彼女はにこにことしながらそれに応じた。


「お前、こんなに絵が好きならなんでまた兵士になんかなったんだ。」

絵描きを目指すのが普通なんじゃないのか、と彼はクロエへと視線を向ける。

…………袖のない服の下、胸板は薄く見るからに虚弱な体質だ。彼女の名もまったく聞き覚えが無いことから、成績も大したことは無いのだろう。


「まあ……。それは。なりたければなりたいんですけれどねえ。」


クロエはケーキをフォークの先で一口大に切っては考えるように中空を眺めた。

………現在は明かりが落とされているランプがひとつ、太い梁から吊るされている。

いつもの強い灯の元はこれなのか……とグンタはぼんやりと思った。


「でもなんでしょう。なりたいものに必ずしもなれるとは、限らないじゃないですか。」

そう言う彼女の表情はほんの少しの憂いがあった。相変わらず笑ってはいたが。


………グンタにもそれは理解できた。だから苦笑して頷く。

口に入れたケーキもまたひどく強い酒の味がする。これを贈ってきた親友というのは、クロエの好みをよく分かっている人間なのだろう。


「でも、描くのはやめないんだな。」

「そうですね、続けることが大事だと思うんですよ。」

「そうか……。けど、どうしてまた駐屯兵団じゃなくて調査兵団なんかに。」


それを尋ねるクロエはクックとまたおかしそうにした。

笑わないで聞いて下さいね、と言われるので、それは何かの前フリか、と返す。彼女は一際面白そうに声をあげて笑った。


「私、壁外の景色を描いてみたいんですよー」

「ぶへっ」

「あっ、笑いましたねえ」

「ああ、すまんすまん。笑っちまったよ」


グンタさんたらひどいですよー、と彼女はちょっとだけ肩をすくめる。

真っ黒なリボンに縛られた髪がそれに合わせて微かに畝った。


(呑気なもんだ)


そんなに甘いもんじゃないと叱り飛ばしてやりたかったが、全く持って毒気を抜かれ切ったこの空間内ではそれも馬鹿らしいことに思えた。

説教は次の機会にでもしよう、とグンタはちょっと片眉をあげてから安酒を一気に煽る。


「………それじゃあ、今度の壁外調査からは生きて帰らないとな。」

「ええ、それはもうそれはもう。気張って行かないとですよー。」

「まあ頑張れよ。………あ、お前なら割と大丈夫だと思うぞ」

「本当ですか?」

「何しろ巨人が巨人を襲うことは滅多に無いからな。」

「えっひどっ」


ショックを受けるクロエを目の当たりにして、グンタは悪戯っぽく右目を瞑る。

片や彼女は「もー、意地でも生き残りますからねえ」とちょっとだけ腹を立てた仕草を見せた。勿論仕草だけで、そんなには怒っていないのだろうけど。


「………壁外の絵を描いて、クロエはどうするつもりなんだ。」

「そうですねえ、とくにどうもしませんが。」

「それは…なんだか勿体ないな。」

「そう言って頂けると嬉しいです。……でも、見たいって言ってくれた人はもういませんから。」

「………………。」

「トロスト区で、つい最近ですねえ。」


クロエはそう言いながら、グンタのグラスにワインを注ぎ足してやる。そうして、自分のものにも。


「お前も……居合わせたのか。」

「いいえ。誰も知られずひっそりしたものでしたねえ。
………死体を見なかったのは、私にとって幸運だったのかもしれませんが。」

「トロスト区の経験者か。」

「なんの役にも立ちませんでしたがねえ。頼りになる仲間の後ろをついていくだけで精一杯でした。
…………でも、全部もう過去のことですからね。苦しいことは忘れることにしたんです。」

「……それは、悲しいな」

「そりゃあもう。
それでもまだ未練はたらたらみたいで、よくも置いていったなー!って夢に出て来たときはほっぺたぐりぐりしちゃってますよー」


クロエは身振りで姿の見えない相手の頬をつつくような真似をした。

少々戯けたその仕草にたまらない哀愁を感じて、グンタは低く咳払いをする。


「分かるよ……」


彼は呟いた。視線は再び開け放たれた窓の方へと。

やはり空は抜ける様に青かった。祭りの最中、爆竹が弾ける音が微かにする。


「よく、分かるよ。」


そう繰り返して、グンタは空になったクロエのグラスへと酒を注いでやった。







「それでもやっぱり、よくここに来ようとお前…思ったな。」

「ええ来ちゃいましたねえ。なんの因果でしょうか。」

「…………壁外で、足引っ張るなよ。」

「大丈夫ですよー。巨人は巨人に狙われませんから。」

「根に持っているのか」


わはは、と思わず大きな声で笑ってしまう。

もー、悪い酔い方ですよ。と嗜められるので、安い酒を出すお前が悪いと軽く毒吐いた。先程初対面したとは思えないやり取りである。


「後悔したりはしないのか。」

「そりゃーもう、みんなに巨人巨人言われますしー」

「クロエならどこ行っても巨人言われると思うけどな」

「先輩の口は悪いし……」

「わはは、すまん」

「謝る気ゼロだし……」


どんどんクロエの声色が弱々しくなるのが面白くて、グンタの気持ちは更に愉快になっていった。


「でも……なんでしょう。大好きな友達が内地にいますからねえ…それを思うと、彼女を守る為に頑張らないとーって思うんです。」

「例の憲兵の新入りか。………どんな奴なんだ」

「はい、それはもう…なんと言いますか、とってもかわいいです!」

「それじゃ分かんねえよ……」

「いえ分かりますよ、見た瞬間かわい過ぎるよ!って目玉転げ落ちますよ!?」

「そりゃ恐ろしいなあ…」

「グンタさんいくらアニがかわいいからって好きになっちゃ駄目ですよ?
二人が恋人になったら私ちょっとやきもち焼いちゃいます」

「いや………話早過ぎるだろ、落ち着け。」


どーどー、と諌める仕草をする。「まあ…でも。よく来てくれた」と苦笑しながら。


「それになんだ、お前が来てくれたことで…俺にもちょっと良いことがあった。」


グンタの言葉に、クロエは少し首を傾げた。呆れるほどのアルコールの摂取量にも関わらず、その頬は未だに白いままだった。


「クロエは……よく、深夜までここで作業してるだろう。」

「えっよく知ってますね」

「そりゃあな。毎晩ひとつだけ明かりが灯っている部屋があれば目立つ」

「ええー、知ってたなら言ってくださいよ。なんだか恥ずかしいなあ。」

「あれを見てると……あそこで誰かが遅くまで頑張ってるんだと思うと、俺もなんだか頑張れた。」


天井で埃をかぶっているランプのかさには、いつの間に訪れたのか白い蝶が羽を休めていた。

それを眺めながら、「礼を言うよ。ありがとう、クロエ」と呟いては視線を彼女へと戻す。


いつの間にか頬をほんの少しだけ紅く染めていた彼女の様子が面白くて、グンタはまた声をあげて笑った。







「グンタさん、良ければ何かひとつ絵を持っていきませんか。」

宴もたけなわとなり……日が西へと傾く時間帯、彼女はグンタへと声をかける。


それに対して彼がえっと声を詰まらすと、クロエは作業机に置かれた習作らしい水彩画を取り出してみせる。

小さな画面の中にはどれも細密な植物や豊かな緑の景色、あるいは穏やかな青い湖面など自然の景色が活き活きと描かれていた。


「いや……それは、良いよ。」

柄にもなく恐縮した反応をすれば、「………あっそうですよね…邪魔になっちゃいますよね…」と返って申し訳無さそうな反応が。


「いやそう言う訳じゃ無いんだ。」


勿論言葉の通りである。そう言って、彼女の手の内から数枚の絵を受け取って眺める。

描かれた黄色い紙の端が丸まって、触れあう時にかさりと温かみのある音を立てるのが印象的だった。


「未来の大画家の絵をタダでもらうのは気が引けるというやつだ…」

「もー、お上手なんですからあ」


簡単にお世辞が通用する単純なやつらしい。

クロエはひょろ長い腕をぱたぱたと揺らして照れ隠しじみた行為をする。



「………そうだな。俺はもうすぐ、誕生日なんだが…」


遠くに茂る青い山、次の絵は湖の脇に咲いた紅い花。どれも幸せそうな色をしていた。



「ちょうど、次の壁外調査が終る頃だ。……その記念に改めて頂くとするよ。」


そうすれば、壁内に帰る楽しみが増えてやる気も増すもんだろ?


絵を返してやりながらにやりと笑ってやる。その時の彼もまた、まるで悪戯小僧のような表情をしていた。


「ええ、こんなので楽しみになるんですかねえ」

「ああ、こんなのでも楽しみになるもんさ」


二人でからからと笑いながら、また安くて薄い酒を飲む。

外は暗くなり、花火が上がるらしい。淡い破裂音と火薬の匂いが漂って来た。


「お前も…頑張って、帰って来いよ」


ゆったりとした心地でそれを聞きながら、言う。

クロエは返事はせずにただコクリと頷いた。


「俺にとっての壁外は血みどろの泥臭い戦場っていうだけだ。でも……お前の眼から見たらまた違う風に見えるんだろ。」


彼女は黙って聞いている。

……何かを思い出しているようだ。自分も時々同じような表情になることを、グンタは痛いほど思い知っていた。



「俺はそれを見てみたいよ……。だから頑張って、帰って来いよなあ…」


クロエ。


また、彼女はコックリと頷いた。

外では緑、赤、青と順番に鮮やかな火花が散る。

三度続けて打ち上がった後、辺りはしばらくの沈黙に閉ざされた。

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