マルコとの日々
とある明け方、急に不安になる事がある。
ちゃんと君の隣に僕は存在しているのか....二人で過ごすこの生活は真実なのか.....
そういう時は必ず悪い夢から醒めた時だ。何の夢かは覚えていない。それでも内容は大体予想が付く....
「クロエ....」
掠れた声で名前を呼ぶ。その単語を口にするだけで心に渦巻く不安が収まってくるのが分かった。
.....それでもまだどうしようもない感情は僕の内側に留まり続ける。
だから....隣で穏やかな寝息を立てている温もりに手を伸ばした。
触れる.....。温かい。
.....良かった....。これは現実だ......。
....柔らかな皮膚に触れていると、もっと彼女を感じたくなってきた。
今度は両腕を伸ばしてその体を自分の方へ抱き寄せる。
するとクロエの寝息が収まり、うっすらとその双眸が開いた。
.....目覚めが悪い彼女にしては珍しい。
「おはよう....」
寝起き独特の少し低い声でクロエは僕に柔らかく笑いかけた。
そのぼんやりした瞳から、恐らくまだ半分は夢の中にいるのだと思われる。
彼女は僕の腕の中で少し身じろぎした後、居心地の良い場所を探す様に胸の中に頭を擦り寄せて来た。
そうしてゆっくりと僕の背中にクロエの腕が回る。
「マルコは....温かいね.....」
最後に一言そう言うと彼女は再び夢の中に落ちて行った。
規則正しい寝息は僕の内側に沁みてくる様で、それが悪夢で冷えきった体を徐々に暖めてくれる。
.....自然と目蓋が下がって来る。
今度はもう.....恐ろしい夢は見ないだろう.....出来る事なら君と同じ夢を見てみたい......優しい夢を....
*
もう一度目を覚ました時、辺りはすっかり明るくなっていた。
クロエは僕の胸の中で気持ち良さそうに寝息を立てている。
たったそれだけで、胸が一杯になる程幸せだった。
.....朝は僕の方が早く目を覚ます。だから彼女の事を起こすのは僕の役目だ。
起きてから7:30を回るまでの少しの間、その顔をゆっくりと観察する。
クロエは....決して目立つ顔立ちではない。だからなのだろうか....いつまで経っても見飽きる事は無い。
それにとても綺麗なつくりをしていると思う。白い頬に触れて、それに自分のものを寄せる。
朝の短い時間のこの行為は、その日をしっかり生きる事が出来る様に、という僕なりの儀式なのかもしれない.....
今日も君が、その隣にいる僕が、幸せに過ごすことができます様に.....
*
「クロエ、起きて....」
7:30を回ったのでそう言うと彼女は微かなうめき声を上げる。
その様さえも可愛らしいと思う僕は末期かもしれない。
「クロエ、起きないとキスするよ....」
「お、起きる。起きます....」
慌てた様な声が布団の中から聞こえる。何だ、起きてたんじゃないか、残念。
「あと5秒したら起きます.......。」
「5秒経ったよ」
「うん....よし、起きるよ...起きるぞ.....」
かけ声だけは立派なんだけどなぁ.....
未だに布団の中に埋もれている彼女の顔を覗き込もうとした瞬間、勢いを付けて起き上がったその頭と額がごつんとぶつかった。
「って......!?」
「.......っく!?」
互いに頭を押さえながらうずくまる。まさか朝からこんな目に合うとは....
「マ、マルコ....!!ごめんなさい!!」
ひどく焦りながらクロエが僕の肩に触れてくる。眠気はすっかり吹っ飛んだ様だ。
「だ、大丈夫....。まさかクロエがこんなに石頭だとは...普段そこまで使ってなさそうなのに何が詰まってるんだい....」
「....もしかしてすっごい怒ってる!?」
「嘘だよ、嘘。」
ようやく目を覚ました彼女と対面しながら笑う。
「おはよう、クロエ」
「おはよう、マルコ」
ひとつキスを交わして、朝の挨拶をする。何だかこそばゆくなって、どちらともなく僕らは笑い合った。
*
「クロエ、それはハミガキ粉じゃない。洗顔フォーム。」
「クロエ、それはジャムじゃない。佃煮の瓶。」
「クロエ、それはテレビじゃなくてエアコンのリモコン。」
「クロエ....服が裏表反対....。」
「クロエ....!ボタンちゃんと閉めなさい!!」
朝の彼女はとにかく抜けている。
まぁ....いつも抜けている方なのだが、殊に朝は酷い。
アニはいつもこんな彼女の面倒を見て来たのだろうか。
「マルコ.....。毎朝ごめんね....」
クロエが申し訳無さそうにする。本当、体は大きいのに内面はいつまでたっても気弱な子供のままだ。
「まったく....僕が居なくなったらどうするつもりなんだい」
あれほど言ったのにまだボタンが止まってなかったのできっちり一番上まで閉めてやりながら呆れた様に言う。
「.....居なくなる予定、あるの...?」
途端にクロエの瞳に不安が揺らぐ。悲しそうな彼女には悪いけれど、それがとても嬉しかった。
「さあねえ。」
きっちりと閉まったボタンに満足を覚えながらにやりと笑う。....少し、いじわるだったかな?
「えっ....」
クロエがあんまりにショックを受けた様な表情をするのが可愛くて、思わず強く抱き締めてしまった。
そうして耳元で「嘘」と囁く。彼女の体からへなへなと力が抜けて行くのが分かった。
「ひどいよマルコ....」
「ごめんごめん...君があまりに素直に反応してくれるものだから....」
「でも...私もごめん...いつも迷惑ばかりかけちゃって...」
「あんなの....迷惑のうちに入らないよ。可愛いものさ」
「....私と結婚して、後悔していない?」
「.....確かにちょっと抜けている君と居ると色々大変だけれど....」
「う....」
「でもそれ以上に、すごく幸せ。」
クロエを抱く腕に力をこめると、彼女もほうと息をついて僕の首筋に顔を埋めながら小さい声でありがとう、と囁いてくれた。
「あ、マルコ....時間....。」
「あと5分位なら、大丈夫だから....」
もう少し、このままでいさせて.....
*
「ただいま」
とドアを開ければ、クロエはいつも玄関で「おかえりなさい」と迎えてくれる。
きっと鍵を回す音を聞きつけると大急ぎでここまで出てくるのだろう。
自惚れではなく、本当に彼女は僕の事が好きなのだ....。だから僕もその想いに、精一杯応えようと思う。
クロエが来てからこの部屋はすごく綺麗で、明るくなった。
....僕自身、割とこまめに掃除をする方だったけれど、なんというか呼吸が深くできる様になった様な....。
とにかく、今の僕はもう....彼女がいないと、満足に息をする事もできないのだ。
外の冷気を帯びた体でクロエの事を抱き締める。
彼女が僕の冷たさに少し身震いした。
「ん....もしかして、雨降って来た?」
コートの表面に付着した水滴を感じたのだろう。
確かに先程から傘を差す程ではないがぽつりぽつりと雨が降って来ていた。
「タオル、持って来るね...」
穏やかに笑ってクロエは僕から離れようとするが、僕としてはタオルなんかよりクロエを胸に抱く事の方が大事だった。
「えっと.....」
いつまで経っても離れようとしない僕に彼女は困った様に笑った。
「今日の、ご飯は何.....?」
そっと頬を寄せながら尋ねる。やはり僕の肌は彼女には冷たいらしく、ぴくりとその体が震えた。
「......ロールキャベツ。寒いし、何だか食べたくなっちゃって。」
「それはいいね...。クロエは料理が上手だから...。」
「実を言うとね....。いつか貴方に会う日の為に学生時代から練習してたのよ」
「.....もし会えても僕が君に結婚を申し込まなかったらどうするつもりだったの?他に恋人がいたりしたら..?」
「もう...、今朝から意地悪ばかり....。そんなつもり無い癖に...!」
「.....バレた?」
少し体を離して見つめ合ったあと、二人で額をこつんと合わせて小さく笑う。
毎日が小さな幸せの連続だ。それが重なり合って、君と過ごす日々は途方も無く大きな幸せになる。
台所から漂う良い匂いを感じながら、もう一度クロエの体を強く抱き締めた。
*
風呂から上がると、先に入浴を済ましていたクロエがぼんやりとテレビを見つめていた。
食卓や台所は綺麗に片付けられている....僕がやるから良いと言っているのに....。
彼女は僕が背後に立っているのにも気付かない様で、ぺたりと床に座り込んで真剣に四角い画面に見入っている。
.....何かと思えば毎週クロエが楽しみにしている美術番組だ。
どこか海外の大きな美術館の特集をしている。
きらきらと少女の様な目をしながら画面に釘付けになっている彼女が可愛らしくもあり、またどこかつまらなくもあり.....
そっとクロエの体を後ろから抱き締める。集中していた彼女は突然の感触に驚いた様にこちらを見る。
そうして僕は、おもむろに近くに落ちていたリモコンを手に取ってテレビの画面を消した。
クロエは少し残念そうな表情をこちらに向けるが、しっかりとその体を足と足の間に収め、低い声で彼女の名前を囁くとあっと言う間に赤くなって俯いてしまう。
.....この子は本当、いつになっても初心だ。
テレビを消した室内は、外の雨音がしとしとと静かに響く。
クロエの濡れた髪から優しい甘い匂いがする。互いの体は程よく温まっており、それがゆるやかに溶け合って...何とも言えない静寂が、辺りに漂っていた。
「マルコ、何か...あったの?」
クロエがぽつりと呟く。
「え.....」
予想外の一言に僕は驚く。
「違っていたらごめんなさい...。でも何だか、いつもと少し様子が違うから....。」
彼女の声は雨の音と一緒で、静かで柔らかな響きを持っていた。
僕はゆっくりとその首筋に顔を埋めて、溜め息をつく。.....クロエの傍は、いつだって呼吸が深くできる。
彼女がいるから僕は毎日、頑張って生きていけるのかもしれない....。
「クロエには....隠し事はできないね.....」
「うん.....」
「ちょっと、仕事でね.....。」
「うん.....」
「でも、クロエは心配しなくても大丈夫....」
「そうだね、マルコならきっと大丈夫だよ....。」
「........クロエ」
「うん?」
「.....ありがとう。」
「どういたしまして。」
.....雨脚が、少し強まった気がする。
それでも、どんなに強い雨に降られても.....この家の中で、君の傍に居れば怖い物は何も無い。
明日も君が、その隣に居る僕が、幸せであります様に.....
「ねえマルコ、明日になれば晴れるかな....」
しばらくしてクロエが話しかけて来る。後ろを向いているので表情は分からないが、きっと笑っているのだろう。
「ん?どうして」
「明日は折角のお休みが重なる日じゃない....。どこか、行きたいな、って....」
「僕は別に雨でも構わないけれど」
彼女の肩に顎を乗せながら呟く。クロエのしっとりとした髪が頬を優しくくすぐった。
「.....そう?」
「だってきっとクロエ、明日は一日中寝てるよ?」
「そんな、いくら私でも....頑張って起きるよ」
「うーん、でもきっと今から無理させちゃうと思うし....」
「うん?」
「一週間....。毎週毎週、僕がどれだけ我慢しているか....」
「はぁ。」
「クロエ、もう寝よう。」
よいしょと力を込めて横抱きにする。僕と身長はそんなに変わらないのに随分と軽い。
「.......あの、マルコ....」
「あ、リビングの電気は消しておくから。」
「いや、違うの....ちょっと私は、状況がよく分からなくて....」
「つべこべ言わずに旦那さんの言う事はちゃんと聞きなさい。」
そう言って彼女の唇に自分のものを落とす。軽いものにするつもりだったが寝室まで我慢できず、遂々深く口付けてしまう。
クロエは時々苦しそうに声を漏らしながら必死に体を支える為、僕の首にしがみつく。
それがとても可愛らしくて更に深く深くと求めてしまう...
唇を放した時には、お互い肩で呼吸をしていた。
彼女に至っては涙まで流してその口元を手で覆っている。
「状況....分かった?」
と耳元で囁けば、クロエは蚊の鳴くような声で「....身をもって」と答えた。
僕はその答えに満足し淡く微笑むと、もう一度その体を抱き直してゆっくりと寝室へと向かう。
夜も更けて、雨は少し弱くなっていった。
二人がいなくなったリビングでは、ただ、その音だけが柔らかく響いている......
うさ様のリクエストより。
マルコとの新婚生活のお話で書かせて頂きました。←[
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