アニとスケッチブック
「クロエ!クロエ訓練兵は何処に居る!!」
教官が青筋を立てながら怒鳴り散らす。
昼食後の訓練再開の時間になってもクロエだけが現れないのだ。....恐らく彼女は処罰の対象になるだろう....
(......珍しい)
アニは不思議に思っていた。
クロエは几帳面に時間を守る方である。
今まで遅刻や欠席は病欠の時を除き一切無いと言っても過言ではなかった。
「.....私が探してきましょうか」
少し心配になりアニが名乗り出る。何か事故に巻き込まれていたりしたら大変だ。
「.....お前が行ってくれるなら安心だ。見つけ次第しょっぴいてこい」
「はっ」
敬礼の形を短く取った後走り出す。視界の端にマルコの心配そうな顔がかすめた。
なんとなく抜け駆けてやった気になって気分が良い。アニは足取りも軽く訓練場を後にした。
*
(いない.....)
宿舎の食堂や自室、手洗い所.....果ては風呂場まで見回ったが馴染みの長身は見当たらない。
(......昼食後、どこかに出掛けたのか....?)
だが出掛ける所などこの訓練場内には....
(クロエが行きそうな所....今日は天気が良くて気持ち良い....もしかしたらまた絵を描きにどこかへ....?)
.....それだ。間違えない。クロエの考えそうなことである。
アニはひとつ溜め息を吐いて宿舎を後にした。
......あの子の絵描き馬鹿にも困ったものだ.....
*
クロエが絵を描きに訪れる場所なら大体想像がつく。
彼女が描くのは主に風景画....。
絵の傾向から、緑が多く空が綺麗に見える場所へ行けば大体ハズレは無いだろう。
(ん....。)
とりあえずクロエが気に入っている訓練場の裏にある森に分け入ってみた。
するとすぐに見覚えのある長い足が、日の光が柔らかく当たる木の根元に放り出されているのを発見する。
ぴくりとも動かないその足を見て、一瞬何かの事件に巻き込まれて倒れているのかとひやりとしたが、
近付いてみると彼女は穏やかな寝息を立ててその身を赤茶けたセコイヤの幹に預けているだけだった。
(.....寝てたのか.....。)
クロエは寝起きが悪い。
いつも朝は四苦八苦しながら起床しているし、夜はすとんと寝てしまい、どれだけ周りが騒がしくても決して起きない。
.....まぁ、これで午後の訓練に遅刻した訳は分かった。
しかし年頃の女子が地面に直接座り、なおかつ無防備にも眠り込んでしまうというのはどうなのだろう.....
とりあえず起こして一言叱ってやらねば。
そう思い更に彼女との距離を詰めると、クロエは何かの気配を感じ取ったのか少し身じろぎをする。
そして顔がこちらに見える姿勢に落ち着くとまた気持ち良さそうに寝息を立て始めた。
(.......。)
艶やかな髪の隙間から白い顔が覗き、淡い色の唇がそれに囁かな彩りを添えている。
頬の輪郭は彼女の内面と同じ様に繊細で優しい形を描いていた。
アニはクロエの顔が好きだった。
目立つ顔立ちという訳ではないが、とても綺麗な造りをしていると思う。
眠っている時もやはりそれは変わらずにいて、思わずゆっくりとそれを眺めてしまう。
閉じられた目元には睫毛の影が柔らかく落ちて.....その目が開いている時...いつも視線の先に居るのは....
アニの胸に少し良く無い空気が立ちこめた。
.....あんな奴、あんたはどこがそんなに良いの?
そっと彼女の隣に腰を下ろしてその頬に触れる。
柔らかい日の光を充分に吸収していたクロエの体はとても温かかった。
彼女の顔から少し視線をずらすと、地面に開かれたまま置かれているスケッチブックが目に入る。
どうやらまさに絵を描いている最中に意識を持って行かれたらしい。
開かれている画面には光が差し込む木立が繊細な筆致で描かれている。
....重なり合う葉が光に透けている様等は、まるで写真の様に正確で緻密な描写だ。
クロエは元から描く事が得意な少女であったが、ここ最近その腕は増々上達している様に思える。
特に色使いの美しさは格段に上がった。.....まるで生きている喜びを表現する様に....
(そう.....奴と想いが通じ合ったあの日から....)
いつだってあの子の心の中心にはあいつがいる。
勿論自分だってクロエが幸せになってくれて嬉しいとは思うのだが....思う、のだが.....
ひとつ溜め息をついて拾い上げたスケッチブックをぱらぱらと捲る。
彼女は驚く程多くの風景を描いていた。
.....訓練に使う更地....食堂の窓から見た木立...ぼろぼろの物置とその脇に立つ大きな桑の木...
森の中にある小高い丘から一望した景色....遠くに小さく宿舎が見える...
ほとんどが見慣れた訓練場の風景であるのに、彼女の目を通すとこんなにも世界は美しいのかと感心してしまった。
どれも地面の小石から葉の一枚一枚に至るまで丁寧に陰影が描かれている。ここまで描き込んでもらえば、風景の方も本望であろう。
(ん.....?)
しかし風景画が多くを占めるスケッチブックの中に唐突に別のものが出現した。
「なっ.....!」
驚きのあまり声をあげる。
そこには、セピア色のコンテで描き上げられた紛う事無き自分の顔があったのだ。
......頬杖をついてぼんやりとしている所を見ると恐らく座学の時間の自分だ。
脇に詰まれた本も教本の表紙に刻印されたエンブレムが描かれている。間違いない。
いつも丁寧に描き込むクロエの絵に対してこちらはさらりと淡く陰影がつけられているだけである。
恐らく短い時間で素早く描き上げたのだろう。コンテの跡が残る画面は新鮮さを感じる。
それからもスケッチブックを捲る度に自分の顔が風景画に混ざって時々現れた。
どれも柔らかい光に包まれた優しい表情をしていて、仏頂面の自分の顔を見慣れている身としては違和感を感じる。
(そう.....クロエの目には....私の姿もこんなに綺麗に映るのか....)
クロエの絵は、彼女自身に似ていると思う。
どれも淡くて、優しくて、温かい.....。
でも、世界はね....あんたが思う程美しくは無いんだよ.....。私だって.....
絵が描かれている最後のページには、目を閉じて眠る穏やかな顔をした自分が描かれていた。
....全く、あんたがこんなに私の顔を盗み見ては描いていたなんて気付かなかったよ....。
ふと、そのページの隅に走り書きされた文字に目が留まる。
「.....くっ...」
文字の内容を理解すると、目頭が少し熱くなるのが分かった。
何であんたは....人の気も知らないでそんな事を簡単に思えるんだ.....!
『アニはとても綺麗で見ていると幸せになれる。人物はあまり上手では無いけれど彼女だけは描かずにいられない。
私はアニがとても好き。どうか彼女が幸せになれます様に。ずっと友達でいられます様に。』
細く長く息を吐いてスケッチブックを閉じる。
もう一度安らかに眠る彼女に視線を向けた。相変わらず静かで規則正しい呼吸が聞こえる。
ねぇクロエ.....。
なんであいつなの.....?どうして.....
どうして....私じゃないの...
私では....駄目なの....?
(でも.....)
私は....あんたの親友で....女で....それで戦士で....
あまりにも二人の間には障害が多過ぎる。
....それにあいつとクロエは幼馴染だ....最初から対等な勝負では無かったんだ....
いつか私には戦士として戦わなくてはいけない時が来る。
その時にあんたは沢山泣くんだろうね....。私の事を嫌いになるのかな....
それを思うと忘れかけていた痛みと悲しみが胸に蘇る。
自分で決めた道なのは分かっている....。それでもマルコを羨まずにはいられない。
あんたはずるい....。ひどい男だよ.....
すっとクロエの左胸に掌を当てる。
やや控えめな膨らみの下に命が波打っているのが分かる。
それからゆっくりとその場所に自分の耳を持っていく。柔らかい皮膚の中からとくりとくりと心臓の音が聞こえた。
.....きっと、彼女の鼓動を直に聞いた事があるのは自分だけだ。
ねぇマルコ、私はね...まだあんたよりはクロエに近い存在だと思うんだよ。
これからあんた達二人の距離はどんどん縮まるんだろうけど....
それでも今は、まだ私の方がクロエの事を良く知っている。
だからもう少し...このままでいさせて....私の居場所を...どうか奪わないで.....。
クロエの胸から顔を上げたアニは、そのままゆっくりと彼女の肩に頭を預け直した。
この子の隣は温かくて....安心できる。望む事ができるなら...どうかこのまま...
温かな日向で透き通る日光を浴びているうちに、アニの目蓋もクロエにつられる様に閉じて行った。
やがて木立の中には規則正しい二つの呼吸が微かに聞こえてくる。
二人の頭上の梢に止まっていた一羽のオオルリがその様子を見つめていたが、やがて流れる様な声で短く鳴いた後、青い翼を広げてどこかへ飛んで行ってしまった。
*
「......あれから数時間経つが.....何故レオンハートまで戻ってこないのだ....」
「ぼ、僕が探してきましょうか....」
マルコに呆れられながら二人が起こされるまであと少し...
リン様のリクエストより。
アニと一緒にお昼寝するほのぼのの話で書かせて頂きました。
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