愛しい雨 | ナノ


マルコと雪 後編  


その夜、クロエはもうそろそろ寝ようかな、と自室に向かって女子寮の廊下を歩いていた。

この宿舎も相当年季の入った建物らしく、あちこち塗装が剥げて歩くとフローリングがぎしぎし鳴る。

それでもクロエはここが好きだった。

訓練所で過ごした時間は今まで生きてきた中で一番幸せなものだったからだ。

きっとこれからどんなに沢山の辛いことを経験しても、ここでの生活を思い出せば頑張って行ける....そんな気さえする。


「....うわ、寒いなぁ」

しかし廊下は特にすきま風が強い。クロエは両腕をかき抱いてふと窓を眺めた。

気泡が入って少し外の景色が歪んで見える窓ガラスを、木の桟が囲っている。

四角く切り取られた風景は深い群青色で、冬の星が水色にちらちらと遠くに光っていた。


(綺麗....)


冬の澄んだ空は星が殊更綺麗に見える。クロエは思わずその景色に見とれてしまった。


(ん.....?)

目を凝らすと、白い細かい光がきらきらと夜空に舞っているのが分かった。

.....星が....空から降ってきている.....?

(いや、違う....あれは.....)


「.......雪だ.....!」


クロエはそう呟くと居ても立ってもいられなくなり、廊下を今までと逆方向に走って宿舎の入口まであっという間に辿り着いた。

靴を引っ掛けて外へ飛び出すともう地面には薄く白い雪の層ができていて、辺りの草木にもそれは柔らかく降り積もっていた。

少し風が吹くと一吹ケヤキの林をそよがせながら、向うの山にも積もっていた粉雪が運ばれて来て、キラキラと光りながらクロエの頭に降りしきる。

深い藍色の中で静かに輝く白い雪の結晶は清らかな美しさをたたえていて、クロエはその眺めをただじっと見つめていた。

そうして目に焼き付けて、彼女は明日にでもこの景色をスケッチブックに再現するのだろう。



「こら、クロエ」

諌める様な、しかし優しい声がしてクロエは振り返る。

そこにはクロエがこの世で一番大好きな人物が立っていた。


「マルコ....雪だよ....!」

クロエは思わず彼に駆け寄ってその両手を取った。

楽しそうな彼女の表情に反比例してマルコは鹿爪らしい顔をする。

「こんなに手を冷やして....!あぁ、その格好も随分薄着じゃないか!」

全く仕様が無い、と溜め息を吐きながらマルコは自分の首に巻かれていた深緑のマフラーを解いてクロエの首にしっかりと巻き直す。

クロエは彼の優しい仕草に思わず目を細めた。

「......これはあげるから....明日からはこれを巻いて過ごしてね...」
マルコが話す度にその息が白い蒸気になって粉雪の中に溶け込む。

「ありがとう.....でも悪いよ....マルコも寒いでしょう」

「......いいから.....!」

「う、うん.....。」

「もう今日みたいに....簡単に人に首筋を触らしちゃ駄目だからね」

「ご、ごめん....」

「謝って欲しいわけじゃないよ.....本当に君ってなんというか.....はぁ」

また溜め息を吐かれてしまった。


「.....そういえば、マルコは何故ここに?」

クロエは先ほどから疑問に思っていた事を問う。
彼は自分と違って大人だ。雪にはしゃいで飛び出してきたという訳では無いだろう。

「それは....」

マルコがちらりとクロエを見る。

「君は昔から雪が降ると一目散に外に駆け出していってその度に風邪を引いてたろう?
きっと今年もそんな事だろうと思って外に出てみたら...案の定だよ....!」

もう一度溜め息を吐かれる。随分と呆れられてしまっている様だ。

.....でも、

「わざわざ来てくれたんだ.....」

クロエは嬉しそうに微笑んでから、そっとマルコの胸に頭を寄せる。

「ありがとう.....好きよ....マルコ」



.......そうだ、彼女はこうなのだ。呆れる程照れ屋な癖に、自分からのアプローチには全く躊躇が無い。

僕がそれにどれだけ困っているのか....分かっているのだろうか.....。



自分の胸の中にあったクロエの体をマルコは勢い良くかき抱く。

当然クロエは驚いてその顔を上げた。


「な、なにを「クロエ」

互いの距離が近い双眸がぶつかり合う。

「僕も....好きだよ.....」

仕返しとばかりにそう言って微笑むとあっという間にクロエの顔を赤く染まった。


.....だからその反応は卑怯なんだ.....。


それでも、赤く染まった顔でクロエは柔らかく笑った。

長い睫毛や艶やかな髪に雪の結晶がきらきらと光っている。


「ねぇ、私は今すごく幸せだよ.....」

クロエは顔を少しずらして雪が降りしきる辺りを見回す。

「こんなに綺麗な景色を、大好きなマルコと見る事ができて.....本当に幸せ。」
幸せ過ぎて罰が当たりそう、と彼女は再びマルコの胸に顔を寄せる。


マルコもまた、幸せだった。

疲労の残る体を引きずって、寒い思いをしてでも、こうしてクロエと一緒にその年初めての雪を見る事が出来て良かった....心からそう思う事が出来た。


「クロエ....」

マルコが優しくその名を呼ぶ。

「来年も....再来年も.....これからずっと先も.....こうして二人で雪を見よう....」
静かにそう言うとクロエの背中に回した手に少し力を込めて彼女を抱き直す。

首筋に顔を埋めると、入浴の名残か石けんの香りがした。


「嬉しいな.....そうだね....どんなに大人になっても....毎年雪を一緒に見ようね....」
約束だよ、とクロエが微笑む気配がした。

「.....うん、約束するよ.....。」
マルコはそう言うとゆっくりと目を閉じた。



青白く光る雪はゆっくりと降りしきり、抱き合う二人の輪郭を淡く照らしていた。

やがて辺りはすっかり銀色に染め上げられて、二人の足跡も跡形も無く消えて行ってしまった。









「あ、雪だ....」

クロエが窓の外を眺めながらぽつりと呟く。

あの時と同じ様に、濃紺の夜の闇の中、銀色の雪が星の様に瞬いている。

外はひどい寒さが吹き荒れているが、室内は暖房で調度良く温度管理がされていて心地よく、もう訓練所の宿舎の様なすきま風には悩まされる事は無かった。


「今年最初の雪だね....」

マルコもその後ろから顔を出した。

「ねぇマルコ....昔した約束覚えてる.....?」

クロエが自分の後ろに居るマルコに軽くもたれながら言った。
その仕草を甘受しながらマルコは小さく笑う。

「あぁ....毎年雪を一緒に見ようってやつだろう?」

「その約束、今でも有効だよね?」
クロエが嬉しそうに尋ねた。

「勿論。.....ただし、室内でね。」

マルコのその言葉にクロエは少し不満げな表情をする。
恐らく今から外に一緒に行こう、と誘いたかったのだろう。

「まったく君は....自分の体の状態の自覚が無いのかい.....寒さには気をつける様にあれほど言っただろう...」
マルコが後ろからそっとクロエの体を抱き締めて、ニットのセーターの上からお腹の辺りを優しく撫でる。

「もう一人の体じゃ無いんだから.....」

愛おしそうにそう呟く。クロエはその言葉に幸せそうに耳を傾けた。


「でも、この子に雪を見せてあげたいと思わない.....?」
クロエはまだ諦め切れないらしい。首を曲げて顔だけこちらに向けながらそう言う。

「駄目。.....それに生まれてから沢山見せてあげれば良い。」

「.....そっか...。そうだね....。
これから....三人になっても....四人になっても....また二人に戻っても....ずっと一緒に雪を見ようね...。」
ようやく納得した様に、クロエは静かに目を閉じた。



窓の外では雪が深々と降り続いていた。

街灯の光を反射して、柔らかな黄色に色付いたそれはどこまでも辺りを同じ色に染め上げて行く―――



メル様のリクエストより。
訓練兵時代のマルコ(104期)との、”ただただ普通のなんでもない日常”という感じで書かせて頂きました。




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