25愛しい雨
「それじゃあアニ、また明日ね」
画廊の戸締まりを終えたアニにクロエは声をかけた。
暖房が効いていた室内から外に出ると、身を切る様な寒さが三人の体を包み込んだ。
しかし、心はどこか温かで、体に感じる寒さもあまり気にはならなかった。
「クロエ」
鍵を鞄にしまいながらアニはクロエに言葉をかける。
「明日は昼から来てくれれば良い」
つもる話もあるでしょう、と少しいたずらっぽく言うアニの表情はとても穏やかだった。
「ア、アニ.....」
クロエの頬が薄く朱に染まる。
「幸せになるんだよ.....」
少し背伸びしてクロエの頭を軽く撫でるとアニは賑やかな夜の雑踏の中へと消えて行った。
クロエとマルコは彼女の姿が見えなくなるまで、ずっとその背中を見送った。
「クロエ、これから....時間はあるかい?」
答えは分かり切っていたが、一応マルコは彼女にそう質問した。
もちろんクロエは笑顔で首を縦に振った。
「それじゃあちょっと付き合ってもらおうかな.....」
マルコは彼女の手を引いて歩き出した。
―――ずっと――この日を夢見ていた。
彼女の手を引いて街を歩く今日という日を.....
もう、心に感じていた寒さは感じなかった。
一人じゃない、君が傍にいるというだけで心はこんなにも―――
*
「少し....背が小さくなった...?」
マルコがクロエの頭を軽く撫でながら言った。
二人は現在夜の公園のベンチに腰掛けている。
「よく分かったね....うん。180cm無い位になったんだ....」
それでもまだ大きい方だけどね.....クロエは苦笑いしてそれに答えた。
「いや....背が大きいのもクロエの魅力のひとつだったけど....僕と同じ位になってくれてなんだか嬉しいよ...」
君より小さいと何だか格好が付かないからね....マルコは照れくさそうに言う。
輪郭の滲んだ満月が中空に浮び、ベンチの前の噴水の水はただ白くキラキラと空中に撒き上がっていた。
満月に照らされた辺りは柔らかい光に包まれ、すっかり葉を落とした楓の枝は撒き上げられた雫を含んでしっとりと黒ずんでいる。
遠くに見える街の光は霰に似て、微風が時折淡い溜息の様に通過していき、いかにも静かな冬の夜であった。
二人の手は寒さからか自然と重ねられていて、肌が触れ合っている場所からじんわりとした温もりを互いの体に伝えていた。
「クロエ」
マルコがクロエを真っ直ぐ見つめながら名前を呼んだ。
クロエは少し恥ずかしそうにしながらも笑顔でそれに答えてくれた。
「なに?マルコ....」
「.....君に....こっちで再会したら最初に言う事は....もうずっと決めてあったんだ....」
「うん....何でも言って.....」
マルコは握っていた彼女の手を取るとその掌の中に何かを置いた。
クロエが自分の掌に視線を移すと、そこには濃紺のビロード地の小さな箱が鎮座していた。
なんだかクロエは涙が出そうになったが、ぐっとそれを我慢してその箱の蓋をゆっくりと開けた。
少し固い蝶番式になっていたそれはぱかりと小さい音を立てて白いシルクの中身を出現させる。
中にあったもの....中身は分かり切っていたのだが.....を見た瞬間、クロエの涙腺は決壊してみるみる涙が溢れ出た。
「マ...ルコ.....」
「.....本当に君はすぐ泣くんだから....僕が傍に居ないと心配で仕様がない....
やっと僕もちゃんとした指輪を買える様な年になったんだよ....
絶対に君を見つけ出せる確信があったから.....いつも持ち歩いていたんだ.....
ねぇクロエ.....待たせて本当にごめん
.....僕と結婚して下さい。」
クロエは明るい一番星の様にひとつ輝くダイヤモンドで飾られた銀のリングを、静かに涙を流しながら見つめた。
そうしてマルコの方にゆっくりと向き直ると、ごく小さな声で一言、「もう一度.....貴方にはめて欲しい...」と言った。
「いいよ....」
マルコはそう言ってゆっくりと彼女の手を取った。
相変わらず白い。こちらでは体を鍛える必要が無いからなのか、以前より若干ほっそりとしてしまっている。
「私も....」
彼女の指に指輪を通しているとクロエが呟いた。
「私も....マルコが必ず私を見つけてくれると思っていた.....
だって貴方の事.....信じていたもの.....」
そう言うとまたその目から涙がぽろりと落ちる。
「ありがとう......本当に長い時間が掛かったけれど....それでも諦めないで...本当に良かったよ....
きっとこれだけ時間がかかったのは、僕がこの指輪を買える年になるまでは君に会えない....
そういう運命の巡り合わせだったのかもしれないね.....」
緩すぎないか少し心配だったが、指輪は彼女の指にぴったりとはまった。
クロエはしばらく自分の指にはまった指輪を眺めていたが、やがてその手と右手でマルコの両手を取ると、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「どうか.....二度と私を離さないで......お願い。」
「もちろん....。誓うよ...。二度と君を離さない。」
マルコの胸にずきんと痛みが走る。自分は彼女にずっとこんな表情をさせていたのか.....
その答えを聞くとクロエは安心した様に微笑んだ。
「ありがとう......。私の事....見つけてくれて....まだ愛し続けてくれて...本当にありがとう...。」
「それは僕の台詞だよ....僕は生まれ変わっても君の事が好きだと、あの時に約束したじゃないか.....
だからその約束を果たしただけだよ.....君こそ....僕の事を覚えていてくれて....本当にありがとう....」
マルコは握り合った手に力をこめた。
一途に自分の事を思い続けてくれた彼女が本当に愛おしくて仕様がなかった。
「私が貴方の事を忘れられる訳ないじゃない.....!
私だって....何度生まれ変わったって貴方の事を好きだよ......」
クロエの瞳に再び涙が溜まる。
それは月の光、公園の街灯、街の灯り、様々な光を反射してきらきらと輝いていた。
クロエはやっぱり綺麗だ。7才の時も、訓練兵だった時も、そして今も。
いつになっても君は変わらずに僕だけを思い続けてくれる。
その事に、驚く程僕は救われていたんだ.....
握り合っていた手をそっと離すと、マルコはクロエの体を優しく抱き締めた。
クロエの匂いがする。何十年と夢見続けて来た彼女が今、自分の腕の中に居る......
そう思うとたまらなくなって、彼女の唇にキスを落とした。
クロエは突然の事に固まってしまっている様だがマルコは構わず彼女の唇の横に、頬に、額に、目蓋に、顔中にその唇を落とす。
最後にもう一度クロエの唇を食むとようやく顔を上げて彼女と視線を合わせた。
クロエはこれ以上無い位真っ赤になっている。
.......それでもマルコの心は何故か晴れやかで、もう一度クロエを抱き締め直すと彼女の首筋に顔を埋めた。
「ごめん.....驚かしちゃったね.....でも...仕様がなかったんだよ.....
僕がやりたいと思ったからやったんだ......嫌だった.....?」
クロエの体がぴくりと震えると、そろそろと自分の背中に手が回ってくるのが分かった。
いじらしい仕草にくつりと喉が鳴る。
「ううん.....嫌、じゃないよ.....少し驚いただけ.....
マルコは絶対に私が嫌がる事をしないもの......だから、貴方がしたいと思った事をしてくれればいい....」
クロエのその言葉でマルコの胸に安心感と喜びがじんわりと広がった。
本当に僕は....彼女に愛してもらえて良かった.....
「ありがとうクロエ.....本当にごめん.....今度こそ幸せにするから....」
声が喉に詰まる。目頭が熱くなってきた。切なさと感謝と苦しさと愛しさと、様々な感情が押し寄せて苦しかった。
「私は....マルコが傍にいてくれればそれだけで幸せだよ....ありがとうは私の台詞....」
クロエはゆっくりと彼の胸の中で目を閉じた。
クロエは今ここで消えて無くなっても良い位、本当に本当に幸せだった。
それでももう....心のどこかが不安になる事は無い。
マルコの事を信じれた。永遠に一緒に居る事ができる確信があった。
どんなに運命に振り回されようと、それに負けない心の強さを確かに感じる事が今の彼女にはできた。
*
しばらく二人は無言で抱き合っていたが、やがてマルコが体を起こすと、「お腹....減らない?」と笑顔で尋ねてきた。
クロエはハッとした表情をした後、少し照れくさそうに「.....結構減ってるかも....」と答えた。
再会の感動で忘れていたが、時刻は20:00を回った所。
夕食を食べていなかった二人は途端に空腹を覚えてなんだかおかしくなった。
「どこか食べに行こうか....何か食べたいものはある?」
「.....何でも美味しく食べるけど....」
「じゃあこの前接待で行った近くのホテルで美味しいフレンチがあったんだ....どうかな?」
「.....もうちょっと安い所でいいよ....お金あんまりないし」
「何言ってるの。奢るよ」
「えぇ?ううん、いいよそんなの.....!」
「遠慮はなし。奢られるのも女性の甲斐性というものだよ。さ、立って」
マルコはクロエを立たせるとそのまま手を引いてあっという間に歩き出してしまった。
クロエはまだ頭が彼の行動に付いて行けず、目を白黒させていた。
しかし、自分の手を引いて前を歩くマルコの耳が赤い事に気付くと、あぁ...彼も緊張していたのかな...と何だか嬉しくなった。
いつも自分だけが彼を思っている様な、そんな不安がクロエにはあったのだ。
でも、そんな事は無かった。マルコはいつだってちゃんとクロエを愛してくれて、こうしてまた自分を見つけ出してくれた。
クロエは一歩大きく歩を進めるとマルコの隣に並んだ。
こうして隣に歩く事ができるのが、何よりも嬉しかった。
イルミネーションで彩られた街は夜に向けてより賑わいを増していく。
クロエとマルコの姿はやがて幸せな街の雑踏に溶けて消えて行った。
――――川の水がその土地をやがて離れて海へ還ってしまっても、雨となって再び大地に降り注ぐ様に――
――――私たちは何度でも、何度でも巡り会う――
「愛しい雨」end
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
201310
雨:ギリシア神話のひとつに、娘ダナエの子供に殺されるという予言を恐れた王がダナエを塔に監禁してしまう逸話がある。
しかしダナエは黄金の雨に姿を変えて塔に侵入した大神ゼウスの子を宿す事となった。
その事から、ダナエと雨が描かれた絵画は彼女の愛に対する従順を象徴する。
また、純潔でありながら神の力で身ごもった事は、キリスト教における聖母マリアに結びつけられることもあった。目次[
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