愛しい雨 | ナノ


21メメント・モリ  


「やっぱりここにいたか......」


地下へと続く階段を降りて扉を開けると馴染みの長身の女性が目に飛び込んで来た。


「ジャン」
彼女が嬉しそうにこちらを振り向く。
その手の中には百合の花が生けられた白い一輪挿しがあった。どうやら花瓶の水を入れ替えていた様である。

「お前ん所のうるせー二人が探してたぞ」
ジャンは部屋の中へと歩を進めてクロエの傍まで近付く。

クロエは一輪挿しをサイドテーブルに置くと近くまで来ていたジャンの隣に並んだ。
相変わらず彼女の背は自分よりも高く、ちょっとだけそれが癪に触る。


「ハインツとエーリカの事?可愛いでしょう、あの二人。」
クロエが楽しそうに話す。

「可愛いと思うんならたまには仕事をきっちりやってやれ....」

「あれ、前回の壁外調査の書類は結構頑張ったよ?」

「報告書を全部絵で埋める奴があるかっ!やたら達者だからこっちも反応に困るんだよ!」

ジャンの平手がクロエの額に炸裂した。

「った.....。ひどいなぁ。その方が分かりやすいと思ったんだけど...」
赤くなった額をさすりながらクロエは言う。本当に悪気は無かった様だ。

「そりゃお前だけだ.....。流石のアルミンもあれには苦笑いしてたぞ」

「あぁ、でもその後にあの報告書、額に入れて応接室に飾ってくれたよね」

「報告書が飾られてる応接室ってどうなんだよ.....」

ジャンのぼやきにクロエは楽しそうに笑った。




この十数年でクロエは驚く程綺麗になったと思う。

もう誰も彼女の長身を笑う人間はいない。

その身長に見合うだけの内面と実力をクロエは既に身に付けていた。

それは調査兵団に入ってからの身を粉にする様な努力がもたらしたものなのだろうが.....


......ひどく、無理をしている様に感じた。


昼はひたすら訓練に打ち込み、夜は倉庫にこもって薄明るくなるまで絵を描く....

まるで必死に何かを思い出さない様にその身を酷使し続けて作業にのめり込んでいた。

そしてその結果、今の分隊長の地位にまでのぼり詰めた......


正直に言うとマルコの後を追ったりしないか不安だったが、彼女はそんな事はしなかった。

クロエは強かった。


その姿を、オレはただ見守っていた。

できる事なら支えてやりたかったが、それは彼女が望む事では無いのだろう......




「しかしここも変わったよなぁ...昔は殺風景な地下室だったのに」

ジャンはそう言って辺りを見回した。
中の木材がむき出しになっていたりぼろぼろに欠けていた土壁はきちんと修繕され、床は綺麗に掃き清められている。
物置と化していたこの場所のゴミは捨てられ、ほこりも徹底的に落とされているので実に気持ちのいい環境だ。
更に白いサイドテーブルには淡い水色のクロスが掛けられ、その上には花瓶に生けられた花がいつも瑞々しく咲き誇っていた。

これ等はほとんどクロエが一人で行ったことだ。改めて見ると感心してしまう。


「だって、折角の女の子の部屋だもの....綺麗にしておかないと」
あんな部屋じゃあんまりに可哀想でしょ、とクロエは穏やかに笑う。

その視線の先には水晶体に閉じ込められて長い眠りに落ちているアニ・レオンハートがいた。


「なぁクロエ......お前が昔っからお人好しなのは知っているが.....
なんでこいつの面倒をそこまで見れるんだ......こいつは.....」

ジャンがその先を喋ろうとした瞬間、唇に柔らかな物が当たった。

クロエがその指でジャンの言葉を遮ったのだ。

そうしてゆるゆるとその首を振ると再び柔らかく微笑んだ。



「......そうだね.....アニがした事は許されない事だと思うよ.....
それは間違いの無い事だね....。

でも.....私はアニに絵を買ってもらう時まで友達でいると約束したんだよ。その約束は破れない....
だからアニが罪を償い終えるまで傍に居ると決めているんだ...それは何十年先になるか分からないけれど...
その時に私はアニの隣で笑っていたい。そう思う事が今の私の生き甲斐だから....」

クロエはアニを覆う水晶体にぴたりと手を触れる。
そこから自分の手の温もりがアニにも届くと良い.....と願いながら。


「それにしてもアニはいつまでたっても10代の頃の美人さんのままなのね....羨ましいなぁ」

クロエがアニの顔を覗き込む。その双眸は固く閉じられていた。

「そういうお前は最近小じわが出て来たんじゃないのか?」

「はいはい、なんとでも言って下さい」
クロエは華麗にジャンの軽口をスルーした。

ジャンはからかい甲斐の無い奴になっちまって....と少しつまらない気分になる。


「お前は変わったよなぁ.....昔は子鹿の様に繊細だったのに....」
子鹿って割にはデカかったけどな、とジャンが鼻で笑った。

「それはジャンが虐めるからでしょう」

「はぁ?何言ってんだ?オレ程お前に親切だった奴なんてマルコくらいしか.....」
そこまで言ってジャンは自分の失言に気付いてはっと口を噤んだ。

「嫌だ、マルコ以外にもジャンより優しい人は一杯いたよ」
しかしクロエは全く困った様子も無く朗らかに笑いながらそう言った。


「さて、エーリカとハインツに良い加減捕まってあげないと可哀想ね....
二人はどこにいるの....?」

「あぁ.....、お前がアトリエに使ってる倉庫だ」

「そう、じゃあ行って来るね。わざわざありがとう、ジャン。」
クロエはゆっくりと地上へと続く扉を開いた。

「クロエ」

ジャンがその背中に声をかけたので、クロエが不思議そうに振り返る。

「その....あまり無理すんなよ....」

今は.....そう言う事しかできなかった。


クロエは少し驚いた顔をした後、綺麗に微笑んで見せる。

「うん....ジャンもね...」
そう言って彼女は静かに地下室の扉を閉めた。




ジャンはアニと二人きりになった地下室で溜め息を吐いた。


あの日から....クロエの口からマルコの話を聞いた事は一回も無い。

あれだけ口を開けばマルコマルコマルコ、時々アニだった女がぴたりとその名を口にしなくなったのだ。

......まるで最初からそんな人物は居なかったかの様に......


しかし....クロエは......隠してはいるが確実にマルコの事をこの十数年間引きずり続けている。

一緒に街を歩く時、黒みがかった茶髪で雀斑のある男性を見つけると必ず目で追ってしまっているのが嫌でも分かる。


(しかも.....)


それの死に親友が関わっているとあっちゃなぁ....

恋人と親友を最悪の形で一度に失ったクロエには、最初から居なかった者として最愛の彼を扱う事しか自分を守る術が無かったのだろう。


ジャンにとってクロエは妹の様に大切で可愛い存在だ。

できる事なら新しい恋のひとつでも見つけて幸せになって欲しいと思う。


(だが.....それは無理だろうな....)


クロエにとってマルコの存在はあまりに大き過ぎた。他の男性等考えられないだろう。

その証拠にこの年になっても誰とも恋愛をせず、ただ自分の仕事と絵の制作に打ち込み続けている。


クロエの心の切なさと反比例して彼女の描く壁外の絵はどんどん美しさを増し、高値で売れる様になっていった。

今ではそれも調査兵団の貴重な資金源のひとつだ。


彼女が絵を描き始めたきっかけもやはりマルコだと聞く。

絵を描いている時がクロエにとって唯一彼と繋がっていられる時間なのだろう....


それだけ大きい存在だったマルコの記憶に無理矢理蓋をする事は、クロエの心に相当な負担をかけている筈だ....



「だがなぁ.....何も忘れる事だけが救いじゃねぇと思うんだよ」

ジャンはアニを覆っている水晶体をこつんと叩きながら呟いた。



『人は思い出だけでも、思い出無しでも生きられない』
どこで聞いたのか何回も繰り返し使われて来たフレーズだが、本当にその通りだと思う。

辛い思い出も、楽しい思いでもいつかは自分の進むべき道を示す大事な標となる。それを無視して進むことはできない。


(......何かあいつにも....きっかけがあればなあ.....)


ジャンは再び溜め息を吐いてアニの顔を見つめた。相変わらず彼女は昏々と眠り続けている。


「人間って難儀な生き物だよなぁ」

ジャンは一言呟くと、そのまま地下室を後にした。





メメント・モリ:前述のヴァニタスに取り入れられたテーマとして「メメント・モリ」がある。
ラテン語で「死を覚えよ」の意であり、
人間はいずれ死ぬ運命にあることを心に留めて良く生きるための警句。
このテーマは、キリスト教思想と結びつく事で発展した。
静物画に多く取り入れられ、死が確実に訪れることを示す為に頭蓋骨あるいは白骨化した人間が描かれる。



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