18ヴァニタス
「マルコが死んだ」
ジャンは悲痛な面持ちでクロエに告げた。
不器用ながらも彼は必死でクロエを励まそうとに声をかけてくれたが、その言葉はひとつも頭には入ってこなかった。
何故か涙は出なかった。心を麻痺させて、何も感じなくさせなければ耐えられなかったのだ。
眠れない日々が続いた。
食欲もまるで無くなった。
眠る事、食べる事、生きるために成すべき事をするのを体が拒否していた。
出来る事なら.....早く、貴方に会いに行きたかった。
(明日は所属兵団の志望を問われる日.......)
クロエは相変わらず一睡もできない夜を送っていた。
トロスト区防衛戦により、104期訓練兵の心には深く癒えない傷が残された。
恐らく調査兵団への志望者もぐっと減ってしまっている筈だ。
クロエはもう志望兵団なんてどこでも良かった。
あんなに憧れた外の世界もどうでも良かった。
ただ、調査兵団に入れば少しでも死を早められるかもしれない.....とは思っていた。
(喉....かわいた......)
クロエはアニを起こさない様にそっとベットを抜け出した。
アニと同じ部屋で眠るのもこれが本当に最後の夜だが、クロエはここしばらくアニとすら会話をしていなかった。
*
誰もいない静まり返った食堂は、まるで知らない場所の様に思える。
(いつだったか.....ここで「気持ち悪い」って言われちゃったのよね.....)
(ショックだったけれど、きっと本当にそうだったんだもの.....仕方無いよね.....)
(でもそのお陰で変わろうと思えたから......結果的に良かったのかな......)
クロエはくつりと小さく苦笑した。
そうして琺瑯製の白い水差しを取り出すとグラスに水をゆっくりと注いだ。
食堂の頼りないオレンジ色の灯りを水が反射してきらきらしている。
水差しの水は小さいあぶくをたてながら渦を巻いてグラスの中へと吸い込まれていった。
(それで.....思わずここを飛び出して行っちゃって.....そのまま森で迷子になって....)
(でも.....そうしたら......マルコが私を見つけてくれた.....)
(マルコは優しい.....いつだって私を見つけてくれる.....)
が ちゃ ん
凄まじい音を立てて水差しがクロエの手から転がり落ちた。
透明なグラスは粉々に砕け、テーブルにはその破片と水が散らばって光を反射させている。
「あ、あぁ......」
クロエはその場に膝をついた。手が震える。頭がぐらぐらする。
違う.....違う......!!
マルコはもう二度と私の事を見つけてくれない.......!!!
あの水色のリボンをつけていたって.....銀色のリングを持っていたって.....迎えに来てくれる事は永遠に無い.....!!!!
マルコがいたから.....私は今まで生きてこれた.....!!どんなに辛い事だって乗り越えられた......!
貴方がいてくれたから.......っ
「クロエ」
唐突に名前を呼ばれて肩がびくりと震える。
「アニ.....」
「クロエが部屋を抜け出す気配がして......そうしたら凄い音がしたから....」
「.........。」
「......酷い顔をしている。......少し外を歩こう....。」
アニは膝をついて呆然としているクロエを優しく起こすと、手を引いて食堂を後にした。
*
「落ち着いた......?」
アニがクロエを連れて来たのは解散式の夜にマルコに指輪を渡された物置の上だった。
この訓練場はどこを見てもマルコとの思い出があってクロエの心を複雑に掻き乱す。
早く調査兵団に所属してここを出て行きたかった。
「クロエ.....あんた...今も調査兵団に入るつもりなのかい...」
アニが静かに尋ねた。
クロエはゆっくりと首を縦に振る。その視線は中空を不安定に彷徨っていた。
マルコと一緒にここから空を見た時は星が綺麗な夜だったけれど、今夜は星はひとつも出ていない。
その代わりに冷たい青色の三日月がそろそろと二人に光を投げかけていた。
「忠告する。調査兵団はやめな」
アニがきっぱりと言い放った。
「え.....でもアニ....私は.....」
「私にリボンを渡した時のあんたは確かに強い意志と希望を持って調査兵団に入ろうとしていた.....
私はね....あんたのその姿に憧れたんだ....あんたが私の友人でいてくれる事を誇りに思った....」
アニがゆっくりとクロエに向き直る。青い瞳で痛い程見つめられて、視線が逸らせない。
「でも」
アニがクロエの肩を掴む。強い力ではないが振り払えない頑なさを感じた。
「今のあんたはなんて酷い様なんだ....あんた....調査兵団で死のうとしているだろう.....!」
「そ、んなこと.....」
「私はね.....クロエ、あんたが自分の命を祖末に扱う事があったら...絶対にそれを許さない.....!」
アニの瞳に青い炎が宿る。彼女のこんな表情をクロエは初めて見た。
「あんたの死に方ができるだけ残酷で惨たらしくなる様に呪ってやるよ......
あんただけじゃない.....!あんたの家族も、友人も全員酷く苦しんで楽には死ねない様に恨み続けてやる......!」
「.........!」
アニはそっとクロエの肩から手を離した。....その瞳の色から心の内を伺い知る事はできない。
「.......これであんたは今私に呪われたよ.....
あんたは命の危機に陥る度に私のこの言葉を思い出すんだ....
一生惨めに生きる事にしがみついて戦わないといけなくなったね.....」
アニはクロエの髪をゆっくりと梳くと、そのまま後頭部に手を回してクロエの体を自分の方へ引き寄せた。
「泣きなよ......今のあんたにはそれが必要だ.....」
そう呟くと自分の胸の中にあるクロエの頭を優しく撫でた。
(アニ.....)
アニの体温がクロエの体にじんわりと溶けて行く。
その温もりがひどく懐かしく感じて、涙が一筋頬を伝った。
そのまま堰を切った様に涙は次々と溢れてくる。
今まで泣けなかった分を取り戻す様にそれは止まる事を知らずにクロエの頬を濡らしていき、遂には激しい嗚咽をもたらした。
アニはそんなクロエを黙って抱き締め続けた。
クロエはアニの胸で子供の様に大声をあげて泣いた。
麻痺していた感情が一気に胸の内に押し寄せて、とても痛くて苦しくて切ない。
でも...一人では抱え切れなかったそれらの感情も...今はアニが一緒に受け止めてくれている....
そう思うと心のどこかが安らいでいくのが分かった。
.........もう泣くのは今日で最後にしよう.....
マルコが居なくなっても...........私は生きていかなくていけないんだ.......
幸せだった私に別れを告げよう。全ての優しい記憶に蓋をしよう。何があっても動じなくなる為に。
だからアニ.......どうか今だけは貴方の温もりの中にいさせて....
ヴァニタス:ラテン語で「虚ろ」を意味する。
人生の虚しさ、現世の富や名声のはかなさを表した17世紀バロック期に北ヨーロッパで流行した絵画のテーマ。
静物画に取り入れられる事が多かった。
時の虚しさを表すものとして(砂)時計や蝋燭等、
またひっくり返った杯や水差し等、空の器はヴァニタス(虚ろ)そのものを示している。
散りやすい花や痛みやすい果物もはかなさの象徴であり、とくに雫のしたたる花は短命や腐敗を表すとされた。
すぐに消えてしまうシャボン玉や空洞の貝殻も、同様にヴァニタスの象徴である。
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