愛しい雨 | ナノ


15鴉の瞳  


「あらお久しぶりね」


ある晴れた日、私たちは再びニスの剥げた扉をくぐった。


「元気そうで何よりだわ。やっぱり若くて可愛い二人はニコニコしてないとね。」
相変わらず店主さんは美しくて優雅だ。



(一応.....デートなのかな.....)

現在クロエとマルコは付き合ってから初めて一緒に外出している。
出掛けた先は画材屋という色気が無い場所ではあるが.....



「それにしても」

「わっ」

ぼーっとしていたので背後に店主さんが居る事に気付かなかった。
彼女は淑やかにクロエの肩に手を置くと耳元に囁きかけてきた。

「うまくやってるみたいじゃないの?何だか嬉しいわ」

「な、何の事でしょう.....」

「嫌だ、分かってるでしょう」


.......店主さんには一生敵わないだろうな、とこの時確信した。




「クロエ、水彩絵具見つけたよ」
マルコの声が棚の向こうからしたので返事をしてそちらに向かう。


「どうかなぁ.....買えそう?」
マルコはクロエの姿を確認すると赤い箱に収められた絵具セットの値札をこちらに見せた。

「うーん、なかなか際どいなぁ....ぎりぎり足りない....という感じかな...」

「そっか....じゃあまたもう少しお金貯めてからまた来ようか....」

「そうだね....残念だけど」

本日の目的が達成できなかった事に、二人で少し項垂れる。


「二人とも」


しかしその時、またもや背後から店主さんの声が響いた。


「「わっ」」

今度は二人揃って驚いてしまう。

.....実に神出鬼没、店内はこの美しい女性のフィールドの様だ。


「そんなに驚かないで....その水彩絵具ね、私から二人へのお祝いにするっていうのはどうかしら」
人差し指を立てながら彼女は柔らかく微笑む。


「そんな、悪いですよ。.....第一何のお祝いですか?」
マルコが尋ねる。

「二人とも嫌ね。分かってる癖に」
店主さんはそう言って更に笑みを濃くした。


彼女の言葉にクロエの顔にはじわじわと熱が集中し始めた。
......他人に改めて言われると恥ずかしい....。

ちらりと横目でマルコを見ると彼の顔も心無しか赤い。


そんな二人に優しく微笑みかけながら「素敵ね」と店主さんは嬉しそうに言った。

そして絵具のセットを持ったままカウンターへ向かおうとする。


「ま、待って下さい!やっぱり悪いですよ....」

クロエは慌てて彼女を引き止めた。
前回もスケッチブックをもらっているのだ。流石に悪いと感じた。


「遠慮はなし」
しかし美しい笑顔を浮かべた店主さんにそれは一蹴された。


......本当にこの人には敵いそうにない.....。







「やっぱり店主さんは凄いなぁ....」

画材屋を後にして街を歩きながらクロエは溜め息を吐いた。

「そうだね...彼女には敵わないよ」
どうやらマルコもクロエと同じ事を思っていたらしい。



「クロエ、この後まだ大丈夫かい?」
ふとマルコが尋ねる。

「うん....?平気だけど」

「じゃあ少し遠回りして帰ろうか」

「そうだね。天気も良いし」

二人は顔を見合わせて笑い合うと手を繋いで歩き出した。







マルコが今回クロエを外に連れ出したのは、勿論彼女の画材を買いに行く用事もあったが、
デートという恋人らしい行為をする事でもう少しクロエとの距離を縮めたかったからである。


クロエとマルコは付き合ってそれなりに経つが未だに清い関係のままだ。

.......つまり、友人で居た頃と何も変わっていないのである。



(僕は.......今のままはもう嫌だな....)


....しかしクロエはどうなのだろう。

彼女はマルコと一緒にいるだけでいつも幸せそうだ。

それ以上の行為を要求する事は彼女にとって....どうなのだろうか。


(何しろ抱き締めるだけですっかり赤面してしまう子だ.....)

手を繋ぐのだって今はなんとも無いけれど、初めのうちは緊張して言葉も喋れない位だった。


(クロエにもっと触れたいけれど....嫌われるのは.....嫌だな.....)




「見て、凄いよこの景色」

クロエの声ではっと我に返る。


当ても無く歩を進めている内に小高い丘に出た様だ。

眼下には今まで自分たちが買い物をしていた街が広がる。

茶色い屋根が並ぶ景色に青い空が栄えてとても綺麗だ。


(街もこうして見ると結構綺麗なんだな....)


ふと横に居るクロエに視線を向けると、彼女の瞳にも青い空が映り込んでいた。


(きっとクロエはこの景色を帰ったら絵にするんだろうな.....)

絵を描いている彼女はいつも幸せそうだ。マルコも彼女が幸せだと嬉しく感じる。



(......その幸せそうな笑顔を....僕の勝手な欲望で奪ってもいいのか....?)

マルコはクロエを傷付けてしまうのが何より怖かった。

(もっと触れたいし愛したい.....でも....怖がらせたくない.......)


大切にしたいと思う気持ちと、愛したいと思う気持ちが複雑に絡み合ってマルコの胸を苦しめる。


クロエはそんな自分の下心等まるで知らずに今だ目の前の景色に感動している。



「マルコどうしたの?」
ふとクロエがマルコの顔を覗き込んだ。

先ほどからずっと黙り込んでしまっているマルコを心配そうに見つめている。



マルコはもうどうすればいいか分からなかった。溜まらなくなってクロエを抱き締める。


「わっ.....ど、どうしたの.....」
予想通り彼女の耳はすぐに赤くなった。

「ねぇクロエ.....僕はクロエの事が本当に好きなんだよ....」
マルコが苦しそうに呟く。

「あ、ありがとう......」
クロエの耳は更に濃い朱色になった。

「だから...もっと触れたいって....そう思うんだ.....でも...嫌われたくない....」
やっとの思いで自分の気持ちを言葉にする。その声は震えていた。


「嫌ったりしないよ」
短い沈黙の後、クロエのはっきりとした声がした。

首筋に埋めていた顔をあげると真っ直ぐ互いの視線がぶつかる。


「嫌ったりしないよ......前も言ったじゃない」

クロエがもう一度はっきりとした声で言った。
マルコに抱き締められていると言うのにいつの間にか顔の赤みは引いている。


「マルコがしたい事をしていいの。私にとってもそれが幸せだもの」
ね、とクロエは柔らかく笑う。




(そうか........)




青い空に浸された雲が棚引いて流れて行く―――

木々は小さい葉に風を受けて、互いに囁き合っている―――



僕は本当に......こんなにも愛されていたんだ



「クロエ、ありがとう.....」

その言葉にクロエは少し照れくさそうに笑った。



マルコの胸の内に様々な感情が去来したが、今はとりあえず彼女が愛しくて仕方無かった。



クロエの髪を優しく撫でてからその後頭部にそっと手をかける。


そのままゆっくりと彼女の唇に自分の唇を重ねた。


至近距離で眺める彼女の睫毛は想像以上に長い。

抱き心地も、唇の感触もすごく柔らかくて自分とは違う.....女の子なんだな.....と感じた。



しばらくして唇を離すとクロエの頬はほんのりと色付いていた。

でも、いつもの幸せそうな顔を向けて照れながらも微笑んでくれた。


(良かった....クロエは僕の事を拒否しないでいてくれた.....)


安心してみるみる涙が溢れて来る。


「マ、マルコ.....!どうしたの.....」
い、嫌だった....?と彼女が心底心配そうに尋ねて来る。


その仕草の、動作のひとつひとつがじんわりと心を温かくしてくれる。

確かに自分が愛されていると感じる事ができる....。



「クロエ.....本当にありがとう......」
涙を拭いながらもう一度彼女に感謝を伝えた。



君と出会えて....僕は本当によかった.....

心から君の事を....大切に、大切にしよう........







「クロエ、写真撮っていかない?」
帰り道にマルコがクロエに言った。

「写真.....?......でも私....写真はあまり....」

「あ、さては写真の所為で絵画があまり流行らなくなったから苦手なんだろ」

「う.....よく分かったね......」


「クロエの考えてる事なんてお見通しさ」
そう言ってマルコはクロエの頭を軽く叩く。

「大丈夫さ.....絵画と写真は得意な事が違うんだ....両立する時代がやってくるよ.....」

その優しい声にクロエは思わず目を細めた。


「マルコ....」

彼がそう言うならそうなのかもしれない......

彼の言葉には不思議とそう思わせる力がある。


気付いたらクロエはマルコに手を引かれて写真館の前に並んでいた。



「ねぇクロエ.....毎年この日は一緒に写真を撮らないかい....?」
順番を待って並んでいると彼がふと口を開いた。


「.....良いけれど.....。どうして?」

「だって、今日は記念日みたいなものじゃないか.....。
毎年今日が来る度に幸せな気持ちを思い出したいんだ。良いかな....?」


一瞬何の記念日だろう?と疑問に思ったがすぐに心当たりを思い出して顔が熱くなる。
それと同時になんとも幸せな気持ちが胸に広がっていった。

......そうか.....マルコはこれからもずっと私の傍にいてくれるんだ....。


「そうだね......来年も再来年も、そのまた来年も、何年後になっても撮りにこよう.....」
私....何だか幸せ過ぎて怖いよ.....と繋がれた手に力を込めながら言った。


マルコはそんな私に素敵な怖がりだね....と優しく笑いかけてくれた。



マルコ......私は本当に貴方を好きになってよかった......

貴方が笑ってくれるだけで私は何でもできると思うのよ......

....貴方の事を大切に思う気持ちがいつだって胸に溢れている.......


愛しています......心から.......







―――結局、私たちはこの1枚以来写真を共に撮る事は無かった。

―――私が未だに写真が苦手なのは.....幸せだった今日という日を思い出して激しく胸が痛むからだろう.....






鴉:ノアの大洪水のとき、水が引いたかどうかを確認する為にノアがまず鴉を放ったことから、
吉凶を占うための鳥であり、希望の擬人像の持物となった。
もっとも、この時鴉はすぐに戻ってこなかった為に、
罰として白かった体を黒く変えられてしまったという伝承もある。


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