そもそも乱数が遥に接触するきっかけとなったのは彼女の母親だった。中王区の中心人物でもあるその女は、良い見合い相手が見つかったから娘を連れ戻したい、ということで壁の内外に出入りがある乱数を頼ってきた。
自分から子供を施設に預けておいて良い身分だ、と思いはしたが中王区の女たちに逆らう選択肢のない乱数はふたつ返事で承諾した。
遥に会ってみて、どうということはない平凡な女の姿に正直拍子抜けしたが、会う回数を重ねていくうちに人柄や気遣いが今まで付き合いがあった人間たちとは違う気がして、少し興味が湧いた。本当にただ興味が湧いただけ。それだけのはずだった。
(それが…こんな……)
いつになったら娘を連れ戻してくれるのか、最近はそればかり聞かれる。もちろん意識して先延ばしにしていた。遥の平凡で人の良い性格を思えば、煩わしい中王区の事情に巻き込むのは避けてやりたかった。
(それに…)
遥の家の扉の前に立つと、少しの暗い気持ちも晴れていくような気がした。いつものように、桃色の鈴がついた合鍵を鍵穴に差し入れて回す。
「あ、乱数。今日は早かったね。」
仕事から帰ってきたばかりといった出立ちの遥が向かい入れてくれたのに安堵して、真っ直ぐに彼女の元にやってきてはその細い体をギュッと抱きしめる。
(見合いなんて絶対させるかよ)
遥の胸元に頬を寄せて瞼を下ろすのがいつも幸せだった。が、その日は彼女の匂いとは別のものを覚えてハッと顔を上げる。
「遥、」
(この匂い…)
「中王区に行ったのか」
声色を取り繕うとも忘れて遥に問い詰める。優しく抱きしめていた体を離し、腕をきつく掴む。彼女は乱数の様子に少々狼狽えたようだが、「うん、」と質問を肯定した。
「仕事で少し…」
「嘘つくなよ。少し″sったくらいでこんなにあの女どもの匂いがうつるわけない…!」
「嘘じゃないよ、でもちょっと…」
そこで彼女は言葉を切り、焦燥を含んだ乱数の表情とは対照的に優しげな微笑みを浮かべた。
「偶然…母さんと妹に会って……」
「偶然な訳あるかよ!!」
今まで遥の前で出したことのないような大声を上げたので、彼女の薄い肩が跳ねる。二人は少しの間沈黙のうちに見つめ合った。
乱数は口に含んでいた飴を噛み砕き、「それで」と低い声で言葉を続ける。
「するんだ?どこぞのおぼっちゃまとの見合い」
「…どう言うこと?」
「ああ、そこまでは流石に聞いてないんだ。」
新しい飴をポケットから取り出しながら乱数は冷えた心持ちになる。
「機嫌が良かったところを見ると随分優しい言葉をかけられたんだろうけど。お前の母親はお前のことなんか出世の道具としか見てないよ。20年近くなんの音沙汰もなかったんだ、それくらいわかるだろ?」
どこまで馬鹿なんだ、と深く溜め息をする。遥は服の胸元のきゅっと握りしめ、ただ乱数の言葉を聞いていた。反論も同調もしない。ただ瞳を少しばかり潤ませて、こちらを見ていた。
(信じたくないんだ)
結局、遥は自分を捨てた妹のことも母親のことも未だ愛していて、未練を捨てきれない。
(所詮俺のことも妹の代わりとしか思ってないんだろうし)
「ねえ遥」
いつもの高いトーンに声色を持っていって、少し身を屈めて遥の顔を下から覗き込む。
「セックスしようか。」
乱数の唐突な言葉に、遥は数回瞬きをして「え…」と小さな声を上げた。
「それが良いよね!遥も僕のこと好きなんだし。そうすれば僕が妹と違うってことが嫌でもわかるでしょ?」
「え…いや、ちょっと…」
当たり前に動揺が隠しきれない遥の腕を引っ張って、いつも二人で寝ているベッドの方に乱数は歩む。彼女はなけなしの抵抗をするが、やがて諦めたように大人しく手を引かれて従った。
「乱数」
「うん?」
遥をベッドに座らせて頬を撫でてやると、か細い声で名前を呼んでくる。その怯えた表情に嗜虐心を誘われて、唇をペロリと舐めては首筋に噛み付いた。驚きから彼女はびくりと体を震わすが、やがて乱数の背中にそっと腕を回した。
「乱数」
もう一度名前を呼ばれるので顔を上げる。遥の表情にはやはり怯えが浮かんでいたが、視線は真っ直ぐにこちらを捉えている。抱きしめる力を強くして、相変わらず言葉少なながら彼女は続けた。
「乱数のこと、妹の代わりだなんて私は一度も思ったことない」
「そう?」
「うん、本当だよ。寂しかったのは確かだけれど。でもそれは乱数も一緒でしょ…?」
「………………、」
遥と見つめ合ううち、ふっと笑みが口をついた。ふふふ、と笑みを漏らして彼女の唇に噛み付くようなキスをする。
(まさか初めてのキスが…こんな、)
本当は、もっと優しくしてあげるつもりだった。繊細で優しい彼女を怖がらせないように、とびきり可愛い自分を演じて抱いてあげるつもりだったのに。
(こんな、自分自身の一番嫌な部分を曝け出すようなことをしてしまうなんて)
(終わりだな、遥はもう俺のことを愛してはくれない)
キスはお手のものだ。よく上手いと言われる。でもなんだか余裕がなく、遥の舌を吸い上げては唾液も飲み尽くすような早急なものになってしまう。
遥はその間、すがるように乱数の背中に手を回したままだった。抵抗も拒否もせず、ただ濁流のような乱数の黒い感情を受け続けていた。
「乱数、待って、、」
ようやく唇を解放してやると、遥は酸素の確保よりも先に乱数に何かを訴えようとするので思わず咳き込んでしまった。苦しそうな彼女の頬にひとつキスを落とし、シャツのボタンにそっと手を伸ばす。それを制すように遥は乱数の手の上に掌を重ねる。
「私は乱数のこと好きよ。…大好き。だから乱数が望むならどうされても良い、けど」
至近の距離で二人は視線を合わす。ともすれば鼻先が触れ合うような距離で遥は精一杯の訴えを続けた。
「乱数は大丈夫…?」
「………は?」
「自分のことを虐めてない?わざと傷付こうとしてるように見える…」
「………………。」
予想外の言葉を向けられて思考が一瞬止まる。それと共に動きも止まり、遥を捕まえていた手がだらんと下に落ちた。
沈黙が流れる。嫌に時計の音が大きく聞こえる。脈拍のように刻まれる音が鬱陶しくて、鼓膜を破ってしまいたい気持ちになった。
「ぼ、僕は……、、俺は……」
何かを言おうとしても言葉が前に進んでくれない。色々な感情が胸の中で大渋滞を起こす。
「俺は………、遥に嫌われたくない…、、」
ようやく小さな声で絞り出した本音とともに涙が頬を伝う。遥が驚いたようにしては、それをそっと拭ってくれた。
「嫌いになんかならないよ。」
遥の体に抱きつくと、乱数の体を支えきれなかったのかベッドに倒れ込むのでそのまま二人してベッドにぼすんと横になった。遥を抱きしめる力を緩めず、「嫌だ、」と言葉を続ける。
「中王区なんか行くなよ、、お願い行かないで…俺のことを置いて行かないで……、、」
遥の胸に顔を埋めると、やはり中王区の街独特のきつい匂いが微かに香る。それがすごく嫌で、涙は止まるところを知らなかった。
「遥が好き、大好き……。ね、遥も俺が好きだろ?」
同意を求めると、遥は素直に頷いて乱数の額にキスをした。
こんな情けない告白、普段の自分なら笑い飛ばしてしまいそうだ。だがそんな笑い飛ばしてしまうような気持ちの伝え方を、遥は黙って真摯に受け止めてくれていた。
「俺のものになってくれる?」
涙を拭って遥に尋ねた。彼女は目を細めて「いいよ」とふたつ返事で快諾する。
「私は乱数が好きだから」
素直に気持ちを伝えてくれる遥が愛おしくて、唇にキスを落とす。先ほどのやり直しとでも言うように、丁寧に丁寧に愛でるようなキスをした。
(俺だけのものだ)
遥のシャツのボタンをふたつみっつ外し、顕になった首筋に跡をつけるために強く口付ける。綺麗に赤くなってくれて、嬉しかった。
「遥、抱きしめて。…キスして。」
言われた通りに遥は乱数を抱きしめ、ぎこちなく唇を合わせてきた。
「ふっ、下手くそ。もしかして初めて?」
乱数の問いかけに、遥は答えることはしなかったが耳まで赤く染まった表情が答えを雄弁に物語っていた。それに気を良くして笑い、乱数は遥を組み敷くようにして上からのしかかった。
「じゃあ俺が最初で最後だ。…例え俺がいなくなっても、他の奴に許すなよ。」
いつまで生きるかわかったものじゃないのに、我ながら酷な呪いの言葉を吐けたものだと思う。だが本心だった。一生、遥の心の中の大切な場所にいるのは自分だけで良い。
「遥、キスしよ。」
いつの間にか涙も止まり、ちゅ、ちゅ、と愛しい人にキスを繰り返す。感情を持っているせいで失敗作と言われた自分だけれど、こんなにも強く一人を愛せるのなら、失敗作も悪くない…心から、そう思うのだった。
*
空が白くなる頃、遥は気を失うように眠り込んでしまった。
(無理させてしまったな…)
と、乱数も流石にぼんやりとした頭で考える。狭いベッドの上はぐちゃぐちゃで、お互いの体の状態もひどいものだった。
(もういいや…俺も寝よう、起きたら一緒にシャワーを浴びれば…)
一緒に、という思いつきに唇が再び弧を描く。今まで何度も家に泊まるたびに遥が入浴する音と気配だけを聞かされて、散々悶々とさせられてきたのだ。
(いつまで一緒にいられるんだろうな)
ベッドに腰掛け、煙草…は遠慮して、新しく取り出した飴を口に含む。それを思えば胸つかえる思いだった。
(せっかく思いが通じたのに。)
眠る遥を見下ろしながら思った。微かな曙の光が彼女の鼻筋をそっと滑っていく。白い頬を撫でて、小さな声で「好き、」愛おしさを伝える。
「大好き、愛してるよ……」
いつの間にか浮かんでいた涙が一筋頬を伝う。昨日と今日で、短い期間で2回も泣くなんて今までだったらあり得ないことだった。それでも止まってくれない。
「うぐ……好き、愛してる…大好き、」
拙い愛の言葉を述べながら、遥の体に額を擦らせて嗚咽を噛み殺す。静かに朝日が部屋の中を忍んでくる。新しい1日が、夜の残り香を払って始まろうとしていた。
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