今日も仕事で随分と帰りが遅くなってしまった。職場の小さな出版社が入っている雑居ビルを後にしながら、並んで歩く同僚とお互いを労い合う。
外に出ると、もう秋の気配が色濃く周囲に満ちていた。もうすっかり秋ですね、とごくごく普通の世間話をしながらふたりで駅へと向かう道すがら、「遥」よく聞き慣れた声で名前を呼び止められた。
藍色の空に瞬く星灯りに照らされて、チカチカとところどころが光っている乱数のピンク色の髪を、遥は目を細めて少しの間見つめる。
「乱数」
先ほどの彼と同じように名前を呼び、同僚に軽く別れを告げて彼の元へと少し急いで歩を進めた。
「どうしたの、こんな夜遅く」
「遥に会いに来たんだよ」
「またそんな冗談言って…」
「えー、遥は僕のこと疑うのー?ひどーい!」
とてつもなく悲しそうに瞳を潤ませて、乱数は遥を見る。彼女はどうにもこの表情に弱く、彼の頭を自然な手つきで撫でた。年上の男性にも関わらず身の丈があまり変わらないなあと毎度と同じことを考えていると、乱数は猫のように気持ちよさそうな表情を浮かべる。それが愛らしく思えて、遥もまたふと小さな笑みを漏らした。
「ね、帰ろ。」
乱数は当たり前のように遥の腕を取って、自らの体に抱き寄せる。
「うん…」
少し強い力で彼は遥の腕を抱いた。雰囲気はいつもと同じく軽快で愛らしいのに、なんだか寂しそうな気配を感じる。居た堪れなくなって、遥の方からも乱数の方へと体を寄せた。
「ね、今の男の人誰?」
歩きながら、乱数がズイと顔を遥へと近づけて問う。
「同僚だよ。入社時期が一緒だから仲が良いの。」
遥は冷蔵庫に二人分の食材はあったかな、など今夜の夕飯についてぼんやりと考えながら答えた。どうせ乱数は今夜も泊まっていくだろうから。
「……遥、こっち向いてよ。」
少し拗ねたように言われるので、従って彼の方を見る。少しの間二人はお互いの瞳の中をじっと黙って見つめ合った。
「仲、良いんだ。」
「え…?」
「さっきの人と。」
「そうだよ。」
「俺よりも?」
「……?」
先ほどからいつもと少し雰囲気が違うな、と察した遥は、乱数に痛いほど抱き寄せられていない方の手で彼の頭髪を再びそっと撫でた。
「なにか嫌なことあった?」
「別に…」
「そう。それなら良かった。」
「少し疲れただけ、、中王区に行ってたから」
「男の人が入るのは大変なところだからね。それは疲れるよ。」
「……………。」
それきり乱数は黙って、少し俯き加減で歩を進めた。出会った時は常に愛想と機嫌が良い彼だったけれど、最近はこんな風に考え込むような、少しの憂いを表現することが時折あった。何かあったのか、あるいは元から備わった彼の性格の一部なのか。どちらかは分からないが、遥にできることは彼に寄り添うことだけだった。
*
「ジャーン!」
遥の家に到着し、脱衣所で着替え終わった彼女が戻ってくるのを待ち構えていた乱数は手にしていた袋の中身をとびっきりの笑顔と共に見せる。遥はほお…と感心しながらカラフルなドーナツたちを繁々と見ていたが、「二人で食べるには多くない?」と疑問を呈した。
「大丈夫だよ。これが夕ご飯でー、こっちがデザートだし、」
「全部同じじゃない」
「同じじゃないよ!チョコといちご味とクリーム系の違いも見て分からないの遥は!!」
プリプリと怒りながら買ってきたドーナツの説明を行う乱数に堪り兼ねたのか、遥は小さく笑みを漏らした。
「いつもそんな食生活してるの?ちゃんとご飯食べないと大きくなれないよ。」
「もう成長期は過ぎてるから良いもんー。それとも遥は僕がもっと大きい方が良かった?」
「どっちでも良いけど…。今の方が可愛くて良いんじゃないかな。」
「でしょでしょ!僕かわいいからね」
「でもご飯は食べないとね。ドーナツはデザートと明日の朝ご飯にしよう。」
まるで姉のようだな、と乱数は夕飯の準備にキッチンへと向かう遥を眺めながら思った。
(当たり前か…。)
(遥は俺のことを妹の代わりに思っているし。)
ふと後ろ暗い気持ちになって、乱数は目を伏せる。手元にいつも欠かさず持っている飴をひと舐めした。美味しくも不味くもない、人工的なくどい味がする。
「そういえばさー、」
「んー、、なに?」
冷蔵庫に大したものなかったからうどんで良いー?と遥は続けた。いいよ、軽く応えて乱数は言葉を続ける。(まともな食生活をしてないのはどっちなんだよ)とも思いながら。
「中王区でさ、遥の家族に会ったよ。」
「…………。」
機嫌良く夕飯の準備をしていた遥の手が止まる。わかりやすく狼狽した彼女の様子に、なぜか乱数は胸がすくような感覚がした。
「人違いじゃない?」
「どうだろうね、偶然見ただけだから僕もよく分からないけど」
飴にカリと歯を立てながら乱数は続けた。
「でも遥が前写真見せてくれた妹を連れてたよ。あはっ、ほんっとうに君と妹って似てないよね。」
「…………、そうだね。妹は私と違って明るくて活発だったから。」
「僕に似てるんだっけ?」
「うん、少しね。」
「僕の方が可愛いでしょ?」
「うん…、、」
曖昧に返事をして微笑む遥の反応に苛立ち、乱数は歯を立てていた飴を噛み砕いた。ガリっという音が静かな部屋の中でやたらと大きく響く。
立ち上がり、狭いワンルームの中を歩けば、すぐに遥が立つコンロの前へとたどり着く。母親と妹は豪勢な中王区中心地のマンションに住んでいるというのに、この差が哀れだった。
後ろから遥をぎゅっと抱きしめつつ、ぶくぶくと茹だった鍋にかかった火を止める。
「僕の方が可愛いし優しいんだから、家族のことなんか忘れなよ。」
顎を彼女の肩に乗せ、耳元で囁く。遥はやはり曖昧に微笑んだ。眉根に重たく辛い感情が潜んでいるのを察して、乱数は抱く力を強くする。
「遥は捨てられちゃったんだよ。かわいそうだね。」
「そうだね。でもかわいそうじゃないよ。」
「そうかな。」
「妹は私より母さんのところにいた方が幸せだろうし…。私には乱数がこうやって会いに来てくれるからね。」
「………………。ふうん。」
頭を遥の首筋に埋めて、深く呼吸をする。良い匂いがした。花みたいな、果実みたいな優しい香り。
(この人が好きだ)
瞳をゆっくりと閉じながら乱数は思う。母親にも、大切な妹にも捨てられちゃって、かわいそうなこの人だからきっと自分のことも分かってくれている。ただただ孤独な者同士が傷を舐め合ってるだけなのかもしれないが、今はこの関係が心地よかった。
「乱数、やっぱり何かあった?」
遥がこちらに向き直って抱きしめ返してくれる。「んーん、なにもないよ。」と答えれば、彼女はそれ以上深入りすることはなく、そっと頭を撫でてくれた。
*
別に彼氏でもないのに、こんなに独占欲が強いのはおかしいのかな、とふと夜中に目を覚ました乱数は思った。
狭いベッドながらお互い身体が小さいので、二人で寝ても割と余裕のある布団の上で寝返りをうち、遥の方へと顔を向ける。
彼女の妹にも、先ほどちらと目にした同僚にだって良い心持ちが持てない。とどのつまり、遥が大切にしている人間には全員嫉妬していると言っても良いくらいだ。自分は彼女に会いにくる傍らいつものようにオネーサンたちと遊んでいるというのに、とんだ矛盾だと苦笑する。
「俺だけを見て…。」
半身を起こし、寝ている遥へと覆いかぶさる。触れるだけのキスをしてから、名残惜しくて彼女の唇をぺろりと飴のように舐めた。
(遥は誰か男と付き合ったことがあるのかな…)
20歳を超えている女性が男性経験が皆無かどうかは微妙なところだかが、彼女に至っては無い可能性も高かった。
(ろくに学校にも行かないで働いてたみたいだし…そんな暇もなかった、きっとそうだ。)
自分に都合の良い方向に物事を考えながら、乱数は彼女の白い頬を撫でた。
遥が自分以外の男を愛していたなんて、過去のことであっても考えるなんて気が狂いそうだった。
「俺のものになってよ」
小さく呟き、頬にキスを落としてから再び横になる。手を握れば、自然と握り返されるのがこそばゆい。今日も幸せな夜が更けていく。明日もきっと、、、
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