クリスタとヒストリア 01 [ 73/167 ]
(13巻、ヒストリアが自分の生い立ちを語った日の夜)
私は....誰もいなくなった集会部屋で、分厚い書物と資料を読み比べる女性の横顔を見つめていた。
........ランプの光で飴色に照らされた美しい輪郭は、本をよく読んでいたあの人へと重なる。
『お母さん』
且つて彼女をこう例えた事があった。
勿論、自分の母親には似ていない。.....比喩的な意味で言ったつもりだ。
だが.....やはり、何処か似ているのだ....。
「どうしたの、クリスタ」
静かな声で呼ばれてはっとする。
.......黙っていると、彼女がこちらを....ゆっくりと、見た。
反射的に.....目を、逸らす。
エルダが席を立つ気配を感じた。それは傍まで来て、優しく手を握る。
「おいで」
彼女の一言で、先程まで石の様に重たかった体が枷を外された様に軽く、歩み始めた。
しばらくして、それはエルダの隣の席に収まる。
彼女が着けていたストールを肩に巻かれた。私も無抵抗で...されるがまま、受け入れる。
........また、エルダは資料と書籍を見比べ始めた。
手元のノートは細長い彼女独特の筆跡で埋め尽くされている。文字が小さくて....何が書かれているのかはさっぱり分からない。
辺りから、ひしひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。
私の眼は独りでに窓の外へと向けられる。
道の傍らには種々の実生や蘚苔、羊歯の類が月に照らされて生えていた。ここではそういった矮小な自然がなんとなく親しく感じられる。
――彼らは陰湿な噂話を、決してしないから.....
「.......私は、クリスタじゃない」
ぞっとする程冷たく、落ち着いた声が自分の口を吐いて出た。
「そうだったわね、ヒストリア」
ごめんなさい、遂、癖で....と彼女はあくまでいつも通り微笑っている。
また、室内に薄曇りした静寂が立ちこめる。ランプの灯が届かない物陰に、死んだ様にそれらは横たわっていた。
「何も....聞かないの」
吐息の様に言葉を漏らす。沈黙に耐えられなくなったのかも知れない。
「何か言いたいの?」
エルダはページをひとつ捲りながら返す。
「何も言いたく無い......」
私の視線は窓に向けられたままだった。
「じゃあ聞かないわ」
最初までページを遡り、今一度同じ本を読み直しながらエルダは優しく言う。
もう一度訪れた静寂は、先程よりいくらか楽なものだった。
「私ね...もう、エルダの事も....好きかどうかよく分からないの....」
少しして、小さく漏らす。
「そうなの....」
エルダはそれだけ言って淡く笑った。
「クリスタでいた時は、エルダの事本当に....大好きだった。」
視線は...自然と窓から手元へと落とされる。そこに白い手が重ねられた。「ありがとう」の微かな言葉と共に。
「.....それはね、私が良い子だったから。人を疑わず、嫌う事に目を背けていた.....クリスタだったから....」
きゅっと手が握られた。触れ合う箇所が熱を帯びてくる.....
「今は....ヒストリアはもう...自分の気持ちがよく分からないの....」
私の声は空虚な伽藍洞の部屋によく響いた。
左手が強く握られる。
思わず視線を上げて、.......何日ぶりになるのだろう。その....薄緑を、見た。
エルダは私の掌をそっと自分の胸元へと運び、両手で包み込む。
女性特有の柔らかな皮膚と、心臓の鼓動が確かに伝わってきた。
「ヒストリアはどうか知らないけれど....私は貴方の事...好きよ。」
.......優しい声。いつでも言って欲しい事を言ってくれる....大好きな....
「嘘だよ....。だって、エルダもいつかきっと私を裏切る...。ユミルみたいに、裏切る.....」
声はひどく掠れていた。そして私はいつも想いと裏腹な事を言って、彼女を傷付けてしまうのだ....
「ユミルは....ヒストリアの事を裏切った訳じゃないわ。....分かっているでしょう?」
「エルダに何が分かるの....。エルダに分かる筈ないよ.....。私たちと違って、綺麗なものだけしか見て来なかったエルダなんかに....」
神様がいるのなら今すぐ私の喉を潰して欲しい。素直になれず、存在するだけで周りを傷付け、そして今度は大切な人までも......
「そうね......」
エルダの静かな声で歪な思考は中断する。
「私なんかより、ずっと辛い経験をしてきた貴方たちとは、どうしても分かり合えない部分があるのかもしれないわね」
握られていた手が離された。それは力なく、ぶらりと中空を泳ぎ...元の位置へと返ってくる。
そして....体に腕が回った。しっかりと抱かれると、石鹸の香りが微かにする。
「だから、貴方がユミルを信じてあけなきゃ」
耳元で囁かれた声は、低くも無ければ高くも無い。....穏やかな声だった。
「友達なんでしょう?」
........もう一度、胸の中でエルダを見上げれば、やはりいつもの様に....笑っている。
「うん........。」
からからに涸れていた喉で、精一杯の言葉を紡いだ。
「友達...友達だよ...。ユミルは、私の、たった一人の....掛け替えの無い、大好きな....、」
無くなった喉の水分が瞳から溢れてくる様だった。
するすると音も無く流れる涙はエルダの白いシャツに沁みを作っていく。
「そうね、分かってる、分かってるわよ....ヒストリア」
エルダが柔らかく囁き、背中をゆっくりと擦った。
ひどく堪らなくなり、彼女の服を握る。沢山の皺がそこに描かれた。
涙は止まらない。.....どう頑張っても、止まってくれなかった。
『お母さん』
やはり....エルダは似ているのだ。
且つて、私が夢見た.....お母さんの本当の姿に。
お母さんは、病気なの。
それが治れば、絵本の中の優しいお母さんみたいに、私の事を抱き締めて....好きだって言ってくれる。
一緒に沢山お喋りをして、いつも読んでる難しい本だって、私に分かり易い様にして読み聞かせてくれる。
晴れた日は並んで散歩もするし、お休みは街に出掛けて....あまりお金は無いから贅沢はできないけれど、ひとつ位....何か小さなものを買ってくれて....
そんな夢みたいな日が、あったのに。
あった筈なのに。
「ねえヒストリア」
エルダがそっと私の髪を梳く。
「貴方はやっぱりクリスタでもあるわ」
何でだろう、エルダの傍に来ると、心の中の刺はいつの間にか円くなってしまう。
「誰にでも優しくて、可愛くて精錬なあの女の子は....いくら演じていたとはいえ...貴方に変わりはないのよ」
ねえエルダ。私....エルダの子になりたかった。
「偽物だって、虚勢だって....、演じ続けていればいつかは本物に変わるわ」
貴方が私のお母さんだったら、どんなに幸せだったのだろう。
「.....それに、貴方が私たちにしてくれた沢山の事、全部嘘とは言えないでしょう?」
体をそっと離されて瞳を真っ直ぐに覗き込まれる。
逸らす事ができず....それをじっと見つめ返した。
「....クリスタは貴方のものだわ」
彼女の瞳が穏やかに細められるので、溜まっていた涙がもう一筋頬を伝う。
エルダは私の両頬を包み込み、額をこつりと合わせて来た。
「笑って頂戴ヒストリア」
囁かれた言葉と裏腹に、顔は醜く歪んでしまう。......笑えないよ、
「貴方の笑顔に、優しさに、何人の人が救われたと思う?サシャも...ユミルも...そうして、私も....」
窓の外から冷たい月光が差し込んでいた。それが至近の距離にあるエルダの顔を横から照らす。
「私は貴方が大好きよ。」
.....そうか。
「.....例え貴方が私を嫌いでも。」
この人は、優しい人だったんだ......。
「.......じゃない.....。」
弱々しい声が口から漏れる。
エルダはそっと顔を離し、次の言葉を待った。
「嫌いなんかじゃないよ.....」
膝の上に置いた手を握りしめて、彼女の薄緑を見据える。ストールはいつの間にか床の上の落ちてしまっていた。
「好き.....。エルダが好き。大好きだよエルダ.....。」
心の底から想う事を告げたのに、それは嗄れた声にしかならない。
でも.....エルダは全部分かっていてくれてるみたいだった。
落ちていたストールを拾い上げて、もう一度体を包んで抱き締めてくれる。
それから....何を思ったのか自分の膝を示してくるので....照れ臭かったが、小さな欲求に逆らえず、そこに収まる事にした。
お母さん
エルダの手元の本も、資料も、ノートに書かれたものも...やはり文字が小さく...それでなくても難しくて内容はよく分からなかった。
お母さん
後ろから自分に腕を回す彼女に尋ねれば、巨人とこの国の成り立ちについてから始まる壮大な大河ドラマが幕を開けようとしたので.....それは制止させてもらう事にする。
貴方は、私が抱きついたらどんな顔をしてくれるの?
じゃあ代わりにお喋りでもしましょうか、とエルダが淡く笑った。
突然の事だから、きっと最初は驚くかもしれない。
何を話せば良いか分からず口を噤み、代わりに...体を反転させてそっと抱き返した。
でも...少しして、困った様に笑いながら私を抱き寄せてくれるのだろう。
そうすれば、頬に軽くキスが落とされ、優しく髪を撫で.....
そうして、こう言うの。
『愛しているわ、ヒストリア』
[
*prev] [
next#]
top