ユミルと濡れてしまった本 01 [ 81/167 ]
「ああ!!」
サシャの焦りを大いに含んだ声が訓練終了後の食堂に響く。
何かと思ってユミルとクリスタが彼女の傍まで寄ってみると、机の上にはびしょ濡れとなった本とコップが転がっていた。
「.......これって.....エルダが読むの凄く楽しみにしてた新書だよね。」
クリスタが水を吸って徐々に膨らんでいく本を見下ろして言う。
「うわあ、こりゃもう読めねえぞ。」
中身を確認しながらユミルが呟いた。確かに全頁に渡ってインクが滲んでおり、とても読めたものではない。
「次これを買いに街に行けるのはひと月先のお休みの日になっちゃうし....」
頬に手を当てながらクリスタは心配そうにする。
「....流石のエルダも怒るかもなあ。」
しかしユミルは面白がっているのを隠す事もせず、笑みを顔に広げた。
「ど、どどどうしましょう....。そんな、やっぱりエルダ、怒りますかねえ...!?」
顔を青くしながらサシャは言う。どうにか水分を取り除こうと傍にあった布巾でそれを拭うが、無駄な行為だった。
「あー、怒るぞ。きっとエルダは怒るぞお。もしかしたら絶交されるかもなあ。」
ユミルがこの上なく上機嫌にサシャの事を煽る。
「ぜっ....!?嫌です、そんな事あったら死んじゃいます!!」
彼女の言葉にサシャはいよいよ取り乱した。涙ぐみながら胸の辺りの服を掴む姿が痛々しい。
「............ねえ、サシャ。」
その時....ふと、クリスタが、何かを考える様にしながら声をかけた。
「?なんですか。」
「エルダって怒ると、どんな感じなの?」
クリスタの問いに....サシャもまた首を傾げて考え込んだ。
少しの間。
「あれ....そういえば私、エルダに一度も怒られた事ありません。」
「「え」」
ユミルとクリスタの口から間抜けな声が漏れる。
「サシャとエルダって...確か相当小さい時から友達なんだよね?」
クリスタが少しの驚きを交えてサシャに尋ねる。
「はい。物心ついた時にはもう一緒に遊んでました。」
サシャがあっけらかんと答えた。
「その頃から今にかけて一回も?」
「はい。何に対しても寛容でしたね。とっても優しかったです。」
クリスタはほう、と溜め息を吐いてから「流石エルダ...」と零した。
「へえ、じゃあ今日が記念すべき第一回目のお叱りを受ける日になるのか」
「うえぇ、やっぱそうなるんですかねえ!?どうしましょう!!」
「可哀想になあ」
「ちょっ、嫌だ、怒られたくないですっ!!」
「いいえ、怒るわよ」
その時....三人の背後から落ち着いた声がした。
勿論声の主は先程まで散々噂されていた人物で....
「なんてね」
振り向くと、案の定そこには薄緑の目を優しく細めたエルダがいた。
「さっきからどうしたの?何だか皆で楽しそうねえ。」
突然の彼女の登場にサシャは慌てふためいて本を隠そうとするが、それよりも先にエルダが机の上に目を留めた。
「まあ」と驚きの声を小さく上げるエルダの傍で、サシャは青くなり、クリスタは不安げに様子を見守り、ユミルは笑みを濃くした。
「ご、ごめんなさい....エルダ。それ....私が水の入ったコップを机の上に落としてしまって...」
サシャの顔の青さは再骨頂に達している。何故ならエルダが本を見下ろしながら黙りこくってしまったからだ。
「これはもう読めないわね.....」
そしてぽつりと呟く。
......遂にエルダが怒る時が来たか...と三人は固唾を飲んだ。
「じゃあ代わりに夕食までの時間は四人でお喋りをしましょうか」
しかし....エルダはいつもの笑みを絶やさずに、穏やかに言う。全く持って怒る気配は無い。
「あら、付き合ってもらえない?」
三人が何も応えないので彼女は少々残念そうにする。.....勿論付き合わない事は無いのだが....何と言うか、拍子抜けを食らった。
「エルダ〜。ごめんなさいぃい」
緊張の糸が切れたサシャがへなへなとエルダへと抱きつく。彼女はそれを受けとめながら「あらあら」と苦笑した。
「いいのよ。また買いに行けばいいもの。気にしないで。」
そして優しく頭を撫でる。嬉しかったのか、サシャはエルダを抱き締める力を強くした。
「でも買いに行けるのはひと月も先だよ....」
クリスタがエルダのスカートをきゅっと握りながら零す。それに気付いたエルダは彼女の事を抱き寄せ、サシャと一緒に胸に収めた。
「読む本は他にもあるし...ああ、それならひと月先まで読書の代わりに、空いた時間はクリスタに付き合ってもらおうかしら」
彼女の胸の中でクリスタは幸せそうに頷く。エルダもまた目を細めて嬉しさを表現した。
その光景を眺めながら....ユミルは心の中に何とも言えない支えを感じていた。
(甘過ぎだろ.....)
溜め息をひとつ吐く。
......前々から思っていたんだ。エルダは芋女を甘やかし過ぎる。
小さい時から一度も怒られた事が無い?何をしても?.....それって本当に友達と言えるのか....?
(.....いや、これは私たちにも言える事か.....)
一年以上にも渡る非常に密度の高い共同生活の中で....私やクリスタは、エルダの怒りは勿論、少しの苛立さえも感じ取る事は無かった。
いつだって柔和で穏やかで....まあ、それがエルダがエルダたる所以なのだろうが....
じっと仲睦ましげにする三人を眺めていると、エルダもまたこちらを向く。
しばらく二人は見つめ合っていた。
そして....おもむろにエルダがちょいちょいと手を動かして傍に来る様に促す。
ユミルは、特に従わない理由は無かったので彼女の元へ歩を進めた。
傍まで来ると、エルダはサシャとクリスタを抱いていた手をそっと解き、全く自然な動作でユミルの事を抱き締めた。
「「「えっ」」」
........これには、三人共が固まるしか無かった。
更に.....全身が強張り、全く機能しなくなっていたユミルからエルダはゆっくりと体を離し、少し背伸びをして彼女の頭を撫でる。
瞬間、ユミルの膠着が解除された。勢い良くエルダの手を振り払い、大きく一歩退いて彼女の事を睨みつける。
「何しやがる.....」
低い声でそう告げると、エルダは少々驚きながら、「.....こっちを見てたから、ユミルも抱き締めて欲しいのかと...」と零した。
「......ねえよ。気持ち悪りい....」
ユミルは盛大に溜め息を吐き、肩の辺りの埃を払う様にしながら応える。
そしてもう一度エルダを睨みつけると、何も言わずに食堂を後にしてしまった。
残された三人は互いに顔を見合わせながら、「もうすぐ食事なのに...」と困惑気味に呟いた。
[
*prev] [
next#]
top