アニとお姫様抱っこ 01 [ 90/167 ]
「…おい、エルダ。」
ある日の訓練中、ふと…ライナーがエルダの名を呼んだ。
「なあに、ライナー。」
いつもと変わらない穏やかな笑顔でそれに返事するエルダ。…だが、その表情には少々の陰りがあるのを彼は見逃さなかった。
「……顔色が悪いぞ。立体起動の動きもいつも以上に鈍臭い。」
「ひどいわねえ」
「体調が悪いんじゃないのか?」
ライナーの問いに、エルダは一瞬口を噤んだ。二人の会話が聞こえたのかベルトルトも心配そうにしながらその方へ寄って来る。
「……確かに、エルダ…ここ最近ご飯もあまり食べてないよね。」
「お前は相変わらずエルダの事にだけは詳しいな」
ライナーは少々呆れた様にベルトルトの事を一瞥した後、エルダへと視線を落とす。
「……本当なのか、エルダ。」
案じる様なライナーの声に、エルダは少し困った表情で彼を見つめ返した。
「確かにそれはそうだけれど…偶々よ。すぐに元通りになるわ。それに今日の朝ご飯はちゃんと食べたし…」
「でもパンはサシャにあげちゃってたよね。」
「………お前よく見てんなあ……ちょっと怖いぞ」
ひとつ溜め息を吐き、ライナーはエルダの顔を再び覗き込む。彼女はそれを避ける様に反射的に顔を伏せた。
「何処が悪いんだ、言ってみろ。」
この反応は……確実に無理をしている、と確信したライナーは詰め寄る様にエルダに尋ねた。
エルダはすっかり眉を下げてしまい、何かを思案している。
……恐らくどう言い逃れようか懸命に考えているのだろう。……心配をかけまいとするのは結構だが、無理をし過ぎるのは彼女の数少ない悪癖のひとつだ。
‥‥‥‥ほら見ろ、こうしている間にも顔色がどんどんと悪く……
「うわあ」
その時、エルダの体が間抜けな声と共に持ち上がる。……いや、正確には持ち上げられた、だろうか。
「………この頑固者を医務室に連れて行く。教官への伝言を頼むよ。」
颯爽と登場したアニがエルダの事をごく当たり前の様に横抱きにしていた。突然の事にその場にいた一同は息を呑む。
「アニ、良いわ、大丈夫よ……!自分で歩けるし、今日の訓練が終るまで我慢できるから……!」
「そうだよ、それにエルダはアニより背が高いんだし、きっと君には重過ぎるよ!」
「まあベルトルトったらひどいわ」
「いや、違っそういう事じゃなくて」
「これだからデリカシーの無い男は嫌だね。」
アニは鼻でひとつ笑うと、エルダの事を抱き直した。そしてベルトルトの事を見上げて得意そうな表情をみせる。楽しそうだ。
「……じゃあエルダに聞いてみよう。あんたは今、私に抱かれて医務室に行くのと、この男に抱かれて行くのどっちが良いの」
「だっ、抱かれなくても行けるわ」
「ふーん……じゃあベルトルト、エルダをよろしくね。」
「……え。」
アニが何かを含んだ声色でベルトルトへと話しかける。彼は何かと思って差し出されたエルダの事を見下ろした。
え……、良いの…………?その、僕が、エルダの事を、俗に言うお姫様抱っこをして、いやそれ以上にそんなに体を密着させて、え、良いんですか?良いんですかあ!?
ベルトルトは激しく動揺する気持ちを抑えつつ、ひとつ咳払いして震える指先でエルダの肩にそっと手を……
「…………アニ!!」
しかし、それが触れる瞬間、エルダが焦った様にアニの名を呼んでその首に手を回した。
「はい……?」
行き場を無くした手をふらふらさせるベルトルト。その目を訳が分からないという様にぱちくりさせる。
「ア、アニ。貴方にお願いするわ。重いと思うけれど、医務室までよろしくね。」
「……了解。」
エルダの言葉に、アニは勝ち誇った様な表情をベルトルトに向ける。彼は未だに行き場を無くした手をふらふらとさせていた。目も同じ様にふらふらと泳いでいる。結構ショックだったらしい。
「じゃあライナー、あとはよろしく。」
アニはそれだけ言うと、背筋を伸ばした背中を向けて二人から遠ざかっていった。
ベルトルトはその後ろ姿を遠い目で眺める。何と言うか……その、とにかく、彼はアニに対してひたすらに良いなあーっ!!!と思った。
項垂れるベルトルトの肩をぽん、と叩くライナー。
………ん。いかん、今度はこいつの顔色がみるみる悪くなってきやがった。
ま、いつもの事だし、いっか。
104期生が過ごす訓練場は今日も平和だった。
*
医務室のベッドに寝かされたエルダは、先程までの元気が嘘の様にぐったりとしていた。
アニが額に手を当ててやるとじんわりとした温度を感じる。微熱もある様だ。
「………やっぱりね。」
アニは小さく溜め息を吐く。
「ごめんなさい。いつもはここまでひどく無いんだけれど……。」
眉根を軽く寄せるエルダの額にかかった髪を除けてやりながら安心させる様にアニは微笑む。
こういう時だけは自分が女で良かったと思う。……辛く、弱っている事を偽らずに頼ってもらえるから…
「……気にしなくて良い。こういう時はお互い様でしょう」
そう言えば、エルダは自分の髪を撫でていたアニの掌をそっと握ってくる。縋る様な仕草がとても、可愛らしかった。
「じゃあ私もアニの具合が悪い時は抱き上げてここまで連れて来てあげるわね」
「あんたにできるの?この柔らかい二の腕で?」
「いやだアニ、くすぐったいわ」
エルダがこそばゆそうに笑う。それが微笑ましくて、自然とアニの口元も緩んだ。
「……ゆっくり、おやすみ。」
もう一度エルダの髪を撫でてやってから零す。とても優しい気持ちだった。
「うん……。」
「………訓練が終ったらまた様子を見に来るよ。」
「え…?大丈夫よ、何だか悪いし……」
「……本当は嬉しいくせに」
「バレた……?」
そう言ってエルダはアニの掌を握る力を強くした。
………この時期のエルダはいつもとは違い、少しだけ人に甘えたがる。ただ、それを知っているのは今の所私だけだった。
そしてこれからも、私だけ。
他の人間には誰一人として、知らせない…………。
「またあとでね、エルダ」
そう言って額に口付けると、エルダは名残惜しそうにアニの掌を離した。
訓練をサボってここにずっといたいというのが本音だが、生真面目なエルダはそれを許してくれないだろう。
アニもまた渋々とその場を離れ、扉へと向かった。
外へ出る時に今一度エルダがいる方向を振り返ると、小さく手を振られる。それに目で応えてから、アニは医務室を後にした。
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