光の道 | ナノ
アニと星の唄 [ 69/167 ]

何処からか歌が聞こえる。


低く、掠れて、お世辞にも上手いとは言えない。


けれど、私はこの歌が好きだった。


厳しく、いつも独りよがりな夢想ばかりを見つめていたあの人が、


....この歌を唄っている時だけは、唯一父親の顔をしてくれたから。


そう、こんな...群青色の天球に星が沢山架かる夜は....



うっすらと....目を開く。


いつもと変わらない漆喰の剥げた天井が目に入った。辺りは静かで、窓から青い光が差し込むばかりである。


けれど....耳には微かな声の一高一低が残響している様だった。

あかいめだまのさそり  ひろげた鷲のつばさ 

それはいつまでも鳴り止まない。....いや、違う。聞こえているのだ...。今、確かにその声が...

あをいめだまの小いぬ、 ひかりのへびのとぐろ。

意識が急浮上する。微睡んでいた眼をしっかりと開き、かぼそい歌声を辿ってみる。


本当に微かな声だ。夢の中から囁く様な....

オリオンは高くうたひ  つゆとしもとをおとす、 


「エルダ」


潤んだ星明かりを頼りに、ベッドに腰掛けて本を読む友人に小さく声をかける。

そうすると、少しの淋しさが底にこもっていた歌声は止んだ。


「どうしたの、アニ」

彼女もまた周りを起こさない様に抑えた声で返事をする。

「いや...歌が...」

と言えば、エルダは少しの間ぽかんとしてこちらを見た後、「ごめんなさい...無意識だったわ...」と少し恥ずかしそうにした。


「起こしちゃったのかしら?」

ベッドから起き上がり、少し歩いて彼女の隣に腰を下ろしながら首を横に振る。....むしろ、不快な父親の夢から解放してくれた事を大いに感謝したい。

それから手中の本を取り上げて閉じ、エルダの手が届かない場所に置く。

....なんとなく、無機物であっても自分以外のものに興味を引かれるのが、今は嫌だったのだ。


「あんた...最近やたらと眠そうにしてたけど...もしかしてこの夜更かしが原因?」

本を取り上げられても特に意に介した様子の無い彼女に、少し呆れながら尋ねる。

「うん...何だかね、あんまり眠く無いの...」

エルダはぼんやりと、窓から覗く冷たい星とその隙間の青黒い空を眺めた。


「そう....」

アニはそれだけ応えると、少し触れ合っていた手をそっと重ねてやる。今の彼女に必要なものは言葉ではないと思った。


しばらく部屋は、人々の寝息だけが静かに響いていた。

外からは森陰の梟の、夜霧の仄かな中から心細そうに鳴くのが聞える。


「さっきの歌...」

アニが小さく沈黙を破った。エルダは未だに窓から漏れる光を見つめている。


「...私も知ってる。」


そう言えば、エルダはゆっくりとこちらに視線を合わせた。

...今日は、以前使っていた古い眼鏡を使用している。...父親の、残した唯一の...。


「何処で....?」

吐息の様な声がその唇から漏れた。


「....故郷で。」

端的に返すと、エルダの瞳が優しく細まる。


「不思議ね....。私と貴方は生まれも育ちも全く違うのに、同じ歌を聞いてきたのね。」

掌がきゅっと握り返される。


.....彼女が自分の事を愛しく思っているのが伝わってきて、とても嬉しかった。


「.....ねえアニ。」

エルダは少し目を伏せて名前を呼ぶ。その響きには僅かな哀音が含まれていた。


「声って....いつまで覚えているのかしら」


そう言いながら彼女は再び窓へと視線を移す。

空は青く深い洞窟のように見える。その奥に梟の声がしていた。


しばしの静寂。....周りを囲むのは安らかな寝息だけだ。


「私は...あんたの声は忘れないよ」


そう呟いて少しすると、肩に心地良い重みを感じる。

エルダの髪からは微かな石鹸の香りがした。


「...私もよ。」


それを聞き届けてから、握っていた手を離して体を抱いてやった。

自分の背中にも腕が回る。....柔らかく暖かい。これに触れると、いつでも泣きそうになる。

もっと早くに会いたかった。....そうしたら、ここまで苦しまずにすんだのに。


でも....出会えただけでも良かったのかもしれない。それだけで、充分...


エルダが体を離して優しく笑い、「貴方の故郷の話を聞かせて」と言う。

何を話したら良いか分からずに黙っていると、「じゃあ何でも良いわ。貴方の声が聞きたいの」と穏やかな言葉が聞こえた。


やはり言うべき事が見つからない。.....エルダはそんな私の隣で、ただ微笑っていた。


......声は、口から出されるものだけじゃないのかもしれない。


それが真実なら...エルダは確かに私の声を受け取ってくれた筈だ。


そうして、私も....。







「最近ね、夜になるとこの歌が聞こえるの」

しばらくして、エルダが呟いた。

「....段々と...日増しに、はっきりとしてきて....」

独り言の様に言葉を進める。口調はぼんやりとしているが、眼の中の薄緑ははっきりとしていた。

「どうしてかしらね...」

空を眺める彼女の瞳が不気味な程綺麗に透き通る。


......何故か、ひどい焦燥にかられた。


エルダと同じ方向....窓に切り取られた空を眺めると、星明かりの間を縫った老樹の梢には梟の影が見えた。

真っ黒な貌の中、鋭く光る薄緑の瞳がこちらを捕えている。

私と目が合った事を理解したのだろうか、それは音も無く滑空して深い闇の中に消えて行った。



また.....小さく、エルダが唄い出す。

アンドロメダのくもは  さかなのくちのかたち。

まるで、私が隣にいる事を忘れているかの様に....

大ぐまのあしをきたに  五つのばしたところ。


「エルダ」

けれど...私はそれを遮る。


「聞こえる筈ないじゃない....」


優しく言って頬を撫でた。エルダの瞳がようやく温度を取り戻す。その中には私が映っていた。


「....ただの空耳だよ」


耳元で囁けば、エルダも「そうよね...。」と微かに笑う。


「....もう寝よう。明日は眠くなりやすい座学が主だから...。」

エルダのベッドから降り、頬にひとつキスをした。彼女も同じ様にしてくれる。


「エルダ」


名前を呼べば、毛布を被って寝ようとしているエルダが不思議そうにこちらを見た。


「....私たちの故郷が、あんたの故郷になるんだよ」


しっかりと目を合わせながら言う。

エルダは一度瞳を瞬かせてから、穏やかな表情で「そうね」と応えた。


.....その返答を聞いて、私も安心して自分のベッドへと向かう。



.....遠くからエルダを呼ぶ声がする。けれど、私はその耳を塞ごう。


そこへは決して行かせない。何度でも目を隠し、胸に抱き、手を繋ぎ止めるだろう。



彼女が貴方を忘れる、その日まで....



小熊のひたいのうへは  そらのめぐりのめあて。



『星めぐりの歌』宮澤賢治



なかはら様のリクエストより
アニとの話で書かせて頂きました。


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