光の道 | ナノ
クリスタの誕生日 02 [ 46/167 ]

次の日も.....その次の日も.....エルダの帰りは夜遅かった。

しかも日を重ねる毎に帰って来る時間は深夜に近くなり、昨日は消灯時間を過ぎても帰って来なかった。

もうクリスタは気が気ではない。
ユミルと共に尾行を考えた事もあったが、散歩好きのエルダは訓練場内の裏道を熟知しているらしく、ちょっと目を離した隙に撒かれてしまうのが常だった。


そして今日。

......その日はクリスタにとっては特別とも言える日だった。


しかし何故かエルダは朝早く布団の中から抜け出してしまったらしく、朝食にも姿を見せなかった。

訓練の時は流石に現れたが、昼休みも当然の様に行方が分からず、訓練終了後も姿を見つけられない。


私、今日一回もエルダと話してない.....。

もし.....このままいつもみたいに夜も更けて帰ってくる事になって、会話を交わす事なく明日になってしまったら....

今日だけは....今日だけは、帰って来て欲しいのに。

そして、どうか一言だけでも.....貴方に言って欲しいの。

お誕生日、おめでとう.....って。それだけで....生まれて来て本当に良かったって、心から思えるから....


しかし.....辺りが暗くなり.....周りの人間がベッドの中に潜り込み....ランプが消され......

枕を抱いたクリスタの横顔に月の光が青白く差し込んで.....そして、遂に、時計が12時を回ってしまっても....

それでも、エルダのベッドは空の侭だった。


ベッドからするりと起き上がり、クリスタは上着を一枚羽織った。

怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が胸の内に湧き上がり、居ても立ってもいられなくなったのだ。


そのまま冷たい床を踏みしめて寝室から廊下へと向かう。

夜になると冷え込みは一層増していた。クリスタは上着のボタンをもう一度しっかりと閉め直す。


(..........!)

そこで、聞き覚えのある声が遠くから聞こえて来た。

恐らく、この長い廊下を曲がった所での話し声だ.....!

(エルダ.....!)

思わずクリスタは駆け出す。

近付けば、向こうからはオレンジ色の光が漏れていた。恐らくエルダはカンテラを持っているのだろう。


早く、早く.....会いたい....!会って、この不安な気持ちをどうにかして欲しい....!


しかし.....エルダの声に混ざって聞こえて来た明らかに女性のものでは無い声に、根が生えた様に動けなくなってしまった。


「..........て、残念だわ。」

「じゃあ......た、明日も?」

「そうね...。ここまで来ると意地にな....ね。」

「僕も....一緒に.....よ。」


段々と声がこちらに近付いて来る。それと同時にいよいよ疑惑は確信へと変わった。

やはり、エルダは....ベルトルトと.....


思わず涙が零れそうになる。

そんな....ひどいよ....。私はエルダの事をずっと待ってたのに....。

でもエルダは私の誕生日の事なんて覚えてなかったんだ....

......ベルトルトと会う事の方がきっと大事なんだね.....。

エルダはひどい....。たった一言で良いから、おめでとうと言ってくれればそれだけで良かったのに....!


「大丈夫よ。ありがとう。」

「駄目だよ。こんな夜遅くは危険だし....」

「優しいのね。」

「そんな事ない......。僕は、ただ....」

そこでベルトルトの言葉が途切れた。
角を曲がった所に突如出現した人物に驚いたらしく、小さく息を呑む音が聞こえる。

「え....?何故、君がここに....」

「どうしたのベルトルト.....あらクリスタ。どうしたの?」

俯くクリスタにエルダは優しく声をかけた。しかし何の反応も帰って来ない。

首を傾げてエルダは彼女の顔を覗き込もうと身を屈めるが、それを避ける様にクリスタは体の向きを変える。

「.........ない」

やがて耳を寄せなければ聞こえない程の声で彼女は呟く。

「ん?何かしら」

エルダは聞き取れなかったらしい。クリスタの様子がおかしいのを気にしてか少し心配そうにしている。

「もう....知らない....」

震える声でそう零し、クリスタはエルダの事をようやく見上げた。その真っ青な瞳は涙に縁取られている。

当然エルダは困惑した様にそれを見つめ返した。

「エルダの事なんてもう知らない.....。嫌いよ....大嫌い....!」

そこまで言うとクリスタの頬には涙がぼたぼたと溢れ出していった。

そしてくるりと向きを返ると暗い廊下の先へあっという間に走り去ってしまう。

何も言えずにエルダはそれを見送るしか無い。隣にいたベルトルトも唖然としてそれを見つめていた。

「え、と......エルダ、だい...じょうぶ?」

固まったままぴくりとも動かないエルダにベルトルトは恐る恐る声をかける。

その顔を横から覗き込むと、彼女はぽかんとした...しかし、驚く程蒼白な顔でクリスタが消え去った方向を眺めている。

それからゆっくりと掌を胸の辺りに持って来てぎゅっと握り、ひとつ溜め息を吐いてこちらを向いた。

「ごめんなさい、ベルトルト....何だか巻き込んでしまったわね」

いつもと同じ声色だ。しかし、明らかに動揺しているらしく言葉の端々が微かに震えている。

「エルダ....。クリスタはどうして.....」

ベルトルトもまた混乱していた。あんなにエルダに懐いているクリスタが、何故.....

「そうね........。」
エルダは考え込む様に口を閉ざす。まだ頭の中で冷静な思考を巡らす事ができない様だ。

ベルトルトとしては....クリスタのエルダに対する異常なまでの愛情が治まってくれるのは願ったり叶ったりなのだが、それ以上にエルダが悲しい思いをするのは嫌だった。

「ねえエルダ....。まだ、続けるの?」
気遣う様にそっと後ろから両肩に手を置く。本当は抱き締めて慰めたかったが、生憎そこまでの度胸は彼には無かった。

「ええ.....。嫌われてしまっても、お誕生日は年に一回だもの....。ちゃんとおめでとうって伝えてあげたいわ...」
間に合わなかったけどね....と言いながらエルダはベルトルトの体にゆっくりと寄りかかる。彼女の髪から香る淡い石鹸の匂いがす、と鼻をくすぐった。

「ベルトルトはもういいわよ。私一人でこれからはやるわ。」

「......いや、僕も一緒にやる。何よりも....アドバイスをしたのは僕だ。....最後まで付き合うよ。」

「ありがとう。責任感が強いベルトルトはきっと指揮官向きね。」

「そういう訳じゃないよ.....ただ.....。」

「ただ......?」

「......なんでもない。」

「そう。」

ようやくエルダはいつもの柔らかな笑みを取り戻し、そのままの姿勢でベルトルトの事を見上げた。

「貴方がいてくれて良かったわ....。
きっと私一人だったら途方も無い作業にも、この寂しさにも堪えられなかったでしょうね.....」

じっとベルトルトの事を見つめて来る瞳はやはり綺麗だった。


そういえば.....僕が一番最初に好きになったのは、エルダの目の色だったんだっけ.....


「ありがとう、ベルトルト」
その言葉と共に薄緑の瞳は優しく細まる。眺めていると、胸が酷く痛むのを感じた。


エルダの顔は自分の胸板の辺りにある。僕の顔との間には丁度頭ひとつ分位の空間が空いている。

......これが、今の僕たちを隔てる僅かな距離だ。

昔はもっと遠かった。ここまで来るのに、本当にどれだけの勇気を振り絞ったんだろう。

でも、頑張って良かった。本当に本当に....良かった。こうしている今、心からそう思える...。


「.......そろそろ行きましょうか。」
エルダはベルトルトから体を離してカンテラの炎をふうと消す。

真っ暗になった辺りには窓から月の光が差し込むだけになった。

「満月では無いけれど今日は月が綺麗ね...。」
ほうと言う声が隣から漏れる。

しばらく二人は窓の外に浮かぶ輪郭の滲んだ月を眺めた。

それに照らされて白く光る草原はただ白く茫として空との境が無く、まるで昼のように明るく見える。

柳の枝は夜の靄を含んで重く垂れ、遠くに見える雪の溶け残りは霰に似て、微風が時折溜息の様に通過し、いかにも静かな夜であった。

ゆっくりとエルダが歩き出す気配を感じたのでベルトルトもそれに倣って歩き出す。

相変わらず歩くとひどい音がなる廊下だ。

「.........ねえ」

ベルトルトは隣を歩くエルダに小さな声で呼びかける。彼女は前を向いたまま「なに?」と聞き返した。

「.................。」
目を伏せ、息を吸う。顔にはほんのりと熱が集まるのを感じた。

「....手、繋いでも...良い?」

やっとの思いでそう言葉を絞り出すと、エルダがこちらを見上げる前に目を逸らす。

たったの一言だったのに、何故こうも恥ずかしくなるのだろう。

エルダは笑うでも無く驚くでも無く、ただ穏やかに目を伏せた。

「......いいよ。」

静かな声が、ことんとベルトルトの胸に落ちて来る。


それは....僕にとってその言葉以上の意味を持っていた。不意に目頭に情けない熱が集まるのを感じて瞼を閉じる。

それから深く呼吸して気持ちを落ち着かせると、自分よりも随分と頼りない掌をそっと握った。


僕から手を繋ぐのは、短く無い付き合いの中でも本当にこれが初めてだった。

柔らかでしっとりとした掌の温もりと、胸に湧き起こる愛しさを決して僕は忘れないだろう。


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