瞼のうらに描くこと/ベルトルトの場合 [ 42/167 ]
「あ」
「あら」
廊下でばったりと会った二人の口から声が漏れる。
手の中の持物から察するにどうやら行き先は同じらしい。
「お風呂?」
朗らかに笑いながらエルダは尋ねる。
「.........うん」
ベルトルトもまたそれにつられて淡く微笑んだ。
「随分と遅い時間に入るのねえ。....私も人の事は言えないけれど....」
二人は並んで歩きながら会話を交わす。
宿舎は夜の中で静まり返っていたので、自然と声も小さいものになっていった。
「......ちょっと疲れて眠っちゃって....。気付いたらこんな時間だったんだ。」
ベルトルトは少し目を伏せて彼女の言葉に応える。
こんな夜中に出会えた偶然に感謝したい気持ちだった。
「そう....。風邪はもう平気なの?」
廊下の窓の外に散らばる星を眺めるエルダの口調は穏やかだ。
「うん、平気。.....色々ありがとう。」
「どういたしまして。良くなって安心したわ。」
二人はそのまま静かに浴場への道を歩く。
どうかもう少しだけ辿り着かない様に.....この時間が長く続く様にと....ベルトルトは真剣にそんな事を考えていた。
「.....寒いわねえ....」
ふとエルダが声を漏らす。
「こう寒いと外で行う訓練がしんどく感じるわ....。偶には温泉にでも行きたくなるわねえ」
(.....そういう事を言うから老けていると....いやいや僕は彼女になんて事を)
「.....温泉って....天然のお風呂みたいなやつだよね....?」
胸の内に浮かんだ考えを沈める様に咳払いをひとつしてベルトルトは彼女に尋ねた。
「そうよ。普通のお湯と違って色んな薬効があってね....肩こりとか腰痛にもよく効くのよ。素敵よねえ」
(まずい.....擁護できない程の年寄り臭さだ....)
「そっか.....。僕は温泉に入った事は実はまだ無いんだ...」
「あら勿体ない。暖まるわよ?」
エルダはうっとりとしながら言葉を紡ぐ。温泉というのは余程気持ち良いらしい。
「機会があったら連れて行ってあげるわ。ここからは少し遠いけれど....」
「えっ、あの.....連れて行くって....一緒に行くって事....?」
「?そうよ。それ以外に何があるの。......さて、やっと着いたわね。お風呂上がりに会えたら会いましょう。」
いつもの穏やかな微笑を浮かべてエルダは女性用の入浴場へと消えて行く。
その後ろ姿を見つめながらベルトルトは呆然と立ち尽くした。
(.....温泉って....要は風呂だろ....?それに一緒に行くって....)
ふらふらと自分も男性用の入浴場へと足を踏み入れる。
だがぼんやりしていた為額をしたたかに入口にぶつけてしまった。
「っつ......!」
思わずしゃがみ込んで額を押さえる。その視界は涙で滲んでいた。
(.......何やってんだろ、僕)
『ベルトルト?なんだか凄い音がしたけど大丈夫?』
扉越しにエルダの声が聞こえる。慌てて立ち上がり、「だ、大丈夫....!」と答えた。
こんな情けない姿を見られたらたまったものじゃない。
『そう....?なら良いんだけれど....。』
エルダはどうやら納得したらしい。
ひとつ溜め息を吐いて、今度はぶつけない様に頭を少し低くしながら再び入浴場の扉をくぐる。
........まったく、何だっていつもエルダの事になると悉く格好悪くなってしまうのだろう.......
*
(あ、そうか.....)
無人の脱衣所で服を脱いでいる時、ふと頭にある考えが過った。
(......連れて行ってもらうからって.....何も一緒に風呂に入るという訳では無かったんだ....)
「..............。」
自分の勘違いを自覚して再びベルトルトは床にへなりと崩れ落ちた。顔に熱がじわじわと集まって来る。
何と言う事だろう.....恥ずかし過ぎる......僕は一瞬でも....何を考えてしまったんだ?
それからしばらく動く事ができずにいたが、流石に冬の脱衣所で半裸のまま長時間過ごすのは厳しく、やがてのろのろと立ち上がってひとつ溜め息を吐いた。
残りの衣服を脱ぎ捨ててぐしゃぐしゃとまとめて適当な籠に放り込む。畳む気力は勿論残っていなかった。
*
適当に頭と体を洗い、早々に温い湯船に自分の体を沈めると、ようやく気持ちが落ち着いて来た。
夜遅い浴室は誰もおらず、しんとしている。
しかし確かに壁一枚隔てた女性用の浴場ではエルダが自分と同じ様に入浴している筈で.....
意識しだすとその息づかいや体を洗う水音が聞こえて来る様な気までしてくる。勿論そんな訳は無いのだが。
(......そうか、たった一枚の壁だけが....今の僕らを遮る.....ただひとつの.....)
浴槽の端まで歩き、その壁にそっと触れた。タイルのひやりとした感触が掌を覆う。
そこに額をこつりと付け、少しでも向こうの気配を感じ取ろうとした。
いつか.....いつか、この想いが通じたら.....一緒に....こうして浴槽に体を沈ませる僕の隣に、君がいる事もあるのだろうか。
いつもと変わらない笑顔で、近くに寄り添ってくれる....そんな事が....。
......僕たちが暮らした故郷にも....温泉はあっただろうか。
星が大層綺麗な場所だから....それを見上げながら浸かればきっと良い具合だろう。エルダもきっと喜ぶに違いない。
そんな素晴らしい未来の事を考えるといつでも胸の奥がじんわりと温まる。
そして....瞼の裏に、エルダの肢体をぼんやりと思い描いた。
頭の天辺から爪先まで暇さえあれば見つめていた所為で、実際に見た事は無くてもどの様な体をしているかは容易に想像がつく。
......肌は....勿論白い。あまり体を動かすのが得意だとは言えないその四肢はほっそりと頼りなく、か細いうなじは容易く僕の片手で掴む事ができる。
曲線を描く背中、滑らかな腹部、そして穏やかに円みを帯びた輪郭を持つ二つの......
「っ..........!!!」
ざばりと浴槽から立ち上がってその縁に手をついた。呼吸が荒い。目頭に熱くじわりとしたものを感じる。
たまらなくなって冷たいタイルで覆われた壁を殴った。
力はまったく入らず、ぺたりとした情けない音が小さく浴室に響く。
.........それ以上は、想像ができなかった。
勿論.....女性の裸体について考えるのは初めてでは無い。健全な年頃の男子としてそれは当たり前だ。
.....だが、エルダだけは....エルダの事だけは....それ以上自分の頭の中で辱めてしまう事はできなかった。
それでも鮮明に脳裏にこびりついてしまった白い肢体の画はいくら追い払っても消えてくれず、罪悪感で一杯になる。
あんなに....優しくて、いつも僕の事を大切に思ってくれて....本当に大好きな、そんな子の事を....
僕は、汚してしまったのだ...
柔らかく温やかに湿った湯気を放つ浴槽の中にベルトルトは再び沈み込む。
その水面に浮んでいる情けない顔にはひどく憔悴の色が浮んでいた。
どこか遠くでぽちゃりと水音が聞こえる。
あぁやはり....この薄い壁の向こうにエルダは確かにいるのだ.....
*
「ベッ.....ベルトルト......!大丈夫.....!?」
良い心地で入浴場から出て来たエルダは木のベンチに死んだ様に横たわるベルトルトの元へ慌てて駆け寄った。
その声を聞いてベルトルトはちらりと目だけ動かしてエルダの事見るが、すぐに目を逸らしてしまう。
何やら「......見ないで」とか言うか細い声が聞こえるが、エルダは構う事なく彼の顔を覗き込む。
「どうしたの....。顔色が古い煉瓦みたいになっているわ」
「...........。」
ベルトルトはエルダの顔を見ない様に顔を背けて黙り込んだ。
事情がよく飲み込めないエルダは首を傾げて少し考え込んだ後、「....待っていてね」と長い廊下の方へ姿を消して行った。
そして数分もしないうちに戻って来た彼女の手には水が入ったグラスが持たれていた。
「飲める.....?」
心配そうな表情で差し出された水をベルトルトは黙って受け取り、体を起こして一気に飲む。
もう今日はこれ以上エルダに関わりたくなかったが、水を求めて仕様が無い体の叫びに逆らう事はできなかった。
その様子を見てエルダは安心した様に淡く笑い、「もう一杯いる?」と優しく尋ねる。
ベルトルトはゆるゆると首を振ってグラスを彼女に返すと、再びベンチに体を沈ませた。
「......のぼせたのね....」
エルダは小さく笑いながら呟く。そしてベルトルトの頭の隣にそっと腰掛けた。
それと同時に彼の肩が小さく震えたので、エルダはまだ濡れている黒い髪をそっと梳いてやる。
「良くなるまでしばらくここにいましょう....。」
そう言いながらやわやわと髪を撫で続けていると、ベルトルトの耳が微かに赤みを帯びて来た。
「......エルダはもう....行っていいよ....。僕一人で大丈夫だから....」
「そんなか弱い声で言われたら余計行けなくなっちゃうわよ....。」
「ほんと.....大丈夫だから....」
「そうね....」
「...............。」
ベルトルトは自分の頭を撫でていた彼女の手にそっと触れて、そのまま自分の頬にあてがった。
ひんやりとした感触が心地良い。
彼が自分の掌を握ったまま目と口を閉ざしたので、エルダもまた黙ってそれを見守っていた。
しばらくしてベルトルトは彼女の手を握ったまま体を起こす。
先程より随分と高い位置にある瞳が真っ直ぐにエルダの事を見つめた。その顔はまだ少し赤い。
「.......あんまり、優しくしないでよ....」
眉を下げて相も変わらず力ない声で彼は呟いた。
「そういう風にすると....甘えちゃうし、期待しちゃうじゃないか....」
掌を握る両手の力が強くなる。
「甘えたって良いじゃない....。大丈夫よ、ベルトルト」
エルダは空いている方の手で彼の掌を覆った。
切なげな表情のベルトルトに反して彼女はどこまでも穏やかに笑っている。
「.......それなら、いつか....僕の事を.....」
そこまで言って、彼は息を吐いた。充分に拭かれていなかったらしい髪からぽたりと水滴が落ちる。
ベルトルトは口を噤み、ただ何かを訴えかける様に黒い瞳でエルダの姿を見つめていた。
(......熱い.....)
エルダは直感的に彼の視線をそう感じた。
かつて.....これほどまでに熱い視線を注がれた事はあっただろうか。
胸の内が不自然にざわついた。ベルトルトが何を考えているのかさっぱり分からない。
「......帰ろうか。」
しばらくしてようやくベルトルトは口を開いた。
「う、うん....。」
呆然としていたエルダも我に返ってそれに応える。
二人はゆっくりと立ち上がり、長く寒い廊下を歩き出した。
来たときとは違って交わす言葉は少なく、手は....未だに繋がれたままである。
エルダは押し黙るベルトルトに対して何を言っていいか分からずにいた。
ここまで彼の考えを読み取れないのは初めての事だった。
「僕はさ....最近、都合の良い事ばかり考えちゃうんだ....」
ふとベルトルトが口を開く。それはエルダに話しかけていると言うより、独り言に近い気がした。
「期待しちゃいけないって分かってる.....自分からは何もしない癖にいつも夢見てばかりで....本当、嫌になる...。」
そこでベルトルトは再び足を止める。見上げれば、先程と同じ様に骨まで届く様な熱を持った瞳がこちらを見つめていた。
彼は空いている方の掌をゆっくりとかざしてエルダの頬に触れようとするが、その直前で少しの間手を止める。
相変わらず彼女をじっと見下ろしながら何かを思案した後、そっと大きな掌で頬を包み込んだ。
エルダは目を伏せてそれを甘受する。
それからベルトルトは本当に小さな声で一言「......ごめん、エルダ。」と呟いた。
その意味を追求する事無く、エルダは再びベルトルトの事を見上げて柔らかく目を細める。
その仕草は何故だか涙を誘うものだった。
ベルトルトとエルダはしばらくそのまま誰もいない廊下に佇んでいた。
凍てついたガラス窓から漂う冷たい空気が、火照った体の熱を少しずつ奪って行くのを感じながら。
........触れるのが、戸惑われた。
忘れなくてはと思えば思う程、先程思い描いた君の肢体が頭の中に鮮明に思い描かれて....
その度に、自分は何て醜いのだろうとまざまざと思い知らされる。
....だけれども....触れたくて仕様が無いんだ。日に日にその思いは増して、どうしようもない。
だって....こんなにも好きなんだ。当たり前の感情じゃないか。
手を繋いで....触れ合って....抱き締めたい。その先の事だってしたくて堪らない。
ごめんエルダ.....。本当にごめん.....。
こんな邪な気持ちを抱きながらも、君の事を想い続けるのをどうか許して欲しい。
それでもいつか僕の事を....好きになって、欲しい。
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