ベルトルトが風邪を引く [ 40/167 ]
..........風邪を引いた。
最悪の気分だった。
気持ち悪いし頭はぐるぐるするし、体は重くて言う事をまるで聞いてくれない。
しかも輪をかけて最悪な事に、今日は早朝から晩までみっちりといつもより長く訓練の予定が入っている。
体調の悪い僕は勿論休みになるけれど、他の連中は皆一様に出払って訓練場で汗を流しているのだ。
.....つまり、何が言いたいかというと、104期生の薬箱であるエルダが看病をしにきてくれない。
.............何で僕は今日風邪を引いたんだ......。休日の明日ならエルダを思う存分独り占めできたと言うのに.....
自分の運のなさを呪いながらごろりと寝返りを打つ。医務室の固いベッドはひんやりとして冷たかった。
外からは皆の声が聞こえる.......医務室の近くに....いるのか?
......もしかしたら、エルダの姿が窓から見えるかもしれない......。
(..............。)
そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
重い体を無理矢理起こし、自分のベッドの一番近くに据えられた窓へと這って行く。
.......一体僕は何をしているんだ。姿を見る為だけに何故こんな苦労を.....
それでも恋心というのはままならないもので....体がどんなに悲鳴を上げようと、少しでも良いから彼女を近くに感じていたいと強く思ってしまうのだ。
木の桟にはめられた窓ガラス越しに外を見ると、やはりすぐ傍の訓練場で同期たちが集まっていた。
(.............あ)
いた。
どんなに人が沢山いようと僕は彼女の事をすぐに見つける事ができる。
それだけ長い時間、君の事を仔細に眺めて来たのだ。
今日のエルダは長い髪をシニヨンに結っている。やはり彼女には長い髪の方が似合う。
今は訓練の合間の休憩時間だろうか。
柔らかく笑いながら隣にいるアニと何か言葉を交わしている。アニもまたいつもより多少表情を優しくして相槌を打っていた。
彼女がエルダに二言三言耳打ちをすると、可笑しそうに二人は笑い合う。
(.............楽しそう。)
エルダは.....僕といる時もとても楽しそうにしてくれるけれど.....別にそれは僕にだけ、という訳ではないんだ。
(僕がいなくても.....エルダはいつも通りに過ごしている....)
もう一度、和やかに話を続ける二人へそっと視線を向ける。
........何と言うか、二人の周りの世界は....とても綺麗で美しかった。
決して....僕の様な男が立ち寄ってはいけない様な....そんな遠い世界....。
(何で......エルダの隣にいるのは、いつも僕じゃないのかな.....)
ゆっくりと窓から離れて、元居たベッドへ戻る。
相変わらず気分は最悪だった。見なきゃよかった、あんなもの。
(........寂しい。)
押し寄せる寂寞から逃れる様にきつく目を閉じて自身を抱く。
気軽に彼女の傍にいる事ができる同性のアニがひどく羨ましかった。
.......僕だって、適うのならば隣に身を寄せて耳元で言葉を囁き、笑い合いたい。
でも......僕がいきなりそんな事をしたら驚かれるだろうし....やっぱり性別の壁は大きいな.....。
けれど、やっぱり同性じゃ駄目なんだ。異性として....一人の男として、特別だと....そう、思って欲しい。
今の状況に陥っているのは行動を起こさない僕に原因があるのは分かっているけれど.....でも、下手に動いて嫌われるのは一番嫌だし....
色々な事を考え過ぎて、よく分からなくなって来た。
ただ.....僕がいなくてもエルダの世界には何の支障も来さない事が、ひどく悲しい.....。
その気持ちだけは、強く強く心に残った。
.......熱が少し上がって来た様だ。毛布を被り直して寝返りを打つ。
やはり、医務室のベッドはひどく固く、まるで石の上で眠っている様だった。
*
「......寝ているわ、ライナー。」
「そうか.....。」
「この分だとまだ熱は引かなさそうね......。心配だわ。」
「こいつが体調を崩すなんてな....。珍しい事もあるもんだ」
.......人の話声がしてうっすらと目を開ける。
辺りはもう真っ暗で、ランプに仄かに照らされた一組の男女の姿がぼんやりと見えた。
......一人は良く見知った親友で、あともう一人は......
「..........っ」
僕の呼吸の音を聞きつけたのか、エルダはこちらを向いて柔らかく笑う。
風呂上がりなのかその髪はしっとりとして、ゆるく纏められて左肩に垂れていた。
「......ベルトルト。ごめんなさい、起こしてしまったわね」
彼女がすぐ傍まで近寄って来る。そしてベッドで横になる僕に視線を合わせる様に屈んだ。
その薄緑色の瞳で見つめられると苦しくて堪らない。
......僕を特別にしてくれない癖に、何故.....何故、いつだって君は優しくて....
ほとんど発作的にエルダの首に腕を回して、その体を自分の方へ抱き寄せる。
突然の事に、彼女は驚いた様に小さく声を上げた。
首筋に顔を埋めれば清潔な石鹸の香りがする。
何の変哲も無いものを使っている筈なのに、何故こんなにも良い匂いがするのだろう。
僕がどれだけ不安だったかを分かって欲しくて、抱き締める力を強くした。
じわりと目頭から染みでた涙はエルダの白いシャツに沁みを作って行く。
彼女は最初は戸惑っていた様だったが、やがて僕の体に腕を回してゆっくりと背中を擦ってくれた。
「.......どうしたの、ベルトルト。」
しばらくして、少し落ち着いてきた僕に優しくエルダは話しかける。
まだ言葉を話せる状態では無かった僕は、口を噤んでただその白い首筋に顔を埋めていた。
「ライナー。ベルトルトは一体どうしたのかしら。」
僕から何の返答を得られないと分かると、今度はライナーに言葉をかける。
「........まぁ、風邪の症状の一種だと思ってやってくれ。そうしてれば直に収まるだろう。」
彼の溜め息混じりの声が聞こえて来た。恐らく呆れているのだろう。
「あらあら.....。大変ねえ.....」
エルダは僕の髪をそっと撫でながらのんびりとした口調でそう告げる。
呑気な彼女の態度が気に入らなくて更に強く、痛い程抱き締めてやった。
......僕は、こんなに悲しい思いをしていたって言うのに....!
「........エルダが悪いんだ。」
そう呟けば彼女は頭を撫でる手の動きを止める。そしてまた呑気に「そうなの......?」と問い掛けて来た。
「そうだよ.......!」
「.......ごめんなさい.....。」
.......確実に僕が何に怒っているのか分かっていない。いや、分かられても困るのだけれど。
この距離がもどかしい.......。
「.......風邪引いて、一人で寝ていると....何だか皆が、エルダの事が....凄く遠く感じたんだ。」
ぽつりぽつりと彼女を抱き締めながら胸の内を吐露する。それと同調する様に涙もぽたりぽたりと再び落ちて来た。
今日は厄日だ。エルダに男として見てもらいたいとか...そんな事を考えていた癖に、今の自分は目も当てられない状態だ。
こんなのだから、いつまで経っても弟の様な立ち位置から抜け出せないに違いない。
でも、今はどうしても彼女に甘えたかったのだ.....。
「だから.......置いてきぼりにされた様な気持ちになって....」
「それは辛い思いをしたね......。」
「僕は影が薄いし背が大きいだけだから.....皆に忘れられているんじゃないかって....」
「大丈夫よ....忘れないわ.....。」
「...........すごく、寂しかった......。」
「そう......。」
しばらくエルダの体にしがみついていたベルトルトから、やがて穏やかな寝息が聞こえて来る。
その様子に彼女は可笑しそうに小さく笑い、後ろからそれを見守っていたライナーは溜め息を吐いて額に手を当てた。
そしてエルダの体からベルトルトを引き剥がしてだらりとして力の入らないその体をベッドの中に押し込み、「ご苦労だったな、エルダ。」と彼女の頭をぽんと撫でる。
「大丈夫よ。それにベルトルトも顔色が少し良くなったみたい。
やっぱり様子を見に来て正解だったわ。誘ってくれてありがとう、ライナー。」
エルダは微笑みながらベルトルトにそっと毛布をかけ直して立ち上がった。
「お前が来た方がこいつの調子も良くなると思ってな....。
しかし.....何と言うか、兵士より保母とかの方がお前には向いてるんじゃないのか」
見事な寝かしつけ方だ.....と感心した様にライナーは安かな顔をして眠るベルトルトを見下ろす。
「どうかしら。ベルトルトは私と同じ年の大きな男の人だもの。小さい子とは勝手が違うわ。」
「........意外だな。
てっきりお前の中ではベルトルトも子供と似た様なものに分類されているのかと。」
「そうね.....。ベルトルトは弟みたいで可愛いと感じる事はよくあるけれど......やっぱり少し違うと思う。」
「.........それは、お前がベルトルトの事を....一人の男として見ている...。そういう意味として受け取っていいのか....?」
「当たり前よ。女の人には見えないもの。」
「そういう意味じゃない。」
「.........と、いうと?」
「もしも.....だ。ベルトルトに.....その、告白とかされたら....付き合うのか、って事だ。男と女として。」
ライナーは言っていて何だか恥ずかしくなった。
男同士で恋愛絡みの下世話な話をする事はよくあるが、今相手をしているのはエルダだ。
彼女は...何と言うか、そういう事に触れさせてはいけない....汚してはいけない.....そんな気がするのだ。
ベルトルト.....お前も随分と大変な相手に惚れたものだな.....
エルダは少し考える様に宙を見つめる。
天井近くを不安定に飛ぶ一匹の蜻蛉の動きを一通り観察した後、もう一度薄緑の瞳をライナーへと向けた。
「.........想像もできないから....分からないわ。」
その答えは、ライナーをひどく落胆させた。
分かってはいたが......こう、もうちょっと脈有りな解答を期待していたのに......
すまんベルトルト......俺は力になれそうにない......
「でも....ベルトルトの傍にいると私は安心するわ.......。
とても優しいし....いつも気付いたら隣で静かに笑っていてくれて.......。」
「..............!」
ベルトルトの額に浮き出る汗をタオルで拭ってやりながらエルダが呟く言葉に、ライナーは少し元気を取り戻す。
「.....つまり、お前がベルトルトの事をそれなりに特別視していると....そういう事か?」
「そうね.....。言われてみればベルトルトは、何だか他の男性とは少し違うかもしれない.....。
........何でかしらね。やっぱりあまり男の人らしくないからかしら.......。」
「.................。」
ベルトルトの恋の道は....やはり険しいな....。
「......こんな事聞いてどうするの、ライナー。
私は恋愛には疎いからあまり満足な答えはできないわよ。」
エルダはベルトルトを見下ろしたまま少し苦笑する。
「でも....私は純粋にベルトルトの事をとても好きよ。とりあえず今はこれで勘弁してもらえないかしら。」
「......そうか.....。」
ライナーは目元を押さえて首を横に振る。
それからひとつ呼吸をして、相も変わらず優しく笑いながらベルトルトを見つめるエルダに「....もう遅いから戻って良いぞ。」と言った。
「......でも、ベルトルトは大丈夫かしら」
「大丈夫だろう。何だかんだ言ってこいつは丈夫だ。」
「そう.......。」
「心配するな。.......良いから行け。」
「分かったわ.....。ライナーも明日は休日とはいえ、あまり遅くならない様にね....」
「あぁ......。」
そしてエルダは「おやすみなさい」と告げて医務室を後にした。
*
「.......おい。良かったな。」
ライナーが目を閉じてるベルトルトに向かって言葉を投げ掛ける。
ベルトルトはゆっくりと潤んだ瞳を開けて、自分を見下ろすライナーを見つめた。
「.........エルダは.....ひどい。」
そして掠れた声で呟く。
「あぁ....あれはひどい女だな....。全く。」
「ひどいよ.....。何が純粋に好きだよ.....。僕が、どんな思いで.....っ」
「でも.....嬉しかったんだろう?」
そう尋ねれば、ベルトルトはもう一度目を閉じて首を静かに縦に振った。
「なあベルトルト......あれは天然記念物並みの鈍感さだ。恐らく恋愛も本の中に登場するフィクションと同じ位に捕えている。
..........気持ちは分かるが、もう少し行動に移さないと永遠に今のまま何も変わらないぞ。」
「......分かってるよ。
でも.....エルダはあまり男の人が得意じゃない....。折角仲良くなったのに、彼女の事を怖がらせてしまったらと思うと....。」
「そんな事を言っているから男らしくないなんて言われるんだ。
ぼさっとしているとアニに先を越されちまうぞ。」
「うん......。」
ベルトルトの頭に昼間のアニとエルダの仲睦まじい様子が思い浮かんだ。胸の内がじくりと痛む。
「安心しろ。エルダはベルトルトを好きだと言っていただろう?滅多な事であいつがお前を嫌う事は無いさ。」
「.........考えとく、よ。」
「今日はもう休め。また明日エルダを連れて来てやる。」
「ありがとう.....ライナー。」
「......気にするな。」
*
ライナーが去った医務室の中で、一人になったベルトルトは瞼の裏にエルダの笑顔を思い浮かべた。
「でも....私は純粋にベルトルトの事をとても好きよ。」
(...............。)
明らかに今、僕の顔に熱が集中しているのは風邪の所為ではない.....。
....駄目だ。勘違いしてはいけない。エルダの好きと、僕の好きは違う。
でも、それでも.......
「やっぱり.......嬉しかったんだ......。」
小さな呟きは相も変わらず固いベッドのマットに吸い込まれて行った。
(好き.......。本当にエルダが好き....。誰にも渡したくない.....)
深い溜め息を吐いて、寝返りを打つ。まさか女性にやきもちを焼く程自分が嫉妬深いとは思わなかった。
(だけど....アニの最近の行動は....明らかに、僕と同じ....)
......願っただけでは欲しいものは手に入らない事は嫌と言う程分かっている。
そう......分かっているんだ。
瞼にもう一度エルダの笑顔を思い描く。それだけで...いつだって僕は幸せになれる。
でも.....これだけじゃもう満足できないんだ....。
いつか....いつか、僕だけの....エルダに.....
深々と静けさが深まる医務室の中、ベルトルトは何かを決意して再び眠りにつく。
そして室内に動くものは天井近くを頼りなく飛ぶ、羽の捩じれた蜻蛉だけとなった。
まひがし様のリクエストより
アニに嫉妬するベルトルト、それを見守るライナーで書かせて頂きました。
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