瞼のうらに描くこと/アニの場合 [ 43/167 ]
「ク、クリスタ.....そんなに見つめないでよ.....」
脱衣所にて脱いだシャツで体を隠しながらエルダが言う。
「え....ち、違うよ...!見つめて何か、ないよ?」
言葉をかけられたクリスタがはっと我に返った様に言う。
「クリスタ、目が思いっきりクロールしてますよ」
サシャはそう呟きながら自身のシャツのボタンを外し、着々と風呂に入る準備を進めていた。
「何だよ、そんなクソ女の裸見て何が楽しいんだよクリスタ。見るなら私を...っておい!デカいな!!」
驚いた様な声がユミルの口から飛び出す。
「な、何言ってるの貴方...!!第一見るの初めてじゃないでしょう....!」
突然の発言にエルダは頬を赤く染めて体を隠すシャツを掴む力を強くした。
「そう言えば前より大きくなってますね.....触っていいですか?」
「駄目に決まってるでしょう!!」
「成長期は恐ろしいねー....年寄り臭い癖して体はちゃんと10代な訳だわ....」
繁々と胸元に注がれるユミルとサシャの視線を避ける様にエルダは体の向きを変える。
「エルダ....!違うの!私はやましい気持ちはこれっぽちも...」
クリスタが必死に訴えて来るが恥ずかしさも相まって彼女たちの方向に体を向けられない。
「やましい気持ちが無い訳ねえだろ、なークリスタ。女同士だし減る訳じゃねえから良いだろ、ちょっと見せろよ。」
ユミルが恐ろしい程の力でエルダの体をぐりんと半回転させる。
そしてあっという間に上半身を隠していたシャツを取り去った。
「なっ....ちょっと、」
幸い下着を着けていたからよかったものの、ここまでじっくりと他人に胸元を見られた経験はかつて無い。
頭の芯が羞恥のあまり麻痺した様な感覚に陥る。
まずい、と思ってユミルの拘束から逃れようとするが、勿論力で適う筈は無かった。
「あぁ、大きいですね....。昔一緒にお風呂に入ってた時には想像できなかったサイズです。」
ほお、と純粋に感心した様にサシャが言う。
「しかし....そろそろ訓練に邪魔になってくるんじゃねえの?なあ」
そう言いながらユミルはエルダの白く柔らかな膨らみをつついた。
「こら...!駄目でしょう、そんな所触ったら...!!」
「......うん、これは中々....」
しかしエルダの言葉は無視されて今度は包み込む様に全体を揉まれる。
どうやら彼女は胸の感触よりもエルダの反応を楽しんでいる様である。
「ユミル....そういう事はいけないと思うよ!!」
クリスタは拳を握りしめながら必死な形相で言う。
「ク、クリスタ....!!」
エルダは天の助けとばかりに彼女の名を呼んだ。
過去に自分も寝ぼけて似た様な事をしたのは忘れているのかなー.....と頭の隅でぼやきながら。
「独り占めはずるいよ!次は私!!」
「はい?」
「あ、じゃあその次は私でお願いします。」
「はい!?」
真剣なクリスタと朗らかなサシャ。彼女達は全く持って天の助けでは無かった。
「あぁ、今度ベルトルさんに会ったら自慢してやろう。あいつ発狂した様に羨ましがるぜ。」
「やめなさい!!それだけはやめなさい!!!」
「そうだよ....!!きっとあの人はそれを聞いて頭の中でもっと嫌らしい事を想像するに違いないよ...!!そんな事、絶対させない!!」
「クリスタは怒る論点がずれてるわよ!」
「ずれてなんかないよ....!!エルダは何にも分かってない...!」
「じゃあベルトルト以外の人には自慢して良いですか?」
「駄目に決まってるでしょう!!」
エルダが叫んだ瞬間、サシャの頭に見事に盥が命中する。
サシャはほぼ裸の状態でその場にひっくり返った。
盥が飛び出して来た方向に視線を送ると、無表情...しかしその青い瞳からは憤怒の炎を滾らせたアニが立っていた。
そしてつかつかとこちらまで歩み寄るとエルダの腕を掴んでぐいと引き寄せる。
あまりの迫力にその様子をただ見守るしかできない三人を物凄い形相で睨みつけて、アニはエルダの腕を引っ張ってその場から遠ざかって行った。
「なんか.....こういう事前にもありましたね....」
床からよいしょ、と起き上がりながらサシャが呟く。
「....マズい奴に見つかっちまったなあ....」
ユミルは溜め息を吐きながら未だ柔らかな感触が残る右手を握ったり開いたりした。
「アニって.....エルダの事好きなのかな....」
クリスタは何とも言えない表情で遠くに行ってしまった二人を眺める。
「.......さあな。だが....あの執着の仕方は確かに異常だ。」
「そんな...!だって女の子同士だよ....?」
「お前も人の事言えねえだろうが。まあ....私はあのクソ女の事は大嫌いだが鉄面皮女はもっと嫌いだ。
.....と、言う訳で邪魔するんなら協力するぜ?」
にやりとした笑みを浮かべてユミルはクリスタを見下ろした。
「別に、私....そんなんじゃ.....」
クリスタは口の中でもごもごと呟きながら俯いていたが、やがて何かを決心した様に顔を上げる。
「ほんとに....協力してね....!」
強い覚悟を瞳に湛えてクリスタは訴えた。
「....ほんと、お前あいつの事大好きだなあ....」
ユミルは苦笑いしながらそれに応えた。
*
アニは腸が煮えくり返る思いだった。
髪と体を洗い、温かい湯船に浸かってもまだその怒りは収まらない。
あの三人は一体何をしようとしてたの...!?
第一エルダもエルダだ....!きっと今日寝て明日起きれば何事も無かった様にあいつ等に接するに違いない!!
いつまでたっても脳内がお花畑だからああいう目に合うんだ......!私だってまだ一度もあんな事は...
思わず浴槽の縁を拳で殴る。
(..........。)
そこで、ふとある考えが頭をよぎった。
そうか.....あの三人が触ったなら私だって触る権利がある筈だ....。
どうしようもない謎理論がアニの脳内で形成される。怒りのあまり冷静な判断ができない様だ。
ふとぽちゃりと音がしてアニが沈み込んでいた浴槽の隣にエルダが腰を下ろして来る。
悶々としていたところに突然出現されたので思わず肩がぴくりと震えた。
「はあ、やっぱり沢山頑張った後のお風呂は良いわねえ。命の洗濯とは良く言ったものよ」
彼女はほう、と息を吐いて柔らかく笑う。
(........。)
その横顔を見て、アニは苦虫を噛み潰した様な気持ちになった。
ほら、あんたはああいう事を何とも思わずすぐ忘れるんだ....。
私がどんな思いでいるかも知らずに.....。
先程と違い、一糸纏わぬその白い肢体に目を落とす。
まさか、自分と同じ性を持つ人間にこんな感情を抱く事になるとは....
そろそろと手を伸ばして触れようとする。
そう、私にだって触れる権利がある筈。あと少しで....手が届く.....
「ん?アニ、どうしたの」
指が肌に触れるか触れないかの所でエルダがこちらを向いて尋ねる。
「あ......」
思わず小さく声を上げて動きを止めた。掌は行き場を無くして水面を彷徨う。
しばし二人は見つめ合うが、やがてアニは静かに手を下ろして息を吐いた。
「何でも、ないよ....」
小さく呟いた声は温やかな湯気の中に溶けていく。
......駄目だ。瞼のうらではいつだって色々な事を想像するのに、いざ行動を移そうとするとまるで駄目になる。
こういう時、いつもの自分は何処に行ってしまうんだろう。何故こんなにも臆病になってしまうのだろう.....
「アニ、そう言えば明日の兵法講義の課題は終わった?」
のんびりとした口調でエルダは浴槽の縁に頭を乗せながら尋ねて来る。
「え......」
その言葉に我に返り、自分がいかにやましい事を考えていたか自覚してしまった。
じわじわと顔に熱が集中するのが分かるが、入浴中なので頬に沁みた朱色の原因は悟られないだろう。
「......まだだけど」
やっとの思いでぽつりと零す。それと同時に自分のすぐ傍に水滴が2、3滴降って来た。
「駄目よ、アニ。折角頭良いのにいっつも課題やらないんだもの。勿体ないよ?」
エルダは穏やかに笑って顔にかかった髪を耳にかける。
「別に....上位に入れればそれで良いし....。無駄な事はしたくない。」
「余裕ねえ。羨ましいわ」
そこでエルダはずいとアニとの距離を詰めた。突然の事に思わずアニは後ずさる。
「じゃ、お風呂上がったら二人でやりましょう?」
にこりと笑いながら....しかし有無を言わせない口調でエルダは言う。
「いや......私はやらないと言って....」
「駄目よ。ライナーに貴方のサボり癖をどうにかする様に頼まれているの。言う事聞かないとすごい事するわよ」
「す、すごいこと.....?」
エルダはとてつもなく楽しそうに笑っている。.....これは本当にすごい事の様だ....。
「でも、ちゃんと課題を終わらせたらアニのお願いを何でもひとつ聞くわ」
ね、と人差し指を立てて言う。その言葉に脳内に物凄い勢いで桃色の花畑が広がった。
.....ああ、頭の中が花畑だったのは私の方だったのか.....。
「........何でも?」
確認する様に尋ねる。エルダは相変わらず穏やかに笑いながら「私にできる事ならね」と答えた。
「...............。」
アニは気持ちを落ち着かせる様に浴槽に満たされたお湯を手ですくい、ざぶりと顔を洗う。
それから深く呼吸をして、エルダへと向き直った。
「.....じゃあ、するから.....今から言う事、聞いてよ....?絶対に。」
「あら、やる気になってくれて良かったわ。良いわよ、言ってみて。」
「...........。」
アニは一度口を噤み、しばし逡巡する。その後、ゆっくりとエルダの耳に口を寄せ、二言三言囁いた。
「...........え」
エルダはぽかんとした様子でアニの事を見つめる。彼女の顔は入浴中という事実でも誤摩化し切れない程赤くなっていた。
「先......上がってる。」
潤む目元を隠す様に目を伏せて、アニはざばりと湯船の中から立ち上がる。
そしてできる限りの平静を装いつつも遂々足早になりながら、真っ直ぐに脱衣所へと向かって行ってしまった。
残されたエルダはその白い背中をぼんやりと見つめた後、ほうと溜め息を吐く。
先程のアニの様に顔を一度洗うと、ほんのりと色付いた顔でこそばゆく笑って少し温くなった水面を見つめた。
「今更だけれど照れるわねえ....。」
その呟きは誰に聞かれるでもなく、湯気の中にゆっくりと溶けて行った。
*
「.......流石だな。まさか本当にアニが課題を終わらせてくるとは思わなかったぜ....」
翌日、アニのノートを感心した様に眺めながら、やはりお前に頼んで正解だったとライナーが零す。
「うふふ、アニだってやればできるのよ。ねえ?」
「偉いぞアニ」
「............。」
まるで両親の様な言葉をかけてくる二人にアニはイライラとした様な視線をぶつけた。
「.......睨むなよ」
「そうよ、折角の可愛い顔が台無しよ」
「..............。」
アニはもう一度じろりと二人を睨みつけると、無言でエルダの手を引いて引きずる様に教室の扉へと向かう。
「おい、アニ。エルダをどこへ連れて行くつもりだ。」
「..............。」
徹底した無視。まるで思春期の娘の父親に対する態度である。
「また後でね、ライナー」
アニに引っ張られながらも柔らかく笑いながらエルダはライナーに向かって手を振った。
その笑顔に絆されて何故かライナーも手を振ってしまった。
「...............。」
二人が教室の外に消えた後、ライナーは軽く溜め息を吐く。そこにベルトルトが近寄ってくるので更に深い溜め息をもう一度吐いた。
「どうしたのライナー。そんなの溜め息吐いたら内蔵が口からはみ出るよ」
「何それ怖過ぎる」
「何かあったの?いつにも増して際どい顔をしているね」
「.....お前って結構俺には辛辣だよな....」
「そんな事無い。」
「無自覚か。恐ろしい子」
「それより早く移動しないと次の訓練に遅れるよ」
「.......ああ。」
そう言ってライナーはのろのろと席を立つ。
それからベルトルトの肩にぽんと手を置き、ぼそりと「俺はお前に悪い事をしたかも知れん....」と呟いた。
*
「......約束、覚えてる?」
空き教室の一角でアニがエルダに尋ねる。
エルダは柔らかく笑い、「勿論よ」と答えた。
その返答にアニは小さく胸を撫で下ろす。
脳内がお花畑のエルダの事だから「何の事かしら?」といつもの調子で言われないか心配だったのだ。
そしてエルダに向き直り、正面から彼女を真っ直ぐ見つめる。その頬は薄く色付いていた。
「私は約束を果たしたよ。次はあんたの番だ。」
エルダは少し目を伏せて微笑むと、「.....ええ。じゃあ、するわよ?」と囁く。
その甘い響きにアニの白い顔は一層朱色を濃くし、それは耳にまで達した。
アニの片頬に手を添え、エルダはそっと屈んで彼女と視線を合わす。そして、ゆっくりとその柔らかな頬に顔を近付けた。
――――しかし、唇が触れるか触れないかの時に、アニの中で羞恥の心が臨界を突破した。
ばごん!!
凄まじい音が室内に響く。
傍に会った私物の分厚い本でアニの張り手を危うく避けたエルダは若干戸惑った様子で「.....危ないわよ、アニ」と言った。
「......どうしたの。私は約束を果たそうとしただけだわ。」
肩で息をしながら俯いてしまったアニの顔を覗き込もうとしたエルダを避ける様にアニは顔を逸らす。
今まで何度かこういう事をし合った事はあったけれど....こんな風に改まって...お互い正常な状態でするのは初めてだったのだ。想像以上の恥ずかしさだった。
「............?」
そんな彼女の様子にエルダはやや困った様に顎に手を当てて考え込んだ。
「...........、だ。」
微かな声がアニの口から漏れる。
「何かしら?」
うまく聞き取れなかったエルダが聞き返した。
「......約束は変更だ....!」
アニががばりと顔を上げてエルダを見つめる。真っ白い肌はすっかり薄紅色となり、青い瞳は潤んでいた。
そんな彼女の珍しい様子にエルダは少しの驚きと愛しさを感じる。
「そう?じゃあ何がいいかしら。」
くすりと笑ってエルダが尋ねた。
「......耳、貸して」
その言葉に従ってエルダは再び屈んでアニと視線を合わせた後、耳を彼女に向ける。
「.......................。」
......その言葉を聞き終わったエルダは思わずアニを見つめた。
アニは潤む瞳を伏せる。その大きな瞳からは今にも涙が一雫零れそうだった。
「......そういう事だから、」
そして小さい声でそう呟く。
「約束は、守るんだよ.....、絶対に....!」
エルダの事を見上げてそう訴えると、アニは逃げる様に空き教室を飛び出して行ってしまった。
昨日の風呂の時の様に、またしてもエルダは彼女の背中を眺めてぽかんとする。
そしてもう一度アニの言葉を噛み締め、嚥下し......笑った。
「それ位.....お安い御用よ。」
誰に言うでもなくそう呟くと、エルダはアニが置いて言ってしまった数冊の教本を持ち、彼女の後を追いかけて教室を出て行くのだった。
したい事もして欲しい事も、沢山沢山....数え切れない程ある。
それでもやっぱり願いはひとつだけだった。
「........ずっと一緒にいて、ね」
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