ユミルと割れた眼鏡について [ 167/167 ]
「飲む?」
その言葉と共に、ユミルの顔の傍へと湯気が仄かに立ち上るカップが差し出される。
一時的に身体を休める為に屋根を借りたウドガルド城の地下にて……深夜に単独行動を取っていたユミルである。
正直、なんの前触れもなく突然かけられた彼女からの言葉には肩がビクリと震える思いだった。
「やあねえ。なあに、その顔。お化けでも見えた?」
「うるせー、驚かすんじゃねえよ。」
ユミルはひとつ舌打ちして、差し出されていたカップを引ったくるようにして受け取る。
エルダは困ったような笑みを浮かべては「ただのお湯だけれど、悪いわね。」と呟いた。
…………周囲はシンとして、物音ひとつしなかった。
眠っている同期たちや休養中の先輩兵士たちを気遣ってか、自然と二人は身体を寄せては声を潜めて言葉を交わす。
「にしても、てめえのそれ…どうにかならねえのかよ。見る度に笑っちまうこっちの身にもなれ。」
ユミルが視線でエルダのヒビが入った眼鏡…テープで申し訳程度に目貼りされている…を視線で指し示す。
エルダはひとつため息しては、少しずり落ちてきた眼鏡を指でクイと戻す。そして「しようがないでしょ…」と呆れたようにしながら応えた。
「これが無いと見えないんだもの。………運が悪かったわ、割れるなんて。」
「普通スペアを持つだろ。」
「着のみ着ままで引っ張り出されたんだもの、そんなものありはしないわよ。」
「これを機に作り直せよ。私は気遣いが出来る人間だから言わないでいてあげたけど、正直お前の眼鏡めちゃくちゃダセえぞ。」
「まあ、そんなこと言ったらアニに向う脛蹴飛ばされるわよ。彼女が選んでくれたんだもの。」
「だからダセえって言ってンだよ、てめえは馬鹿か。」
「人に向かって馬鹿とか言わないの。心が貧しくなるわよ。」
人差し指を立てながら母親のような口調で語りかけるエルダに対して、ユミルはひとつ舌打ちをしては応じる。
彼女は少し肩をすくめただけで、相変わらずいつもの微笑を湛えていた。
「……………………。」
「……………………。」
「……………、何見てんだよ。用事がねえならとっととどっか行け。」
「うーん、ユミルは何してるのかしらって思っただけよ。」
自分も手元の縁が欠けたカップから白湯を飲みながら、エルダはチラと目配せしつつ尋ねてきた。
薄闇の中で、彼女独特の新緑色の瞳が弱く光る。それにユミルはハ、と吐き捨てるような笑い方をして応じた。
「私はこうしてな、腹の足しになりそうなモンを漁ってんのさ。」
「夜食は美容にも健康にも良くないわよ。」
「今更なんだよ、多分これが最後の晩餐になるぜ。……私の好きにさせろ。」
エルダの方から自身の手元へと視線を落とし、抑揚の無い声で言葉を交わす。
彼女から受け取ったカップを背の低いコンテナの上に置き、ユミルは食料…その他諸々のもの…の捜索を再開させた。
エルダは黙ってその作業の行く末を見守るらしい。横顔へと…ツ、と彼女の視線が注がれているのが分かり、ユミルは妙な緊張を強いられていた。
「………ん、こりゃイけそうだな。……ニシンは好みじゃ無いが…」
暗がりの中で鈍く光る缶詰を見つけ、ユミルは呟きつつそれを持ち上げる。
エルダは彼女のことを引き続き見下ろしていたが、暫時して「ニシン……?」と小さな声でその発言の一部を繰り返した。
「あ、」
ヒョイ、と掌中から缶詰を取り上げられるので、ユミルは思わず間抜けな声を口にした。
………エルダは繁々、と言った様子で缶詰の表面に書かれた表記を眺める。そして眺めながら、僅かに首を傾げてはそこに刻印された文字を読み上げるようにして呟いた。
「…Les filets de harengs fumés………」
ユミルはハッとした。
そうだ、これはこの国の言葉では無い。
考えるより先に身体が動いた。エルダの掌中からそれをひったくろうと手を伸ばす。
が、それはスと躱された。
………ユミルの手が届かないところへそれを巧みに持って行きながら、エルダはニヤと唇に弧を描いた。
「こんな冷たくて生臭いものを、こんな時に食べるなんていけません。」
そして切迫したユミルとは対照的に、実に和やかな声色で会話を切り出してくる。
「精神が磨耗している時に冷たいものを食べると体力が半分に減るのよ?今夜はこれで我慢しなさい。」
そして空を切ったままで中空に留まっていたユミルの掌に、エルダはポンと白い布で出来た小さな袋を置く。
……………ユミルは暫し自分の掌中に収まったそれに視線を落とすが、やがて再び凄むようにして眼前の女を睨む。
エルダは「あらら、怖いわ。」と困ったようにして手をひらひらとさせた。………例の、缶詰を持ったままで。
暫く二人はそのままでお互いの出方を伺っていたが、やがて根負けしたユミルが掌の上に落とされた包みを開く。
中身は、卵白で作られた安っぽい菓子だった。
自分の様子をニコニコと…こんな危急な状況にも関わらず花でも飛ばしてきそうな…しながら見守るエルダへと、ユミルは「んだよ、コレ」と不機嫌を露わにした声で尋ねる。
「お腹が減って自我を失いそうになったサシャの口に適当に投げ込んでやるように持ってたものよ。サシャとは離れ離れになっちゃったから、貴方にあげるわ。」
「猛獣の餌かよ」
「猛獣なんて。ちょっと噛み癖があるけれど可愛い子よ?」
「あれが可愛いねえ……」
「ええ、可愛いわよ。私の自慢の幼馴染だもの。」
だから、無事でいてくれると良いんだけれど……
そう呟いて、エルダは先ほどユミルがカップを置いたコンテナの上に腰掛ける。
その際に、蝋燭の光が作る陰影が彼女の顔へと深く落ち込んだ。
エルダはヒビの入った眼鏡の位置をまた少し直し、ユミルのことを今一度見上げては自分の隣の空いているスペースをポン、と手で叩いた。
「……………………。なんだ、それ。」
「ユミルが隣、来てくれた良いのにって私は思うんだけれど?」
「断固拒否する。」
「断固拒否を断固拒否するわ?」
「断固拒否の断固拒否を断固拒否する。」
「うふ、断固拒否の断固拒否の断固拒否を断固拒否しても良い?」
「分かった!!てめえとの不毛な言い争いほど私をイラつかすことはねえんだよ、このクソ野郎、畜生眼鏡!!!!!」
ユミルはエルダが腰掛けるコンテナを一度長い脚で強く蹴飛ばしては、彼女の要望通りにその隣に乱暴に腰掛ける。
エルダは少々驚いたように間抜けな声を上げるが、やがてひどく可笑しそうに上機嫌な笑みを浮かべた。
「ね、そのお菓子私が作ったのよ。ユミルがもし好きだったら今度はもっと多めに作るわ。」
「それ聞いて余計に食う気なくした。鳩の餌にでもするか。」
「まあ、そういう心にも無いことばっかりユミルは言うんだから。本当に素直じゃない子ね。」
エルダは一度、ユミルの色濃い髪を撫でながら困ったように言った。
………それをさせるがままにしながらも、ユミルは「何が心にも無いことだって?」と友人に対して反抗的な姿勢を緩めなかった。
「3年も衣食住を一緒に過ごしてたのよ。貴方が口で言うほど粗野な乱暴者じゃ無いことくらい、誰だってもう分かってるわ。」
エルダは実にリラックスした様子で、ユミルの髪を指先でくるくると弄んでは元の位置へと整えたりをゆっくりとした動作で行なっていた。
「だからクリスタは貴方のこと好きなんでしょう。サシャだってそうじゃ無い?貴方と来たら、彼女に恩を売るだのなんだの物騒なこと言いつつも結局は気にかけてやってるんだもの。……サシャの固い言葉遣いが最近随分マシになったのだってきっと、ユミルのお陰よ。」
エルダはユミルに先ほど薦めてやった白湯入りのカップを今一度渡してくる。
ユミルは逆らわず、深い夜色の中でへんに白い琺瑯製のカップを受け取った。
その様を見届けて、エルダは弱く微笑んだ。そして再度口を開く。
「少し、妬けるわ。」
それを聞きながら、ユミルは未だに白い湯気を細く立ち昇らせているカップに口をつける。本当にただただ水を熱しただけのものが、臓腑の奥へと仄かな熱と共に滑り落ちていく。
「……………意外だな。」
そこから唇を離し、ユミルもまた呟いた。エルダは「何が?」と静かな口調で訪ねてくる。
「いや……。妬くとか。らしくねえな、どっちかと言うと妬かせてばっかの罪作りな女だろうよ、てめえは。」
「あら私なんかに妬いてくれるなら嬉しいわ。………まあ、でも私だって人並みに妬いたり拗ねたりゴネたりはするのよ。貴方はそれ、知ってる筈だと思うけれど。」
エルダはなんだか意味ありげな表情でユミルの顔を覗き込むようにした。
応えてユミルは薄く笑う。エルダも口元に手を当てて少しの笑いを漏らした。
二人の笑い声は至極小さなものだったが、しんとした夜に沈んだこの空間では不思議に大きく朗らかに響いた。
「………そうだったよ、言われてみりゃてめえはそう言う奴だよ。変なとこで意固地になる。」
「ユミルと一緒よねえ、お揃いだわ。」
「んなわけねーだろ。一緒にすんな畜生眼鏡。」
「さっきから随分私の眼鏡をバカにしてくれるわねえ…。貴方前世で眼鏡に殺されでもしたの?」
「ちげえよ、バカ。残りのレンズの方もかち割ってやろうか」
「ま、乱暴者ね。」
エルダは可笑しそうに眉を下げながら、隣に並ぶユミルの腕の辺りをポンと叩いた。
ユミルもなんだか全てが下らなくなって、力が抜けたような気分で一緒に笑う。
石壁にくり抜かれただけの窓の外では小さな星がハッカ色の弱い光を滲ませていた。
「…………全く、貴方と来たら初対面の時からいっつもそうよ。口ばかりが悪くて。」
エルダは何かを思い出すようにしながら瞳を閉じ、傍に積まれたコンテナに頬杖をついた。
ユミルはその横顔を眺めながら、「てめえもだろ、何かと突っかかって来やがって…」とぼやいた。
「…………変な話だ。こんな時に思い出すのはどうでも良いことばかりだよ。」
言葉を続けつつ、ユミルもなんとなく手を伸ばしてエルダの下ろされていた長い髪をひと房手に取る。
ふわふわとして雲のような心地の髪である。毛質ひとつ取っても、自分と彼女は異なることばかりだ。
ーーーーーーークリスタとも、二人並ぶと体格や見た目、性格の差から随分と周りに正反対だと言われていた。
しかし、クリスタと自分の根の部分はむしろ似通ったものだと思う。
そして……エルダとは、どうなのだろう。
「それは私もよ。………ほんと、皆に会ってから毎日が波乱万丈の連続で…退屈する暇も無かったわ。」
自分の茅色の髪の毛を弄んでいたユミルの指先を、エルダは自然な動作でそっと捕まえてはしげしげと眺める。
そうして、「長い指ね……」と呟いた。
「全くだよ、なんであいつらガキ供は厄介事ばかり起こしてくれるんだか。」
「ユミルだって充分過ぎるほど厄介事を起こしてくれてたわよ。貴方たちが面倒な事態を呼び込む度に、教官に口利きに行ってあげたのは誰かしら?」
「仕様がねえだろ、私らが行くと角が立つんだよ、良い子のお前が一番の適役だろうが。」
「貴方だって充分良い子なのにねえ。」
「そう言うのやめろって……」
「わざとに決まってるでしょ。」
「……………。ほんと性格悪いよな、お前。」
「うふふ、からかってごめんなさい。でも私嘘は言わないわよ?」
ユミルはユミルらしくね。
そう言って、エルダはユミルの掌を解放してやった。
………握られていた場所が急に冷え込んだ心地がして、ユミルは離れつつある彼女の手を握り直して自分の傍に寄せる。
エルダはその様をなんともこそばゆそうな様子で見守っては「あらあら」と言って苦笑した。
なんとはなしに…放置していた卵白の菓子をひとつ、ユミルは口に含んだ。
木の実のような味がしたが、それは呆気なく口の中で溶けて味わう暇もロクに与えられなかった。
「甘いな」
とユミルがそのままの感想を述べれば、エルダは「甘過ぎるくらいが丁度良いのよ」と応える。
「ーーーーーーなあ、エルダ。」
ふたつめを口に放り込みながら、ユミルは隣に座る女の名前を呼ぶ。
応えて彼女は視線だけをこちらに寄越した。
………少し躊躇い、そして意を決して今一度口を開く。エルダは黙ってその様を見守っていた。
「……お前さ…。もしもクリスタが、ただの…何の役にも立たない女になっても、今までと変わらずに大事にしてやれるか?」
「………………。」
唐突な話題に、エルダは不思議そうな表情でパチパチと瞬きをした。
しかし深くを追求することもなく、「勿論よ。」と予想通りの返答をする。「役に立つか立たないかなんて、些細なことだわ。」と付け加えて。
「貴方が……ユミルが、何を不安に思っているのか私にはよく分からないけれど。ユミルが思う以上に私は貴方たちが大事なんだもの。」
エルダはこそばゆいような寂しいような、不思議な微笑を浮かべながら、やがてユミルの肩に頭を預けてくる。そうして本当に小さな声で、「失いたくないわ。」と耳元で囁いた。
ユミルは距離がほとんど無くなった友人の皮膚を肌で感じながら、暫しの間瞳を閉じる。
閉じたままで、同じくらいに小さな声で「……そうか。」と応えた。
「エルダ……。お前、やっぱそのクソダサ眼鏡取れよ。」
「随分しつこいわねえ。これが無いと見えないって言ってるでしょ。」
「せめて今は外せよ。視界に入れたくねえんだよ。」
「はいはい……。」
エルダは溜め息を吐き、言われた通りにヒビの入った眼鏡を外す。ユミルはそれをすかさず掌中から取り上げ、彼女の手に届かない場所に置き去った。
エルダは少々訝しげな様子で、首を傾げながらこちらを見上げてきた。
……………随分と久々に、素顔の彼女を見たような気がして…ユミルは少しの間、ただただ甘い茅色の睫毛に縁取られた薄緑の瞳を眺めた。
エルダもまた、ユミルのことを見ている。
やはりあのメガネは最悪だな、とユミルは思った。本当に残りのレンズもかち割ってやりたい。だがこの状況で、視覚矯正無しはエルダにとっても辛いだろう。流石にそれは思い留まった。
(………畜生、瞳か。よりによって一番美味しい場所を持って行きやがって……)
あの女、
ユミルは呟き、エルダの白い開襟シャツの胸ぐらを掴む。
大した抵抗もできず、彼女はユミルの方へと強く引き寄せられた。
(なら私は…この………)
この、場所……。
強い気持ちを行為に変えて、ほとんど唇を押し当てるようにしてやる。
予想した通りにそこは、女性独特の柔らかいものだった。
勿論エルダは驚いたらしく体を僅かに慄すが…すぐにユミルと繋がったままだった掌をそっと握り返し、空いている方の手でポンポンと背中を優しく撫でてくる。
ユミルは少し目を伏せて、エルダの行為を甘受することにした。
(やっぱりこいつも、根っこは同じか。)
と思う。掌をわざと痛いくらいに握り、より一層に自分の一部を沈めるようにした。
………エルダはこちらの気が済むまで付き合ってくれた。
彼女は作る菓子だけじゃなく、髪の匂いも肌も唾液もその他の何もかもが甘い女だった。
いつの間にかその身体を抱くようにして、エルダの首筋に顔を埋めている自分を情けなく思う。
そのままで、本当にエルダにだけ…他の誰にも、星にも、空を泳ぐ夜行性の鳥にも聞こえないほどの声で一言呟く。
エルダはユミルの艶のある髪を静かに撫でながら、「大丈夫よ、」と笑って了承の意を示した。
その一言にひどく安心して、ユミルは今一度エルダを抱き直して体重を預けた。
…………心臓の音が聞こえる。
柔らかで白い彼女の皮膚の下にも、確かに赤い鮮血が迸っては巡り続けているらしい。
*
自分の胸の中で、死んだように静かになったユミルを見下ろしながらエルダはそっと笑った。
そして先ほど彼女と口付けを交わした唇を指先でなぞっては…何かを思案する。
…………ポケットには、先ほどの缶詰をそっと入れさせてもらっていた。
(何かしらね、この文字列。……ところどころ分かるところがあるわ。多分……。)
エルダはその脳内に、自分が今まで読んできた書籍の膨大なデータベースを所持している。
その間をコツコツと歩き回り、随分と昔に読んだ書物にまで辿り着く。
(ああ、これ………。ひどく懐かしいものね、すっかりと忘れていたわ。)
(今はどこにあるのかしら。…………探さなきゃね。きっとそこに、何かの応えがある筈だもの。)
エルダは緩やかな弧を唇に描いては、ユミルを安心させる為にその身体を今一度抱き直した。
………抱くと、やはり彼女も女性だなと実感する。触れ合う皮膚は柔らかくて、温かだった。
「ユミルは本当に、可愛いわねえ……。」
心から思ったことを、エルダは口にした。
…………彼らや彼女たちにとって、自分は大勢の中の一人なのだろうと思う。
だが、自分にとっては本当に欲しくて欲しくてたまらなかったものなのだ。
(失いたくないわ……。)
今一度そう考え、エルダはユミルの頬に唇を落とした。
リクエストBOXより、ユミルでキス話!!! で書かせていただきました。
素敵なリクエストをどうもありがとうございました。
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