アニと十年後 02 [ 166/167 ]
「アニ。……今なら、私を振り払って逃げることが出来るわよ。」
エルダは重なり合わさった掌をそっと自分の口元に持って行き、アニの手の甲に口付けた。
「さあ、貴方は自由だわ。」
唇をそっと離しながら、エルダは言葉を紡いだ。
そして翡翠色の光が宿る目で、アニのことを見つめる。
「でもね…これだけは信じて欲しいわ。私が愛した女性は貴方だけよ。身体でも、心でも…ね。」
繋がっていた掌が離されたので、アニは中空に投げ出されたようにアンバランスな感覚に陥った。
やはり、十年強歩かずにいた足は萎えて上手く立つことも覚束ないらしい。
それを留める為にしっかりと石壁を踏み直して、深い青色の空を見上げた。
やはり星の灯りは強く光っている。ひとつずつが、炉にくべられた錫のように烈しく燃えていた。
それをしばらく眺めてから、アニはもう一度エルダのことを見た。
縁のない角型の眼鏡に、頸が見えるほどに短くなった髪。自分を去なすほどに場数を踏んで鍛えられた身体と居住まい。
……この世でただ一人、心と身体を許した女性は既にこの世にいないのだ。
細い銀色のフレーム、緩やかな楕円の眼鏡の奥からこちらを見つめる薄い緑色の瞳も。
ふわふわとして長く、甘い茅色をした髪の毛も。娘らしくおっとりとして隙が多い佇まいも。
自分が特に愛していた彼女の持物を、眼前の女に見出すことはどうしても出来なかった。
…でも、声は同じだった。そして触れてくる指先の淑やかさも。
確かにこれはエルダなのだ。そのことを実感する度に、胸の奥が支えたような感覚に陥る。
「…………………。私は…人を、沢山殺したんだけど…。」
エルダの頭の向こうに広がる銀砂を散らしたような星空を眺めながら、アニはぼんやりと呟いた。
「そうねえ。私もよ。」
貴方ほどじゃないけどね。とエルダは微笑んで応えた。
「………悪い奴だね。」
「そうね、お互い様。」
「それで調査兵団でいることに嫌気が差した?」
「当たり前よ。私は人を殺す為にこの兵団に入ったんじゃないわ。父さんに会う為に、ここに身を置いてたんだもの。」
「この世のどこにもいない父親を探して?」
「いいえ、私の父さんどこにだっているわ。私が、美しいと思うものの中にね…。」
貴方の中にも、勿論。
そう言って、エルダはゆっくりと目を細くした。淑やかな笑い方である。しかし、その視線は凄まじいほどに熱かった。
本当に、十年ぶりなのだ。アニは今更ながらそれを感覚する。
そして十年という歳月の中で、エルダはアニに対する想いを失わずに……むしろ、より強いほどに。
それを思えば、嬉しかった。
ここまで混じり気なしの執着とも呼べる愛情を注がれ続けていたことが、嬉しかったのだ。
(そう言えばあんた…抜けてる癖に、人一倍諦めが悪かったっけ。)
なんだか懐かしい気持ちになって、アニは苦笑めいた表情を取る。
「ねえ…アニ。私たちの手は絶対に人を殺す為にあるんじゃないわよねえ。………少なくとも、私はそう思っているんだけれど。」
…………斜め上で白々と光っていた星を少しの間眺めていたエルダは…そう言いながら、そっと腕を広げてアニへと向き直る。
「私の手はね……。大好きな人を、もう…絶対に、ぎゅっと繋いで離さない為にあると思うの。」
今にも自身の身体を優しく包んで抱き寄せそうな姿勢を取りながら、エルダはあくまでアニへと触れようとしなかった。
「貴方の手は、何の為にあるのかしら……。」
紅が引かれて濡れたように光る唇で囁いて、エルダは僅かに首を傾げた。
彼女の短くなった髪が、青い夜風に煽られてふわりと揺れる。幾分か面長になった頬の輪郭が、星灯りに切り取られてハッキリとそこに現れていた。
アニはその様を眺めて……僅かに、目を細める。
(答えなんて、もう決まっているけれど。)
(………それでも、私が知らない十年があるのはやっぱり悔しい。)
だから代わりに、その十倍…少なくともあと百年は、私の為だけに生きてよね。
アニは一歩ずつ足を踏み出し、エルダへと近付く。すぐ傍に立つと、頭ひとつ分と少しほど違う身長差が憎らしかった。
「……………。そうだね、私の手は…。」
エルダを斜めに見上げながら、アニは小さく笑って言葉を紡ぐ。笑ったのが本当に久しぶりすぎたのか、頬の皮膚が突っ張ってピリと痛んだ。
「あんたを、二度と逃さない為にあるんだと思うよ………。」
そして、彼女の首の辺りに腕を回してゆっくりと自分に引き寄せる。
自然と、自分の背中へと同じように腕が回されるのが分かった。首の辺りに、甘い茅色の髪が柔らかく触れてくる。
「…………連れてってよ。」
そのままで、命令するように耳元で呟く。風が一際強く吹き、自分の金色の頭髪が揺れて光るのが目に入った。
己の容姿にそれほどの興味は無かったが、エルダに十年以上にも渡って愛され続けたのならば…自分は美しいのだと、素直に思える。
そのことが嬉しかった。自分を愛しいと思える喜びが、ゆっくりと体内を満たしていく。
「私を、私の故郷に連れて行ってよ…!」
ふるさとを意味するその単語を言葉にしながら、瞼を下ろした。烈しい星灯りが眼球の裏に留まって、熱いほどである。
「…エルダ…………!!」
彼女の名前を呼ぶ声が掠れていたことに驚いた。眼球の裏に蟠っていた熱が解けるように流れて、頬を伝う。
エルダが淡く息を吐いて、自分を抱く力を強くした。
「ああ、本当に可愛いわね…。」
そして、吐息混じりに呟く。喋る度に、その胸元が僅かに膨らんで震える感覚が心地良かった。
「…………これから、もっと大切にするわ。あの時に…貴方の心の内側に気が付けなかったことを、本当に本当に後悔しているの。」
…………やがて、抱き締められる力が痛いほどの強さになった。この馬鹿力、とアニは舌打ちしたい気分になる。
「私の、可愛い可愛いアニ。」
睦言のように、エルダは繰り返して囁いた。
そのまま彼女は流れるように自然な動作でアニの身体を抱き上げ、数歩歩いては壁の際へと至った。低い縁へと足をかけて昇るので、アニは本当に久しぶりに…壁に遮られない、世界の景色を眺めることが出来た。
…………しばらくその様を見下ろしてから、アニはエルダへと視線を戻す。彩度の高い薄緑色の瞳と目が合うので、気持ちの赴くまま彼女に口付けた。
唇を離した後、エルダは「随分口紅が取れちゃったわ、あとで塗り直さないと。」と笑う。
そして…何の予告も無しに、石壁を蹴らず重力に従って落下するようにして自身を中空へと放り出した。勿論、その腕に抱かれたアニも一緒に。
青い闇の中をゆっくりと落ちていきながら、アニは銀の星色に染まった風景を眺めていた。
辺りの景色は全てゆっくりとしていて、そのままで傍を流れていく。何の音もせず、自分たちの息遣いが聞こえるだけであった。
「可愛い可愛い、私のアニ…。」
今一度、エルダが自分の名前を愛おしそうに呼ぶ。
「もう二度と、寂しい思いはさせないわ。」
彼女が囁いた直後、装置がガスを吹く音が空を裂くようにして鳴った。
その音を聞きながら、アニは清浄な壁外の空気を吸い込んで胸の内側へと満たす。
そしてエルダへと身体を預け、ゆっくりと瞼を下ろした。
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