光の道 | ナノ
アニと十年後 01 [ 165/167 ]

(十年後捏造、if付き合っていた設定)



「アニ、足元に気をつけてね。」


エルダがこちらを振り返り、優しく笑っては注意を促した。

あんたに心配されるほど落ちぶれちゃいないとアニは思ったが、十年近く動かずにいた足は自分が覚えているほど思い通りには動いてくれないらしい。

彼女が掌を差し出すので、アニは少しの躊躇の後にそれを取った。エルダは嬉しそうに笑い、握り返してくる。


「久しぶりね…。こうして手を繋ぐのも。」

「……………。そう?」

「アニにとってはつい最近繋いだのかもしれないけれどねえ。私にとっては十年ぶり。……懐かしいわ。」


エルダがこちらを振り返って話す度に、紅が引かれた唇が淡く光った。

化粧なんてまるでしない女だった癖に、生意気。と思う。

だが、それだけの月日が流れたのだろう。彼女はもう二十代の後半だ。………自分は未だ、十代半ばの姿のままだったか。


「……………。背、伸びたね。」

「アニは小さいままだけれどねえ。」


アニは無言でエルダの足を蹴っ飛ばそうとした。彼女はいとも簡単にそれを避けては「うふふ」と楽しそうに笑う。


「ねえ、エルダ。」

「何かしら。」

「…………装置。二人分無かったの。」

「あったわよ?」

「……………………。なんで持ってこないの……。」

「だってこの装置結構高価なのよ。自分のものだけならまだしも、人のを持って行っちゃうのは気がひけるわ。」

「じゃあ…私が飛ぶ。さっさと貸して。」

「あら。歩くことも覚束ないお嬢さんには貸せないわよ?」

「生意気言わないで。あんたなんかより私の方がずっと速く正確に飛べる。」

「それは十年も前の話でしょう。」

「今だって。私があんたみたいなインドア派の極みみたいな女に負ける筈無い。」

「…………ふうん。…………。でも、駄目よ。」


壁の上を目指して、二人で長い階段を昇る。エルダは未だにアニの手をしっかりと握っていた。合わさった掌が徐々に汗ばんで、熱を帯びてくる。それでも彼女は離してくれなかった。


「私がアニを連れて行ってあげたいの。だから、駄目。」


偶には年上にリードさせてちょうだいよ。

そう言って再度振り向いた彼女の瞳は、よく覚えのある薄緑色をしていた。でも、そこにはアニが見たこともない種類の光が宿っているようにも感じる。

自分が知らないところで、自分が知らないものを多く見てきたのだろう。


………優しく目を細めて笑うエルダの両耳では、ピアスに嵌められた石が小さく光っている。

これも、知らなかったものだ。髪まで短くなって、いつの間にか隙も全然無くなって。別人みたいで、すごく嫌だった。


「……………あんた、誰。」


アニはエルダの掌を振り払って、一言そう述べた。

突然の彼女の発言に、エルダはまるで驚く様子もなくこちらを見つめ返すだけだった。


「エルダよ。」

そしてあっけらかんと答えてみせる。「忘れちゃった?」と付け加えて。


「私が知ってるエルダは……。あんたみたいな女じゃ無い。もっとアホで、マヌケだった。」

「随分ねえ…。でも、十年経ってるのよ。いくら元から老けてる私だって、ちょっとは成長したり変わったりするものよ。」

「そんなこと知らない。………だって、私はまだ十六だよ…。あんたはいくつよ…。」

「二十八歳よ。すっかり妙齢だわ。」

「私は…………十七歳のエルダに会いたい…。」

「もういないわ。残念だけれど。」


エルダが再びアニの掌に触れ、自分の方へとその身体を引き寄せようとする。

やめて、とアニはそれを突っぱねたかった。

しかし彼女はいとも簡単に抵抗を制し、腰ごと掴んで身体を引き寄せてしまう。


…………自分が弱くなったのか。彼女が強くなったのか。

このことは、アニにとっては随分なショックだった。しかしそんな彼女の気持ちは御構い無しに、エルダはアニの身体をしっかりと抱いては髪を撫でてくる。


抱き方は、同じだった。包まれた時の香りやその皮膚の柔らかさ、暖かさもまるきり。


それすらも違っていれば、拒否の姿勢を取り続けることも出来たのに…とアニは歯噛みしたい気分になる。

中途半端に愛しいあの人の面影を引きずった、この年増の女が嫌いで嫌いで仕様がなかった。


「アニ。」


頭髪を撫で、その頬に自分のものを寄せ……エルダは耳元で囁いた。


「貴方が嫌ならば、ここで帰ってもいいの。………本来は悪いことなんだから。貴方はこの壁の中で償いをすべき存在でしょう?」


エルダの口から初めて自分の罪を言及され…アニは胸の奥、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。

彼女だけは、自分の味方でいてくれると…そんな都合の良いことを、心の中に抱いていなかったと言えば嘘になる。

唇を噛んで、抱かれたままで目を伏せた。少し顔を動かすと、彼女の相も変わらず豊満な胸が自分の皮膚に沿ってゆっくりと形を変えていく。思わず、溜め息を吐いてしまった。


「……でもそれは、私が嫌。」


然しながらエルダは、抱く力を一層強くしながらも場違いに明るい調子で言った。

そしてゆっくりとアニの身体を解放して、向き合うようにする。

弱い風が吹いて、エルダの前髪を揺らしていった。清潔な香りがそこから泳ぐようにして漂ってくる。


「…………十年。貴方には一瞬でも、私にとっては気が遠くなるような長さだったわ…。あの事件が収束した後も…毎日、結晶体の下でただただ蒼白になっていく貴方の顔を眺めて……。本当に、毎日。……毎日。」


エルダは白い指をアニの頬に這わせながら、囁くように呟く。


「大切な貴方を、ろくでもない人間の手なんか委ねてたまるものですか。私が貴方を連れて行くわ…。」


そのまま、全く自然な動作でエルダはアニの唇へと口付けた。驚いたアニは、思わず彼女を突っぱねようとしてしまう。しかしやはり、それは敢え無く制される。

アニの片腕を拘束し、その後頭部にしっかりと掌を回しての…ひどく強引な行為である。

けれど、彼女の口付けはあくまで優しかった。ほとんど唇が合わさっているだけで、僅かに食まれるのみである。


………そういう女なのだ。

この優しさが人を傷つける。


(そして私も、傷付けられた一人なんだろうね。)


唇を離されるので、その刹那にアニはしっかりと言葉を紡いだ。


「ちゃんとして…。」


至近の距離でこちらを見つめながら、エルダは数回ゆっくりと瞬きをする。きょとり、とした表情であった。


「…………ちゃんとしてよ。年増の癖に、そんなことも満足に出来ないの。」


エルダは了承するように黙って微笑み、今一度アニの頬に掌を添えた。焦らすように、そこを数回撫でてくる。薄緑の瞳はそっと細められ、濡れていて艶っぽい。


そして、エルダは再びアニの唇に時間をかけて口付けた。

しっとりとしたその唇で自分の口を割られ、ゆっくりと舌が侵入してくる。歯列、そして舌。口内の形を確かめるような、丁寧で慎重な口付けだった。そのままそっと抱かれ、髪を撫でられる。


いやに慣れたその仕草に、アニはもしや、と思う。


自分がいない間に、誰かと関係を持ったのではと。

……そんなことが許せる訳がなかった。

この裏切り者、と思ってその舌に歯を立てた。驚いた彼女が身を引こうとするので、それを逃さないように今度はこちらから捕らえるようにして抱きしめる。


今ここで犯してやろうかと本気で考えるくらいに、瞬間的に沸き起こった気持ちは熾烈だった。

貪ると言う表現が近いほどにエルダの唇を犯して、彼女が涙を流すまでやめてやらない、と思った。

やがてエルダの頬に生理的な涙が一筋垂れるので、ようやく唇を解放して…思いっきり、睨み上げてやる。


「あんた……。なんでこんなに、慣れてんの…。」


エルダは……しばらく、アニのその言葉を吟味するように今しがた合わさっていた唇を指先でなぞっていたが、やがて指を離しては嬉しそうな笑みを描いていく。


「あら、いやに情熱的と思ったら。……ヤキモチ焼いてくれてたのね。」

「茶化さないでよ。」

「…………。茶化してなんかないわ。ただ、嬉しいだけよ。」

「はぐらかさないで。正直に言ってよ…!……第一、その眼鏡だって違う。私と一緒に買いに行ったものじゃ無い。どこにやったのよ… !!まさか捨てたの!??」



アニはエルダの胸ぐらを思わず掴みながら、珍しく感情的になって言葉をぶつける。

その様を、ただエルダは微笑しながら眺めていた。


(……何、余裕そうな表情しているの。)


アニは苛立ちと焦りと憤りがない交ぜになった感情をぶつける為に、エルダのことを鋭く睨みつけた。

だがそれにさしたる効果は無いようで、エルダは相も変わらず薄い笑みを漏らしたままである。そして自分の襟元を掴んでいるアニの手に、自分の掌をそっと重ねた。


「………………。十年経つのよ、何度も言うけれど。私の目だって、前よりももっと悪くなったわ。…別に、貴方と一緒に買った眼鏡のレンズだけを変えて使い続けても良かったけれどね……。そんなことは、とても出来なかったの。」


そのままエルダはアニの指先を掴んでは繋ぎ、また長い階段を昇り始める。

彼女は言葉を続ける。前を向いているので、その表情を伺うことは出来なかったが。ただただ、その声は淡々とつつがなく紡がれた。


「毎朝、眼鏡をかける度。自分の顔を鏡に映す度に、貴方と貴方たちのことを思い出さなくてはならない……。ごめんなさい、私は強くなかった。そんなことに、耐えることは出来なかったの。」


もう地上は自分たちから遥か距離を取って、ずっと下の方にある。その代わりに星が近づいてくる。一粒一粒を数えられるほどに大きな星が青い闇を縫って烈しく光っていた。


「それなら…。何故、私のところに毎日通うなんて馬鹿なことをしたの。」


エルダの気持ちが分からないほど、アニは冷淡な女では無かった。

…………感情的になってしまい、申し訳ないと思う。謝ることはしないけれど。素直になれなくて、ごめん。と心の中で届かない謝罪を幾度か繰り返す。


「だって、私が一緒にいてあげないと…貴方、一人ぼっちになっちゃうでしょ?」


やがて壁の頂上に至るので、振り返ってエルダが答えた。

言いながらゆっくりと首を傾げるので…また、耳に装飾された小さな石が光る。

それを眺めながら…。アニは、絶望に似た気持ちを深く深く噛み締めた。


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