ベルトルトとお出かけする 01 [ 162/167 ]
窓から斜めに、透き通ったグレーの光が差し込んでいた。
古い床板がそれに照らされると、刻み込まれた傷のひとつひとつが黒い陰影によって浮かび上がる。室内に漂う埃も、光に照らされて鈍く輝いていた。
年代が蓄積されたような古色が濃厚な景色の中で、彼女はいつもの場所に腰を下ろしゆったりとした空気をまとっては書籍を読んでいた。
エルダは…自らに留まる視線に気が付いたのか、顔を上げてベルトルトの方も見た。
「あら」と小さく声を上げてから微笑むと、少しの間彼からの反応を待つ。
「…………………。」
だが、ベルトルトは「あ…」と微かに吃った後、何も言えずに固まっていた。
………会えたらいいな、となんとなく考えながら歩んでいたところ、存外簡単に彼女が見つかってしまったのだ。
会ったからといって、用事があるわけではない。エルダにかける言葉の準備もまるでできていなかった。
だから、いつものように何かを言おうとしては口を噤み、結局何も言えずにいた。
「なにか、私に用事?」
少しして、黙ったままの彼へとエルダが声をかけてくる。
ベルトルトは頷くことも首を振ることもできずにいた。
辺りは静寂に包まれて、また少しの時間が経過する。
「………折角のお休みなのに、図書室に来るなんてインドアね。男の子なのに不健康よ。」
エルダは開いていた本を閉じ、可笑しそうにしながら言う。
そして、自分の隣の席をベルトルトへと促しながら、「ああ、」となにかに気が付いたようにした。
「私も人のこと言えないわよねえ。」
ごめんなさいね、とエルダは穏やかに笑いながら謝罪を述べる。
勧められるままに着席しながら、ベルトルトは「いや…」と応えた。我ながら気の利かない反応だな、と思いつつ。
弱い日光が差し込む図書室は埃の匂いが漂っていた。時折エルダが書籍の頁を捲る乾いた音が、静寂に休止符を打つように鳴る。
エルダとベルトルトはこうした時間を共に過ごすことが多かった。
なにをする訳でも話す訳でもなく、同じ空気を共有するだけの空間がベルトルトは好きだったし、恐らくエルダも同じ認識だろうと思った。
(きっと…それが僕にとっては充分なことで…)
「ねえ」
ベルトルトがぼんやりと頬杖をつきながら思考を巡らせていると、ふいにエルダが声をかけてくる。
「…貴方、今日は暇?」
「え…」
「もし暇なら、ちょっとお出かけしない?」
エルダは難解な書籍へと落としていた視線を上げ、少し首を傾げながら誘いを持ちかけた。
*
「寒いのに付き合わせちゃってごめんなさいね。」
ベルトルトの一歩先を歩くエルダが振り返っては謝る。冬の空気はキンとして冷たく、エルダが吐く息は白かった。
彼女の方をちら、と見下ろしてから、ベルトルトは「いや…別に……」と言っては一旦口を噤んだ。
どこへ行くの、とエルダへと訪ねれば、彼女は「決めてないわ」と朗らかに答える。
「当てもないのに外に行くの?」
「そうよ。せっかくのお休みだから…たまにはね。それに貴方とお出かけするなんてあまりない機会だもの。」
楽しみね、と言いながらエルダは笑った。
対して、ベルトルトは(本当に楽しいのかな)と不安に思いながら、影のように彼女に付き従った。
(だって…僕…今日もまた一回だって気の利いた応答が出来てないし。折角一緒に出かけるって言うのに、エルダが喜びそうな場所に連れて行ってやることもできない…。)
ベルトルトにとって、エルダといる時間は楽しいものだった。しかしながら、どんどん自分に自信がなくなって行くのも確かである。
せめて何か楽しい会話を…と思い、かける言葉を思案するがやはりうまいことは思い付かなかった。思い浮かんだ言葉はどれも場にそぐわず、いたたまれない気持ちになるだけである。
エルダは当てもなく歩いているようだったが、どうやら街の方に向かっているらしい。
徐々に周りに人が増えていき、賑やかな話し声も近付いてくる。
人混みに慣れないベルトルトは、エルダを見失わないようにと気を付けてその後を追った。
彼の様子にどうやらエルダは気がついたようである。なんだか楽しそうに笑った後に、深い焦げ茶色の手袋に包まれた掌を差し出してきた。
「はぐれちゃ大変ね。繋いでおきましょうか。」
「………………。」
躊躇してから、ベルトルトはエルダの掌を握った。握れば握り返される。エルダは「随分冷たい手ね…」と少し驚いたように呟く。
「手袋、持ってないの?」
「うん…。」
「そう?じゃあ折角だし今日買うと良いわ。」
おいでと手を引かれて、ベルトルトはエルダの後ろから隣へと移動する。……エルダは何か思い付いたようにして、一度繋いだ掌を解いた。
そして自身の手袋の片方を外しては渡してくる。
「毛糸だから少し伸びるはずよ。今日、良い手袋が見つかるまで半分こしましょう。」
そう言って、エルダは彼女の体温で仄かに温まった手袋をベルトルトの手に取らせた。
ベルトルトは、自分の手の内に収まった深い茶色の手袋とエルダの薄緑色の瞳を交互に見つめながら、数回瞬きをした。
悪いよ、とか気を遣わせてごめん、とか色々な言葉がやはり頭の中に浮かんでは消える。けれどそれが口から出て行くことはなく、ただ彼は小さな声で一言「ありがとう…」と言った。
*
「おお、エルダじゃねえか。元気だったか。」
「ええ元気です。そちらもお変わりなく?」
「まあなあ。相変わらず売れてねえよ。で……今回は…またいつものか?」
「それもあるけど、今日は彼の手袋を見にきたんですよ。」
ねえ、とこちらを見上げれるので、ベルトルトは眼前の服屋…と言うよりも雑貨屋のような雰囲気の店の主人に「どうも」と小さく会釈をする。
………エルダの提案により、彼女の行きつけの服屋に足を運ぶことになったのは構わないのだが、どうもその店主の男性とエルダはすこぶる仲が良いらしい。若干の疎外感を覚えながら、ベルトルトは店の中を見回した。
やや埃っぽい店内には、規則性のない服の数々がラックにずらりとかけられていた。靴も、冬用のブーツがあるかと思えばサンダルもあり、片方だけしかない商品もある。随分と良い加減な店のようである。
「手袋?……うん、男性用だったら中古と新品があるけど。どっち?」
「新品でお願い出来ますか。長く使える方がいいわ。」
「ふうん、まあ良いけど。新品だと高いよ?」
「あら、じゃあ安くしてくださいな。」
「お前…簡単に言うよなあ。」
ちょっと待ってろよと言って、店主は書類だの解かれていない小包などが置かれて狭くなった階段を登って店の奥へと消えて行った。
それを「よろしくお願いしますー。」とひらひらと手を振ってエルダは見送っている。
「あの…」
ベルトルトは、傍の棚に置かれた奇抜な模様の靴下をいじりながらエルダへと声をかけた。彼女は「なあに?」と言って振り向く。
「い…や。ここ、よく来るの?」
「ええ来るわよ。私たちみたいな貧乏な若者にはありがたい値段で服が手に入るし…」
「そう……。あの人とも、仲良いんだね。」
「ああ、店長さん?そうね…良くしてもらってるわ。」
応えながら、エルダはそっと目を細めた。優しいその表情に、どう言うわけかベルトルトは胸が支える気持ちがする。
「ここには…その、女の子たちと来るの?」
「え?」
「いやっ………その、やっぱり、女の子って服は友達同士で買いに行く印象があるから…」
「そうねえ…。もちろんその時もあるし、ひとりで来る時もあるわ。」
「……。そっか。」
静かな店内には、古い時計の秒針の音がやたらと硬質に響いていた。
ベルトルトはまたひとつ溜め息を吐く。先ほどとは違う種類の。
やがて、二つ箱を抱えた店主が階段を軋ませて上から降りて来る。
彼は「お待たせ」と笑うと、抱えていた箱のうち一つの中身をこちらへと見せた。中には様々な色の手袋がぎゅうぎゅうと丸めて押し込まれている。
「お兄さん、好きな色とかあったら選んで行ってよ。」
店主はそう言って朗らかに笑った。薄暗い店内で、笑顔の中に覗いた彼の白い歯がいやに眩しい。
「まあ色々あるのね。ベルトルト、好きな色は?」
「ええと、特には…。」
「特に?色の好みくらいあるだろ。」
「ベルトルトは繊細な感性の持ち主なのよ。そう急かさないでやってくださいな。」
ね、ゆっくり選びましょう。と言ってエルダは店主から手袋が収まった箱を受け取ってはベルトルトに渡した。
ベルトルトは何故か申し訳ない気持ちになりながら、「うん…。」と曖昧に返事をする。
「じゃあ…お兄さんが手袋選んでる間、あんたのはこっちな。」
はい、と店主は残りの箱の方をエルダへと差し出す。
何かと思ってベルトルトがその箱の中身を覗き込むと、中にはなんのことはない、布の端切れの数々が押し込まれていた。
「あら、いつもどうもありがとうございます。」
「いやいや、どうせ余ってるもんだし。本当ならタダであげてもいいくらいだよ。」
「そんなこと仰らずに。」
エルダはうふふ、と楽しそうに笑って箱を受け取る。その横顔の穏やかさに、またしてもベルトルトは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
「………………。」
………ベルトルトの視線にエルダはどうやら気が付いたらしい。
きょとりと彼の方を見つめ返すと、何か合点したらしい。「ああ。」と言ってはベルトルトが持つ箱の中、手袋の方へと手を伸ばす。
「あんまり沢山あると選ぶの大変よね。私は貴方には深い色の方が合うと思うわ。ネイビーとか…テールベルトとか……」
ひょいひょい、とエルダはいくつかの手袋を手に取って行く。
「でも単色だとちょっと寂しいわよね。シンプルな柄入りにしても良いと思うわ。冬の間よく使うものだから素敵なものが…出来るだけ。」
「………柄入りは無地よりちょっと値段、するぜ。」
「あら、じゃあ安くしてくださいな。」
「おっま………だから簡単に言うなって……」
「はい、私の好みでいくつか選んじゃったけれど、この中からどうかしら。嫌だったら別のにしてね。」
店主のぼやきを半ば無視しながら、エルダは厳選された三つの手袋を渡して来る。
「あ…ありがとう。」
「いいえ。寒いのに無理に連れ出して、私こそ悪かったわ。」
「いやっ………無理なんてそんなことは……」
「そう?」
「うん……。そうだよ。本当に……。」
「なら良かったわ。」
ゆっくり選んでね。とエルダは穏やかに言った。
そして、自身の手の中にある箱の中身を今一度改める。
「それは…何に使うの?」
ベルトルトが尋ねると、エルダは端切れの中からレース地のものを取り出しては「そうねえ…」と呟いた。
「こう言う…レースのものとか、切り取って襟とかにつけてあげると女の子が喜ぶのよ。あとはハンカチとかにも飾りをつけてあげたり…ちょっとしたものを作ってみたりね。」
「へえ…。そういえば最近、レースのついた襟してる子が多いね…。」
「そう…。私たち一応兵士だけれど、やっぱり女の子は女の子でしょ。普段身につけるものが可愛い方が気持ちも楽しくなるんでしょう…きっと。」
「エルダは…自分のには、そう言うのしないの?」
「私?私は良いのよ。」
うふふ、とエルダは実に楽しそうにしながら言った。
灰色の光の中、いつもよりも一層その横顔が白く見える。
ベルトルトは「そっか…。」と呟いた。
君もレース、似合うと思うよ。
その一言を続けたかったが、どうしてもそれは言葉になってくれることはなかった。
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