アニと鳥と好きな人 03 [ 159/167 ]
「あ、エルダ…………」
図書室から出て来たエルダを、また誰かが呼び止めた。
彼女がその方を見れば、先ほどの男性と似た色彩の持ち主……しかし幾分か小柄な少年がそこにいた。
「アルミン、どうしたの。」
エルダが応えると、アルミンは黙ってしまう。しかし至極なにかを聞きたそうにしているのが、その大きな瞳の動きから見て取れた。
「あ、あの………。さっきまで、図書室に団長といたんだよね?」
「あら、よく知ってるわねえ。」
………そこで、エルダはなにかに思い当たったようにハッとした表情になる。
そうして申し訳無さそうに「ああ……それで…図書室に入り辛かったわよね。」と言った。
「いや……そういうことじゃなくて。」
「あらそう?」
…………二人とも大人しい性質ながら、アルミンとエルダはよく話をした。
お互い本が好きということもあり、不思議と気が合っていたのだろう。
しかし今の二人の会話はどうにもぎこちなかった。………どういう訳か、アルミンは非常に居心地が悪そうにしている。
エルダは………アルミンの頭髪へとそっと掌を差し伸べる。触れられる寸前、彼の身体はびくりと強張った。
「……………。貴方が?」
言葉少ない彼女の質問に、アルミンは弱々しく首を縦に振った。そうして、「試すようなことをして、ごめん。」と謝る。
「謝らなくて大丈夫よ。貴方なんにも悪いことしてないわ。」
…………疑わせてしまった私の方が悪いわ。と呟き、エルダは少年の指通りの良い美しい金髪を撫でた。
「……………エルダ。」
その優しい手付きを甘受してから、アルミンは彼女の名を呼んだ。それから自身の頭上にあった白い指先をそっと掴み、下ろして、眺める。
「ごめんなさい、貴方にばかり辛い役目をさせているわね。」
掴まれた手を握り返して、エルダが言った。
「エルダ。」
アルミンは再びその名を呼び、言葉を続ける。
「君は………どうするんだ。」
エルダは長らく目を伏せて、黙っていた。
しかし……やがてゆるゆると首を振り、「そうね」となにかを応えようとする。
「私、彼女の友達なのよ。」
「…………。知ってるよ。」
「向こうはもう、そう思っていないのかもしれないけれど……」
「そんなことないよ。………アニは、エルダには…エルダにだけは、心を開いていたと思う。」
「だから、助けてあげたかったの。」
とても心弱い声だった。
「でも、私がいくらアニを想っても、これ以上傷付かない道を示しても………」
そうしてエルダは悲しさを伴った微笑みを形作る。
「アニは頑だったの。」
アルミンは、彼女の思いが分かるような気持ちがした。
エルダは掌をそっと離す。それから抱えていた数冊の本を抱え直した。
「だから、あとは彼女が決めることね。……私はただ、アニの選択に誠意を示すことしか出来ないわ………」
彼女はゆっくりと、細い銀縁の眼鏡をかけ直す。
「駄目ね、私って。」
ぽつりと呟く彼女が持つ本は、数年来変わらずに難解そうなものであった。
しかし最近はそれに更に輪をかけているような………
今の彼女は、河岸に打ち上げられた魚が水を求めるように活字を食らう。
…………なにかを、掴もうともがいているみたいだった。アルミンが与り知らないところで、エルダもまた戦っているようである。
「ねえ………エルダ。」
アルミンは、本当に自然なことのように口を開いた。
なに?というようにエルダは少し首を傾げる。
「今日……さ。ストへス区の憲兵が………この近くに演習に来るの、知ってた?」
人一倍強かな彼にしては、実に軽率な発言であった。
けれど、どういう訳かアルミンはこの言葉を口にしてしまった。
「多分………。アニも、来てるんだと思う。」
彼は一般の大人以上に賢かったが、未だ十代半ばの少年でもあった。
頭では割り切ることの出来ない気持ちも、多く持っている。
「時間的にもうすぐ演習も終るだろうから………会ってあげれば………。喜ぶんじゃないかな………。」
……………今の自身の発言によって、エルダがアニに調査兵団の水面下の動向を教えてしまうかもしれない。
また、アニの手によってエルダが殺されてしまうかもしれない。
けれど………彼女たちをこのままで終らせてしまうのは、アルミンには耐え難かった。
聞き届けたエルダは、少し惚けた表情をした後……はあ、と溜め息をした。
そうして、「貴方はとっても優しい子ね。」と呟く。
「優し過ぎるくらい………。」
エルダが再びアルミンの頭髪を撫でるので、彼は「うん……。」とだけ返した。
「ありがとう、アルミン。」
彼女の謝礼に対して、アルミンはなにも応えられずに今一度「うん……。」と呟くに留める。
エルダはその場所から歩き出した。彼はその背中を見送る。
見送りながら、良かった、と思った。
エルダが苦しんでいてくれて、良かったと思った。一緒に苦しんでいてくれる存在に、救われたと思った。
――――エルダが苦しんでいてくれる限りは、僕は僕を人間として保てるのだろう…………
*
『それじゃあいけませんよ、エルダ。』
歩きながら………何故か、エルダの脳裏に懐かしい声が響いた。
最近は、顔もぼんやりとしか思い出せなくなった。けれど、この声だけは覚えている。
いつも、夢に見るから……。
『どうして……。患者さんは、苦しくて眠れなかったと言っていたもの。
だから私は、それならお薬を増やした方が良いのではないでしょうか?と聞いたのよ。』
幼い自分が聞いている。
記憶の中の父は、言い聞かせるように屈んで目線を合わせてきた。
少し野暮ったいような丸眼鏡の奥にある瞳が、自分と同じ色をしていたことをよく覚えている。
『そうじゃなくて、まず……それは苦しかったでしょう。大変でしたね。と苦しみを、痛みを分かち合わなくては……』
そうかあ、と小さい頃の自分は思った。思うだけだった。
医者だった父は、可哀想な人が好きだった。見捨てられた人を愛していた。
診る人間は、身体を売る娼婦や乞食、ゴロツキのめいめいがほとんどだった。
決して褒められない手術も沢山していた。そうして術後にやりきれずはたはたと涙を流す女性と一緒に、いつまでも泣いていた。
でも……本当は、イェーガー先生のような街の皆に愛される健全な医者になりたかったんだと思う。
追われてしまった故郷が懐かしかったのだと思う。壁の外の世界を、ずっと見てみたかったのだと思う。
どの願いも叶わずに、本当に呆気なく彼は死んでしまった。
父親らしい死に方だった。名前も知らない赤の他人を庇っての死だった。
エルダは………なんで、と憤った。
いつもいつも、人のことを大事にして想いやりなさいなさいとあれだけ教えられたのに関わらず………
他人なんてどうでも良いから、何故逃げて、生き延びてくれなかったのかと、悲嘆した。
そしてエルダは一人になった。本当の意味での孤独と飢えを知った。
――――賑わう市街地へと出た。街は斜陽の色に染まっており、低い位置にある太陽の光は強い。
アルミンが言っていた通り、憲兵の演習が近くであったようだ。
ユニコーンのエンブレムを背負った兵士たちの姿をちらほらと目にする。
演習ということもあり、平素よりは早くに訓練を終えたようである。皆持て余した時間の中で、のんびりと過ごしている。
……………エルダは、アニの姿を探した。
男女が入り交じった五六人の若い憲兵が酒場の戸をくぐっている。
ベンチに腰掛けて会話に興じる兵士もいる。当てどころ無くただ歩む兵士も。
彼らの笑い声と街の雑踏が入り交じり、辺りは随分と騒々しかった。
(いない………。)
けれど、その中によく見知った姿を見つけることは出来ない。
…………しかし、エルダは不思議と焦らなかった。
数年の寝食を共にした仲である。彼女が、こういう場所を好まないことは分かっていた。
エルダの足は、少しずつ人気が少ない場所へと運ばれていく。
アニが、好きそうな場所…………
それは自分が、好きな場所でもあるわけで…………
路地を折れると、水音がした。運河が近いのだろう。
薄汚れた猫が路を横切る。にゃー、というか細い鳴き声を残して。
………何故なら、アニはわざとエルダが好んだ場所にいることが多いから。
それが、彼女には嬉しかった。なんていじらしいのだろうと、こそばゆくて堪らない気持ちになった。
赤く焼けた太陽は、運河の水面すれすれの場所に留まっていた。
水面に光が反射してちらちらと輝いている。眩しさに、エルダは目を細めた。
運河にかかる橋の欄干には、白い鳥が数羽留まっていた。
エルダはそこまで辿り着き、傍の1羽へとそっと手を伸ばす。
………警戒心の強い鳥だったらしく、それはすぐに飛び去ってしまった。
彼女は残念、というようにちょっと笑う。
それから隣にいた人物の方を向く。彼女は運河の向こうに沈みいく太陽を見ていた。
けれどエルダの存在には気が付いているのだろう。………そうに、違いない。
「久しぶりね、アニ。」
一音ずつ確かめるように、エルダは愛しい女性へと語りかけた。
[
*prev] [
next#]
top