アニと鳥と好きな人 02 [ 158/167 ]
「エルダ」
名を呼ばれたので、エルダは顔を上げてその方を向く。
声をかけてきたのが至極意外な人物だった為に、彼女は小さく「あら」と言ったが……すぐに気を取り直すようにして笑い、椅子から立ち上がった。
「いや………そのままで良い。」
エルヴィンに座るように促されたので、彼女はひとつ礼をして再び座席に座る。
机上で開かれたままだった本が、窓から吹き込む風に煽られて数ページめくれていった。
「…………………。」
「…………………。」
少しの沈黙の後、エルヴィンは「座っても……?」と彼女に向かって正面の座席を示した。
エルダは「ええ、勿論です。」と実に柔和な表情でそれに答える。
「……………。図書室には……よく来るのか。」
暫時して、なにか話題を探すようにエルヴィンは彼女に質問した。
「はい、よく来ますね。」
訓練場でもそうでした、本が好きなんです。とエルダはにこやかに応答する。
また、沙椰と風が室内に舞い込んで来る。しかし室内は静かだった。
時間が止まってしまっているかのように、黴臭く微かに甘い空気に囲われてはしんとしている。
「……………………。」
「……………………。」
…………奇妙な沈黙だった。互いが互いの瞳のなかをひたと覗き込んでいる。互いの心意を計りかねている。
やがて、エルヴィンが口を開いた。エルダは変わらぬ穏やかな態度で、それに耳を傾ける。
「…………、先の壁外調査で……女型の巨人に遭遇したそうだな………」
「はい。」
「大事は無かったか。」
「ええ。」
「それは………とても幸運だな。奴に会って無事でいた者の方が少ないというのに……ほぼ無傷とは。」
「運が良かったんでしょうね。昔から運だけは良いんですよ私。」
「はは……、」
エルヴィンの口から乾いた笑いが漏れる。エルダもつられたように、口元に手を当てて笑った。
「一緒にいた者も相当深手を追ったというのに………そうか、君だけ……」
「ジャンもほぼほぼ無傷でしたよ。彼も私と一緒で中々悪運の強い人間ですから。」
「ああ……、そうだな。」
……………思うように話が進められないことに、エルヴィンは些か焦った。
そして、もしものことを考えて………眼前の人物が女型の仲間である可能性を………緊張し、しかしそれを悟られまいとする。
「………今日は、どうしました。一介の平兵士に団長さん自らお声かけ頂いて……私、なんだか緊張してしまいます。」
エルダは上品な笑みを零した。
そして手元に開いていた分厚い書籍を閉じて、再びエルヴィンのことを見上げる。
どうやら、本題に入るように促しているらしい。
「そうだな……、時間を取らせてすまなかった。」
「いいえ、お気遣いなく。」
「女型と交戦したときの状況について、いくつか質問しても?」
「どうぞ。お力になれるのでしたら。」
「……………単刀直入に聞こう。君は何故女型と出会ったのにも関わらず、無傷だった?」
エルヴィンの質問に、エルダは実に不思議そうな表情をした。しかし構わず彼は続ける。
「…………アルミンの報告によれば、女型は確かに君を認識していたようだな。では……何故攻撃されなかったと思う………」
「そうですね……。女型の巨人は、自身を阻む者のみに狙いを定めていたようでした……
彼女の目的は、兵士たちをいたずらに殺すよりも、彼らにとってもっと重要なところにあったのでしょう。」
「君は………女型の巨人を阻もうとはしなかったのか?調査兵団の兵士なのに関わらず……」
「そう言われてしまうと耳が痛いです。実力足らずでなにも出来なかったのが正直なところですね……。」
エルダの答えは、至極正直なようにエルヴィンには感じられた。
戸惑っているようだが動揺は感じられない。
…………それならば、と思い質問の仕方を変える。
「君は、巨人をなんだと考える……。何故、養分として消化するでもなく人間を食らうのだと思う。」
「………………。意味もなく他の生物を傷付ける動物はいませんからね……
なにか……栄養として摂取するでなく、別の理由があるのかと………。」
「理由。」
「はい。………理由です。」
エルダは答えを探すように少し瞼を伏せるが、やがて困ったように笑って、目を細めた。
「もし理由なく他者を傷付ける生物がいるとしたら、それは人間ですよね……。」
人間、だけですよね……。とエルダは繰り返す。念を押すように。
…………エルヴィンは深く溜め息をした。彼の唇から息が漏れる音だけが、静かな空気の中でよく聞こえる。
彼は、分かった。というように頷く。分かった、ともう一度確かめるように頷いた。そうして静かに立ち上がる。
――――――エルダにかかっていた嫌疑は、晴れた。
エルヴィンは彼女を賢い人間だと思った。
そうしてそれ故に多くの辛苦を味わうであろう少女に、同情した。
「君は、アニ・レオンハートと仲が良かったな………」
「ええ。今でも私は……仲の良いつもりです……。」
「なにかあったのか。」
「もう彼女は私に二度と会いたくないのだと、先ほど言付けられてしまいました。」
「………喧嘩でもしたのか。」
「さあ、どうなんでしょう………。」
エルダも、去ろうとするエルヴィンを見送る為に立ち上がる。
古い椅子が軋み、床がこすれる音が室内に響いた。
「最後にひとつ、聞かせて欲しい。」
エルヴィンは、新緑色の瞳を持つ少女を見下ろして囁くように言う。
応えるように、エルダもまた彼のアイスブルーの瞳を見上げた。
「君にはなにが見える………。敵は、なんだと思う。」
先ほどまで吹いていた風が、すっかり凪いだ。
「倒すべきは、なんだと思う。」
辺りは真実に静寂になる。二人の呼吸がよく聞こえるほどに。
そうして、少し経った。
エルダは小さく首を横に振り、「私には荷が重い質問です………」と苦しそうに言う。
しかし回答を放棄するわけではないらしい。そのままで、彼女は続けた。
「けれど私たちは人間ですから。選ぶ自由がありますよね。なにを倒し、なにを守るのか。」
エルダは弱く笑いながら言う。
………不思議だと、エルヴィンは思った。温かく見えたり、優しく見えたり、妖しく見えたり、初々しく見えたり。
不思議な笑い方をする少女だと思った。
「自分の意志で選択していくからこそ、私たちはひとりひとり、生きる意味も戦う意味も死んでいく意味も持てるのだと思います。」
彼女の言葉に耳を傾けながら、エルヴィンはただその笑顔を眺めた。
笑っているようで、泣いているようで、怒っているようで。けれどやはり笑っているのだろう。ぼんやりとそんなことを考えた。
「だから………そういう自由や…人ひとりの生きる意味を搾取して、利用しているもの………」
凪いでいた風がまた吹き始める。エルダの前髪が、それに合わせて揺らいだ。
「それは、私の敵ですね。」
……………彼女の応えを聞いて、エルヴィンも微かに口角を上げて笑った。満足していた。良い、兵士を手に入れたと感じ入っていた。
自然と少女へと歩み寄り、その双肩に掌を乗せる。先ほどよりも近い距離で二人は見つめ合った。
「エルダ。君は………辛い思いをするな。苦しむだろうな………。」
「そうかもしれませんね。」
「何故ここにいる?ここから逃れる選択の自由も、君にはあった筈だろう。」
「それでも……私はここにいます。ここに私がいる理由が、きっとある筈ですから………きっと……」
エルダは苦しそうな表情をしていたが、エルヴィンの心持ちは不思議と穏やかだった。
そうして……やはり、と胸の内で呟く。
…………我々に取って、良い役割を果たしてくれるだろう。この少女、エルダは。
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