光の道 | ナノ
ミケの誕生日 02 [ 155/167 ]

『痛むんじゃないの、足。』


それが、エルダが私にかけた最初の言葉だったと思う。

今でも、包帯を巻かれたときにそっと脚に触れた彼女の指先を思い出す。


『…壁が壊された時に父は死んでしまったのよ。』


父親への愛情と懐かしさを彼女はいつも素直に表現をした。それがとても羨ましかったのが、印象に残っている。


『それに父は死んでしまったけれど私に技術と知識を与えてくれたから…。
そのお陰でこうしてアニの足を治す事もできる。それだけで充分よ。
…とても感謝しているわ。』



彼女と自分は全然違った生き物だ。けれど、どこかがとても似ている。

好きなんだろう、と思った。いつからか、愛しているんだろう、という感覚に変わる。一緒になりたいと思った。

もっと優しくしてもらいたいと……ただ一人、一番に愛されたいんだと………。


(でも、どうしてそんなことが思えるのか。)


ぼんやりと、暮れ行く空を公舎の窓越しに見上げた。茜色の光が遠くから遠くから伸びてきて、明るい真昼の気配を追い払っていく。



(見られた)


そのことが、心には未だに重くのしかかる。


(この姿を、見られてしまった。)


…………且つては、彼女をさらってしまおうと、連れて行ってしまおうとまで考えていた。無理にでも。

けれど、実際はどうだろう。醜悪な姿を見られたというだけでこの有様だ。

一体全体、自分が……こうなのだと、これが自分なんだと告白するのにはどんなに勇気がいるのだろう。


(………父さん。)


私の父は、いる。会えないけれど、確かにいる。そうして、いつかはまた会える。

辛い使命を乗り越えたときこそ……必ず会って、自分を認めてくれる筈だ。


(でも……あんたの父親は、もうどこにもいないんだね。)


『アニは綺麗よ』


前回会いに来てくれたときのエルダの言葉が蘇る。


『嘘だね。』


そう応えた自分の声も。笑って抱き締めてもらえた感覚も。あのときに少しだけ泣いてしまったこと、その時の胸の辛さも。


『嘘なんてつかないわよ。貴方って人は本当に……自分の価値を知らないんだから。』


(ごめんね)


窓の外は今こそ赤く燃え上がり、毒を吐いたような深紅が空を染めていく。

痩せた木の枝の影が黒々と浮かび上がり、この世の終わりに似た風景が眼前に広がっていた。


『欲を言えばアニは笑った方が綺麗なんだけれどね。……女の子は笑顔でいるときが一番かわいいのよ。』

私のお父さんの言葉だけれどね、とエルダは付け加えた。


(ごめんね)


ともう一度胸の内で謝った。届かない謝罪。これに一体なんの意味が。


『だから……あんたはいつも笑ってるの』

『そういう訳では無いわ。私が笑うのは幸せだからよ』

『いつだって笑ってる。………壁外でも、笑ってたね。』



そう、あの子……笑っていたんだ。空を飛ぶ白い鳥を見上げながら、そっとそれに手を振ったのを、私は見ていた。

……彼女が壁外に行ったのは、父親の為なんだ。鳥になって壁の外にいると言い残した、夢見がちな父親の最後の言葉の為………。


(私は………、あの子の一番大切なものを取っちゃったんだ……)


仕方が無かった。仕様が無かった。きっと分かってくれる。

そうやって自分を慰めるが、心の昏さは一向に晴れない。窓の外の景色のように、どんどんと闇に浸されていく。


(会えない、会えるわけが……)


そう思うからこそ、会いたい気持ちが降り積もる。

好きなんだろう、とやっぱり思った。いつからか、愛しているんだろう、という感覚に変わって。一緒になりたいと思った。

もっと優しくしてもらいたいと……ただ一人、一番に愛されたいんだと………。







「ううん……やっぱり近場にはミケの影も形も無いね……。」

あんなデカい癖にどこに隠れたんだろ?と言いながらナナバは路地裏の極々細い建物と建物の隙間を覗いた後、エルダに向かって肩を竦めてみせる。

「あらナナバさん、流石にそんな細いところにはミケさんの身体は収まらないと思いますよ?」

「ううん………。」

「そういうところに入れるのは隙間女くらいでしょうから、次行きますよ、次。」

「隙間女ってなに?」


ナナバは未だ名残惜しそうに路地裏を覗いていたが、ようやく諦めたのかエルダの隣に並ぶ。


「あら知らないんですか。これは私の友人の友人が体験した話なんですが……」


エルダはナナバの少し早い歩調に合わせて歩みながら、些かおかしそうにする。

ナナバは不思議そうにそんな部下のことを見下ろしていた………。




「聞かなきゃ良かったー!」


暫時した後、ナナバの悲鳴に似た声が寒空に響き渡る。

エルダはと言うと、「あら、まあ……」と、なんとも楽しそうな表情をしていた。


「どうしよう今日部屋に帰って一人になりたくない……… 。」

いつもの見目麗しい姿はどこへやら、ナナバは青くなりながらぶつぶつと口の中で呟く。


「うふふ、ちなみにこの話を聞いた人のところには、三日以内に隙間女がやってくるという……」

そしてエルダが更に追い打ちをかけた。こういう時の彼女は且つてないほどに活き活きとして見える。


「ええええ!?なんで!??よくも私に聞かせたね!恨むよ!!」

「安心してください。私のところには隙間女なんて来てませんし、訓練兵時代に同期の子にもよくこの話をしましたが誰も見てませんよ。」


ようやく可哀想に思ったのか、エルダはナナバを宥めるようにしながら言葉をかける。

しかし未だナナバは恨めしそうな瞳を彼女へと向けていた。


「……………。そんなに怖かったら、今日は一緒に寝ましょうか?」

だから許して下さいね、とエルダは困ったように笑いながら言う。


ナナバは数回瞬きをした。ぱちぱち、と音がしそうな程の長い睫毛だなあ、とエルダはぼんやりと考える。


「本当?」

未だ疑わしげにナナバは尋ねる。「ええ勿論。」とエルダはにっこりと笑って応えた。


「絶対来てよ。隙間女がいたら倒してよね。」

「ええ勿論。ナナバさんの為に隙間女なんてイチコロです。」


エルダは実に頼り無さげな腕でガッツポーズを作ってみせる。

その様が随分と微笑ましくて、ナナバは思わず声を上げて笑ってしまった。







その日の職務から解放されたアニは、目的も無く街を歩いていた。

…………やることが無くなってしまえば、憲兵団の公舎には彼女の居場所は無かった。同期、先輩とも馴染めそうにはなく。

こういうときばかりは、同郷の二人や訓練兵の頃の仲間などが……懐かしくなったりもする………。


ふと。アニは足を止めた。

聞き覚えがあり、聞き慣れた声がする。楽しそうな声。それに応えて、彼女より低くて落ち着いた声が続く。


(え………)


その方を見ながら、アニの身体は石のように硬直していた。

聞いた声は、間違えなくエルダのものだった。

視線の先には懐かしい貌が夕焼けの中で浮かび上がっている。


けれどその隣には、

(誰)

まったく知らない人物が寄り添って歩みを共にしていた。



「エルダ、寒いの?」

「そうですね……随分寒くなりましたよ、ほんと最近は……」

「じゃあもうちょっとこっちおいで。きっとくっ付いてた方が、あったかいからね。」

「あら……それは素敵な提案ですね。」


くつくつと二人はおかしそうな笑みを零しながら歩いていく。

…………歩む距離を詰めた二人はとても仲が良さそうだった。


やがてエルダとそれに連れ立った背の高い人物はアニから離れて、夜に暮れていく街へと歩き出した。

彼女たちの声は次第に遠のき、聞こえなくなっていく。

けれども二人の楽しげな笑い声だけはいつまでも、アニの耳の裏に響いて聞こえ続けるような、そんな感覚が……


(一体私は、なにをそんなにショックを受けてるんだ。)


ぼんやりとしてしまいながら、アニは自らに尋ねた。


(……私も、彼女が知らない新しい知り合いを作っている。
あの子にだって…新しい環境の中、私の知らない上司や友人が出来ていくんだ。)


当たり前のこと。けれどそれがひどく辛く感じる。

隣の人物は誰だったのだろう。エルダの話し方から、同期ではなく上の役職の者だろう。


(それにしても、仲が…良さそうだった。)


楽しそうに、笑っていた。

思えば、自分はエルダをああいう風に笑わせてあげたことがあっただろうか。

寒いかどうかなんて…辛い思いをしているかどうか、気遣ってあげたことがあっただろうか。


(いつも……自分の気持ちばかりを、押し付けていたような。)


その癖、彼女からの折角の好意から逃げてばかりで。

上手に愛してあげれないことがもどかしかった。


(こんな人間が、愛されようだなんて…それこそ過ぎた考えだったのかもしれない。)


足下に転がる小石は赤い夕焼けに照らされて、長い影を伸ばしている。

爪先でつつけば、それは力ない音を立てながら転がっていく。


(愛されないと…分かり切っているのなら、いっそのこと……)


彼女に今以上干渉せず、一人でここから去ったほうが良いのではないか。

………そうだ、それが良い。…なにを心配することがあるのだろうか……自分には、仲間だっているし……決して一人になるわけではない……


転がした小石が石畳を横切って、用水路に落ちる。

ぽちゃん…と微かな水音がした。水鳥が少々驚いたように羽を広げ、空へと飛び去った。


(………やだ。)


アニは、用水路と道を隔てる石造りの柵に両掌をつく。

縁を強く握って、もう一度(いやだ)と胸の内で言った。

その声は自身の身体の中で反響して、更に大きな音になるようだった。


(私が……エルダに優しくされたい。私が、一番に……)


乾いた石の柵に、ごくごく小さな濡れ色の跡ができた。

アニはそのまま額を冷たい柵にこすらせた。固い感触が彼女の白い皮膚をなぞる。


………彼女自身、どうすれば良いのかもう分からなかった。

けれどこうして泣いている今、求めているのは大好きな人からの慰めだけだった。


(でも、もう…これも終わりにしなくちゃ……)


終わりにしないと。

使命を果たす時は近付いている。


ゆっくりと、アニは半身を起こして深呼吸をした。

夜へと向かう空気が彼女の綺麗な金色の髪を揺らす。ほつれたそれらは、はらはらと揺れていた。はらはらと……


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