マルコの誕生日 04 [ 153/167 ]
あれから数日経っても、トロスト区の街は血液と死の匂いが漂い続けていた。
白い光が照り返し、血がこびり付いた民家の屋根を浮かび上がらせている。ジャンはその下を靴音を鳴らしながら通り過ぎた。
………もう、感覚が麻痺して何も感じなくなっていた。色々なことに対して。
(…………ん)
視界の端に、何かが動く気配が。随分と朝早い時間だった為路に人気は無い。
何かと思ってその方を見ると、不格好な何かが汚水に塗れた…下水管が壊れてしまったのだろう…石畳の上をよたよたと歩んでいた。
「…………あらジャン、おはようね。」
彼女の方もジャンに気が付いたらしい。いつものように微笑って、朝の挨拶をする。
「お…おう。」
それに応えては、比較的細身な彼女が背負った重たそうなものをじっと眺める。
…………指先が少し動いている。まだ、生きているのか。
エルダは背負った男が微妙に呻いたので「大丈夫かしら、辛いのかしら」と背負い直しながら尋ねる。
「お水、いるかしら」
首を回して呼びかける彼女の声には誰も応えなかった。……もう傷付いた男…同期の、訓練兵であった…にはその体力は無いらしい。
「………死なせてくれ……」
微かに、それだけ漏らす。
エルダはそっと目を伏せて、大丈夫、もう少しよ、あとちょっとで……と呟いた。
「………火葬場にいくのか」
ジャンが尋ねる。彼女はこくりと首を縦に振った。
「こんな早い時間からか…」
「今は火葬場に休みは無いわよ。夜通し……人が、燃えているわ。」
そう呟いた彼女の視線を辿ると、黒い煙がみっつ、街の小高くなった丘から昇っていた。
「いや、そういうことじゃねえよ。」
「街の至るところに死体があるんだものねえ……。」
「お前、休んでないのか」
ジャンの質問には答えず、エルダはその場から歩き出した。
しかし、疲労も入り交じってかどうにも身体に力が入らないらしい。
よろめくその足取りを危なっかしく思ったジャンは、「貸せ」と無愛想に呟いては傷付いた兵士を彼女に代わって背負ってやった。
…………二人、無言で早朝の街を歩く。樹が倒され、家屋が倒壊し、血みどろに蹂躙されつくしたこの街を……
「マルコの……日記が、出て来たよ。」
何とはなしに、ジャンが呟いた。
エルダは彼の方をちら、と見ては…そう。と相槌する。かと思うと、ふっと狭い路地に入ってしまった。
「おい…?」ジャンは訝しげにその背中を視線で追う。………その先には、民間人の女性の死体があった。
死人と死にかけを背負って、エルダとジャンはまた石畳の上を歩く。
早朝の涼しい風が二人の髪を揺らしていった。
「………お前、死体見つけるのうまいな」
我ながらもっと気の利いたことは言えないのか、とジャンは発言後呆れた気持ちになった。
エルダはうふふ、と愛想良く笑う。
「それはもうねえ……経験値の違いかしら。」
丘の上の火葬場へと行くのに、二人は坂や階段を多く昇らなくてはならなかった。
ジャンは少し息を切らしながら、「経験値?」と鸚鵡返しに聞く。
「私……時々、13番街で死体を運んだの。
あそこで働く女性は、病気になるとお店から追い出されちゃうのね……。それで、そのまま路地の片隅で息を引き取る人がほとんどだったから。」
乞食をしていた時の収入源のひとつね。
エルダはなんとはなしに言うが、ジャンは小さく息を呑む。
………死体運び。地下街のゴロツキ以上に、この国では軽蔑される仕事だった。
「だから……死に向かう人がどういう場所を求めるのか、なんとなく分かるのよ。」
急な石段の連続に、エルダも少々疲れたらしく…革袋に口をつけて水分を摂った。
そうして、ジャンの表情が強張っていることに気が付いて苦笑する。
「………嫌なこと聞かせちゃって、ごめんなさいね。」
「いや…… 。まあ、そうでもしなきゃ生きれなかったんだろう…な。」
エルダはジャンの気遣いにありがとう、と礼を述べる。
それを聞きながら、彼は黙って石の道を一歩ずつ踏みしめて歩いた。
ようやく辿り着いた火葬場は……早朝という時間帯もあってか、閑散としていた。
二人は背負っていた人物をその場を仕切る役人に渡す。ジャンが担いでいた男は、もうとっくに事切れていた。
ぶすぶすと黒い煙を上げる炎の中、新しい死体が燃やされていく。
悪臭が凄まじかった。しかし、エルダもジャンも、その様をただぼんやりと眺めていた。
「マルコが………お前に、謝りたがっていたよ。」
ジャンは小さく零した。エルダは不思議そうに彼の方を見る。
「日記を…オレ、読んだ。……あいつは苦しんでいた。」
まあ、お前とマルコの間に何があったのかは知らねえけど。それだけ言って、ジャンは口を噤んだ。
エルダはそっと肩をすくめて、「……もうちょっと早ければね…」と悲しそうにする。
二人の言葉の間、ぱちりぱちりと薪と肉が燃え落ちる音がする。
しかしそれ以外は静寂。恐ろしく静かで美しい空に覆われた朝だった。
「………お前が乞食っていうのは…ちょっと意外な話だよ」
「そうかしらね……。」
「苦労したんだな、お前も」
「そんなことは………」
「オレはまだ、本当の貧困とか飢えを知らねえから……なんて声かけたら良いのか、分かんねえけどさ。」
朝日に焼かれた白い灰が二人の方へと風に舞ってくる。エルダの視線はそれを追いかけてから…ジャンの方へゆっくりと向いた。
「そうねえ……お金が無いから辛いっていうわけじゃないのよ。」
彼女はジャンの制服に降り掛かっていた灰を軽く払ってやりながら、寂しそうに眉を下げた。
「………本当に辛いのは、誰からも大切にしてもらえない…嫌われて、軽蔑されて、いつだってみじめなことね……。」
ジャンは頷く。透明な太陽の光が端正なその顔に深い影を作っていた。
そうして、苦労したんだな…ともう一度、心から言ってやる。
優しいのね、とエルダは安らかな表情になった。そんなことねえよ…とジャンは照れ臭さから否定した。
そうして不思議に思う。かつてはまったく接点の無かった女と、お互いの何かを分かち合えていることを。
「でもね…」
少しして、エルダが口を開く。ジャンは黙ってその言葉に耳を傾けた。
「その苦労のお陰で、今の貴方を慰めることができるわ。悲しいのはジャン一人だけじゃないのよ…って。」
彼女は自然な動作でジャンの背中に腕を回して、撫でる。母親の仕草に似ていると彼は思った。
「苦しいことって無意味じゃないのよ。ほら、現に今、貴方私に対してちょっとだけ心を開いてくれてるでしょ?」
あんなに苦手そうにしてたのにねえ、とエルダはおかしそうにする。
…………どうやら、その件はバレてしまっていたらしい。
ジャンは「悪かった」と謝る。
「いやよ、ジャンが素直だとなんだかおかしいわ」とエルダはころころと笑った。
「………感極まっちゃったのね。」
彼女の薄緑の瞳を、ジャンはその時に初めて真っ直ぐに捕えた。
純粋で、子供みたいな眼の色をした女だ。
ただただ流す涙を拭いもせず、ジャンは呆然としながらそんな印象を抱く。
エルダはゆっくりとその眼を細めて、ジャンの顔を見つめ返した。
「あなた、頑張ったもの。えらいわ。」
そうして小さな子供を褒めるように優しく微笑んでは、言った。
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