アニと媚薬 03 [ 135/167 ]
長い長い静寂の後、アニはエルダの方へゆっくりと歩き出した。
もう彼女は涙を流していない。けれどやはりその瞳は熱く滲んでいた。
夕刻図書室でしたように、触れてみようとそろりと手を伸ばす。エルダの震えていた肩が一際大きくびくりと揺れた。
「………………。」
その反応からやはり…拒否されてしまっているのだと分かってしまった。
アニは寸での所で伸ばした指先を止め、近付けたときと同じ位ゆっくりと元の位置に戻す。
「………私のことを、嫌いになった…?」
瞳は交えず、白い息と共に言葉を吐き出してみた。
周りの空気と同じ様に胸の内が凍り付いていくのが分かる。
そうして、エルダと同じく自分の身体が小刻みに震えていることに気が付く。やはりこれも寒さからくるものだけではないのだろう。
…………エルダは何も答えない。
青白い月光に照らされているうちに、アニはもっとひどく立っていられないくらいに震えてきてしまった。
エルダはやはり黙っている。だから分からない。
いつだって彼女は大事なことは言ってくれない、本当のことを言ってくれていないような気がする。
だからアニはとても不安なのだ。言葉では互いを確かに愛していると伝え合っているのに、真実のところで繋がれていない気がして。
「……………………。」
アニはエルダに背を向ける。やはり傷付くのが怖かった。だから何も出来ない。
………なんだ、元に戻るだけじゃないか。
自分に想い合う相手が出来ること自体が過ぎたものだったのだ。
何も言わずにここで別れよう。
………それが正解で、そうするべきなんだと…自分の本来の使命を、思い出すべきなんだと……
その時にふと、外套の袖を引かれる。
弱い力だった。
赤くなってしまった指先でアニの濃い涅色の袖口を掴んだ人物の方を見上げれば、やはり馴染みの深い薄緑色が。
彼女は眉根を寄せて苦しそうにけれど懸命に何か言葉を探している風だった。
………エルダのあまりの薄着が見ていて痛々しくなったアニは、外套と一緒に身に付けて来たマフラーを外しそっと彼女の首に巻いてやる。
ほう、という溜め息がなされた。それは外気に晒されて白く染まった後、冬の夜風に運ばれて見えなくなっていく。
「違うの……アニのことは大好きよ。私は貴方に嘘は絶対に吐かないわ。」
本当よ、と呟いたエルダの指先が袖口からアニの白い掌へと移動して触り、握った。
まるで氷のようである。いつからここにいるのだろう。
………ふと、その腕の中に見覚えのある本が収まっているのに気が付く。
まさか。
あれからずっと。なんて馬鹿なことを。
思わず強く掌を握り返す。
そして自分の体温が少しでも冷えきってしまった彼女へと移っていくように、もう片方の手もそこに沿えてやった。
「でも………。私はよく自分が分からないの。駄目ね、貴方のことがとても好きでいつだって大切にしたいと願うのに…」
エルダはゆったり視線を逸らせて遠くに聳える真っ黒な森、そして空を眺めた。
冬の夜はそこまで漲っているようである。澄んだ空気の中で月と共に星々が火の粉のように強く光っていた。
「でもここ最近…一昨日の朝からなのかしら…貴方にひどい事ばかりしたいと思うようになっちゃって……」
手にしていた分厚い本を、エルダは地面に置く。
刺す様に冷たい風が吹いた。遠くの麓へと続くこの平原を畝りのように跡から跡から吹き払っていく。
空いた掌で彼女はアニの頬を撫でた。その視線はやはり熱い。
冷たく赤くなってしまっている指先で触れられながら、アニは彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
(ひどい事……?)
僅かに首を傾げてみせれば、エルダは遂に身体の力を抜いてしまいながら…ほとんど寄りかかる様に抱き締めてくる。
アニは一瞬よろめいてから立ち直す。その間にも抱かれる力は増した。
…………一体何が起こっているのだろう。
拒否の姿勢から一転した縋るようなエルダの様子に、アニは若干の混乱を覚えていた。
「私たち、まだ結婚もしていないのよ……。」
そして本当に小さく耳元で呟かれた言葉に、何となくではあるが……ここ数日の気まずさだとか今のエルダの態度だとか…大体の事を理解してしまった。
(ああ………。)
そして呆れ果ててしまう。
……………遅効性だったのか。しかも持続力の長い。なんて性質の悪い薬であろう。
アニは密やかに…それをエルダに飲ませたサシャを、そして何よりもよりによって物事を深く考えられない彼女にホイホイと渡した調査兵団の人物を恨んだ。
どうしよう、私って駄目な人間だわ。と未だ自身に対して耐え難い罪悪感を覚えて苦しむエルダのことを、アニはそっと抱き返した。
その身体はとてつもなく冷えきっている。でも、いつもと変わらずに柔らかだった。
やはり……彼女とこうやって肌を触れ合わせるのは嫌いではないと改めて感じ入る。
そしてエルダが考えたその『ひどい事』がどういうものなのか、ちょっと、聞いてみたいとも思ってしまった。
「………大丈夫。」
安心させる為に背中を擦り、それから頭を撫でてやった。いつも自分がしてもらうように出来るだけ優しく、丁寧に。
「大丈夫。それはきっとひどいことなんかじゃない……」
何故ならそれは私がいつも望んでいることでもあるから。
エルダはただ、初めての感情だったのだろう、それを恥じるようにしてアニを抱き締めたまま三度ごめんなさいと謝って来る。
ふとアニの中に……このまま、もし彼女が望むのならばそれを適えてやっても良いのではないかという考えが頭をもたげる。
(いや………)
しかし思い直す。
これはきっと一時的な……それこそ薬の作用による見せかけで、幻だ。
エルダが本当に望むようになってからではないと行為にはまるで意味が無い。
「落ち着いて。あんたらしくもない。」
だから一度身体を離し、ひたりと目と目を合わせながらまるで自分は至極冷静でいるような声色で言う。
この数日間ずっと悩んで混乱していたことは少しも表には出さないで。
「…………ゆっくりで、良いんじゃないの。」
視線は交えたまま掌をまた繋ぎ、己にも言い聞かせる様に静かに呟いた。
やがてエルダの瞳に宿っていた滲んだ熱はゆっくりと引いていく。彼女は一度瞼を下ろした後に頷き、また目を開いて微笑した。
「そうね……。その通りだわ。」
いやね、私ったら取り乱して恥ずかしいわ。とエルダはもういつもの調子に戻ったらしく、穏やかな声で応える。
その一連の反応を見てアニは…この人物はきっと私でなければ駄目なのだと思った。とても真面目に思ったのだ。
そしてそれを確信すると、一層身体が震えてならない。思わず彼女の掌を更にきつく握ってしまう。
「でも、私は時々とてもすごく…激しくしたくなるときがある。」
さっきまでのあんたと同じ様にね、とその時にようやく正直に打ち明ける事が出来た。
エルダは優しく笑った。
……何を恐れていたのだろう。急に安堵する。
彼女はいつだって、どんなことがあっても自分を受け入れてくれて来たじゃないか。そしてきっとこれからもそれは違わない筈だ。
目線を合わす為に爪先で背伸びをしようとすると、緩く首を振られる。
エルダの方からゆっくり屈んで顔を同じ高さにまで持って来てくれた。
これが本当なのだろう。今なら彼女の気持ちを少し理解することができた。
眼鏡越しにゆるりと自分を見る眼には、少しの孤独が伺えた。
これを知っているからこそ、アニはエルダのことを愛していた。とても深くに。それは彼女も同じ筈だ。
アニはやはり細かい震えが止まらなかった。
エルダは今までアニが悩んで苦しんでけれど出来ずにいたことを簡単にやってのける。実に単純な事だというばかりに。
それが悔しくて、でもこれ以上はいけない、ゆっくり近付いていくとさっき言ったじゃないかと…アニは何だかまた混乱に陥りながら…
遂々緩んでしまっていた握り合った掌の力を強くして、どうにか自制の姿勢を貫こうとした。
*
すっかり灯りが落とされた部屋に二人で戻って、どちらともなく同じベッドに入って眠った。
きっとエルダにはもうそんな気持ちは無いのだろうけれど…アニは何だか奇妙に胸がざわついて仕方が無い。
そしてまた不安になる。少しの望みは適ったのに、もっと欲しくて我慢がならなくなってしまう。
………もう眠っているらしいエルダが温もりを求めて手を握ってくる。
それだけで心臓の鼓動はうるさく、辺りの空気の冷たさも気にならない位にアニの身体の芯はじんとして熱くなった。
「……好きよ……」
寝言なのか、それとも起きていたのか。呟かれたエルダの声は毛布の中に留まるばかりでまるで無力である。
けれどアニの中にはよく響いた。ちょうどエルダが顔を埋める自身の胸の、肋骨の辺りから背骨にかけてが音に振動して震えていくような。
アニは、エルダの身体をぎゅっとして抱き締めた。
そしてこの小さく幽かな声を一生忘れずに、今震えた骨にしまって生きていこうと思った。
未だにエルダのことは分からないことばかりで、やはりこれからも色々な不安に苛まれるのだろう。
けれども、彼女は自分を裏切らない。好きでいる。愛してくれている。
それだけ理解できればもう良い。きっと充分過ぎる。
斎田様のリクエストより
アニと付き合ってる設定。サシャにより媚薬を飲まされる。薬のせいだから手は出したくないアニで書かせて頂きました。
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