アニと媚薬 02 [ 134/167 ]
気の所為では無い。
アニがこれに気が付くのにそう時間はかからなかった。
エルダの様子が奇妙だった朝から一日そして二日経つ頃には、完全に彼女に避けられてしまっていることが嫌でも分かるようになる。
……以前ならむしろエルダに探されて、厭う振りも構わずに構ってきてくれたのに…それがぴたりと止んだ。
それどころかその姿すら見かけることが少なくなる。
訓練中すらもアニの死角となる場所を選んでエルダは行動していた。これは憶測では無く確信である。
「……………………。」
流石のアニも業が煮えてくる。
別に喧嘩はしていないし気まずくなるようなことも何も無かった筈だ。では何故。何故なのか。
こういう時に、自身の対人関連における不器用さが嫌になる。何も察してやることができないのだ。
(ならば……)
受け身でいては何も始まらないことを彼女は充分に知っていた。
………これの所為で傷付くことがあっても、後悔するよりはずっと良いだろう……。
*
「…………ねえ。」
その日の訓練が終わり、皆思い思いのことをして過ごす夕刻時。
アニは平素よりあまり一人では来ない場所に立っていた。
最近はぶらぶらと訪れることも多くなっていたが、それは全て今目の前にある人物がここを好んでいるからであって…
図書室に用があるとか本が読みたいとか…そういう感情は露程もアニは持っていなかった。
いつだって興味の中心はエルダその人、それだけだった。
……………活字に集中していたらしい。
エルダは声をかけられてやっとアニの存在に気が付いた。そして少しびっくりとした素振りを見せる。
ぎこちない沈黙。
二人に普段それほど会話がある訳でもないのだが、痛々しいその空気はアニを悲しくさせた。
「久しぶりだね。」
思った以上に口から出た言葉は刺々しかった。
勿論、エルダに避けられたことに少し腹を立てていたことは事実だ。
それがそのまま声色となってしまったらしい。たった数日にも満たないことなのに。
「そうかしら……。」
エルダにも罪悪の意識がやはりあったのだろうか、絡まった視線はするりと解けて彼女は目を伏せてしまう。
「そうだよ。」
ちくちくとしたものを態度に孕んだままでアニは応えた。また、沈黙。
段々とアニは我慢がならなくなってくる。腹立たしい。………再び悔しくなった。
「………私が何かしたの」
エルダは無言だ。
遂にアニは一歩大きく踏み出して彼女との距離を無くし、強引に腕を掴んで立たせた。
ガタリと大きく耳障りに古い木の椅子が倒れ、エルダが息を呑む声が聞こえる。
…………しまった、乱暴にするつもりは無かったのに。でももう遅かった。
どれだけの沈黙が流れただろうか。
エルダは目を伏せたまま、本当に小さな声でけれど確かに「離してちょうだい…」と呟いた。
明確な拒否の言葉である。
それに抗えず、アニはゆっくりと指の力を弱めた。
……………エルダは机の上でおかしな方を向いてしまった本を閉じ、腕に抱く。
それからアニとは最後まで視線を合わせようとはせず、しかし「ごめんなさい」とやはり小さく呟いた。
エルダはアニから逃げる様に分厚く難解そうな本を持って場から遠ざかって行く。
追うことの出来ないアニの耳に消えていく足音、そして図書室の扉が静かに閉められる音が届いた。
(一体…なにが…………)
今度は考えすぎなかった。
色々なことがショックで、最早思考するだけの余力は残っていなかった。
塗装が剥げた木桟に嵌った冷たい窓はそろそろと夜の青色に染まりつつある。
アニはただそれをぼんやりと眺めていた。
*
その日の夜、消灯時刻が迫り皆がベッドに潜る頃になってもエルダは部屋に戻ることは無かった。
…………相部屋の少女たちは皆一様に心配そうに空のベッドを気にしていた。
「エルダ、どうしたんでしょうねえ。」
サシャが不安げに呟いて、ベッドに腰掛けたまま足をゆらゆらと揺らす。
「別に一日くらい戻らなくたってどうってことないだろ。ホラあれだ、あいつだって年頃なんだし男遊びのひとつやふたつは「エルダはそんな不潔なことしないよ!」
別の方ではユミルとクリスタがいつもの様に言い争ってはじゃれていた。
アニは…微かに、けれど深い溜め息を吐く。
(私の所為……?)
その可能性は充分にあった。
けれど何故こうなったのかはどう考えてもよく分からない。
………何も、嫌がることはしていない。彼女が私を大事にしてくれたように自分もまたいつだって…
思わず下唇を噛んでしまう。
それから今一度空っぽのエルダのベッドを見た。皺ひとつ無く、清潔に整っている。
(………………。)
アニは無言のまま立ち上がった。そして外套を片手に持ち、そろりと音も無く部屋を後にする。
廊下の空気は冷たく、建物内にも関わらずに息が白かった。
窓の外は凍てついている。木々の梢が銀色の葉でも連ねたように霜で包まれた景色が美しかった。
*
アニは着込んだ外套の上から自身の腕を抱いて一度身震いをする。
この寒さは応える。もう一枚着てくるべきであった。
………目指す人物がどこにいるかはまるきり見当がつかなかった。
けれども、探して歩かずにはいられなくて足が赴くままにさせてみる。
歩けば歩く程に焦燥した。その理由が分かるようでけれどどうしても分からずに余計に苛立ったりもする。
そして遂に見つけた。
普段対人格闘等の訓練がなされるだだっ広い、草も生えない平地で青ずんだ月光に照らされた見慣れた後ろ姿を。
しばらく、眺める。声をかけて良いかを戸惑ってしまった。
けれどこのまま帰るのはあまりにも馬鹿らしいことのように思えて、アニは彼女の名前を木立の影から呼んだ。
ゆっくりと、エルダがこちらを向く。
いつもは結われている薄い色の長い髪が下ろされていた。それが揺れて、月明かりを反射して繊細に光った。
冷える夜にも関わらず薄着の所為だろう、その身体は少し震えている。
いや…その身震いは寒さの所為だけではないのかもしれない。いつも穏健に構えている彼女の姿が変にか弱く見える。
そして薄緑の瞳は周囲の空気とは対照的に熱く潤んでいた。
アニの姿を認めた途端、こらえていたものが耐えきれなくなったのかぽたりとひとつ落ちる。
(…………………!?)
その姿にアニは驚いて目を見開いてしまった。
だって…ただごとではない。エルダは怒ったり悲しんだりといった負の感情を普段表立たせることは決して無い。
増して泣くことなんて尚更である。
ぎょっとして二の句も告げずにそこでじっとしていると、エルダが本当にささやかな声で「ごめんなさい…」と零した。
その悲痛な響きを持った言葉に、アニは胸が鷲掴まれた気持ちになる。
ぎっと、先程よりもより強い力で下唇を噛んだ。
やはりどうしたら良いのかが分からないのだ。
慰めれば、優しい言葉をかければ良いのか、頭を撫でてやるのか、それとも叱咤激励するのか、
どれも出来ないのは自分が臆病だからだろう。
何が後悔するよりはずっと良い、だ。
その行為が正解では無かった時に傷付いてしまうのが分かっているからどうしても怖い。尻込みしてしまうのだ。
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