光の道 | ナノ
ベルトルトの心配 01 [ 140/167 ]

「うえええ」


サシャがエルダの身体にしがみついて奇妙なうめき声…否泣き声らしい…をあげていた。


「芋女、いつまでクソにひっついてんだ。とっとと行くぞ」

「クソって……せめて女を付けてあげようよユミル。」

「女をつけたところで救いようがない単語だと思うわあ、クソって。」


空いているほうの手でサシャの頭をよしよしとエルダは撫でてやった。

それから「そろそろ行かないと遅刻しちゃわ、いってらっしゃい」と優しく促す。


「なんでエルダは来れないんですか…私寂しくて死んじゃいます」

「そんなこと言わないで。サシャが死んだら私とっても悲しいわ」


そう言うエルダの右腕は白い布で肩から吊られていた。

……訓練中の事故により脱臼をしたのである。

大事には至らなかったが、これから数日間に渡る雪山訓練への参加は念のため見送られることとなった。


そうして今、別れを惜しんでは一悶着しているのである。


「おい良い加減にしろ、置いてくぞ」

「ね、エルダ。私にもぎゅーってして」

「はいはいクリスタ。気をつけていってらっしゃいね」


痺れを切らしたユミルがサシャの襟首を掴んでエルダから引き剥がす。

エルダはクリスタを片腕で抱いたあとに笑顔のままでユミルの方にも腕を広げるが、それはすげなく無視された。



…………雪山へと向かう同期の兵士たちをエルダは見えなくなるまで目送する。

サシャやクリスタもまた彼女の姿が認識できなくなるまで繰り返し振り向いては手を振ってくれた。



(………………。)


誰もいなくなると、辺りは想像以上にしんとした。

それを見計らったようにぽつりぽつりと雨が振ってくる。


「あらら……」


エルダは急いで屋内へと引き返した。

怪我をしている上に風邪までひいてしまったら救いようが無い。


そして…これから数日間、エルダは訓練場にて与えられた課題をこなしつつ一人で過ごすこととなった。







…………………。


雨は霧となるようだった。静かな天気である。図書室の窓の外の景色は煙って、白い空間に閉じ込められた気分になる。


(静かねえ……)


元より実技より座学のほうが得意なエルダは…与えられた課題を多少量はあっても苦とは思わなかった。

それよりも気になるのは、びっくりするくらいの辺りのしめやかさである。

彼女は一人の時間を愛していた。喧噪の中で訪れる静寂を安らぎと思う。だがしかし……


(今頃みんなどうしてるかしらね……)


左手で文字を書くのはどうにも不慣れで覚束ない。

雨音に誘われて少しの眠気も感じるようになってきた。


(誰も大きな怪我をしないで……無事に帰って来てくれると良いんだけど)


少し、寝ようかな。

眼鏡を外して木の机の上に頭を預けた。瞳を閉じるとしっとりとした雨音がより存在感を放つ。

夢幻に連続していく音が心地良くもあり、少し不安にも思えた。


(雨………)


雨、雨。

ずっと降っている。石畳に水たまり。その中に映り込む夕焼け。

水たまりが赤く染まっていく。







(……………………。)


目を覚ますと、未だに雨は降り続いていた。

しかし辺りは少し薄暗くなっている。……曇っている所為でよく分からなかったが、夕刻に差し掛かっているのだろう。


(あれ………)


エルダは不思議に感じた。

何故か、肩に毛布がかけてある。……こんなものはさっきまで無かったのに…


ぼんやりとしながら辺りを見回す。

………先程と変わらず、誰もいないし…いる筈は無い。皆、今は雪山で過酷な訓練に耐えているのだから…



「……………あ、起きてる」


しかし、ぼそりとした呟きが背後から漏らされた。

これには流石のエルダも驚いて小さく声をあげる。


「ご、ごめん。驚かせちゃって」


振り返ると、所在無さげな深い色の瞳と目が合う。

…………エルダは…色々と質問したいことが多過ぎたが、何から言ったものか分からずに…

ひとまず「お、おはよう」と挨拶をしてしまった。


「…………おはよう。夕方だけど。」


ベルトルトもそれに返事をする。

お互いをじっと眺めたまま少しの時が経過したが、やがてエルダは自分の隣の椅子を薦めた。


「私一人だけだと思ってたのだけれど?」

腰を落ち着かせたベルトルトは、彼女の質問に「………あ、一人のほうが良かったかな」と申し訳無さそうに応えた。


「そんなことないのよ、むしろ静か過ぎてちょっと物足りなかったの」

だから貴方の姿が見えて嬉しいわ、とエルダは安心した表情をする。


………理由はそれ以上追求されることは無かった。


ベルトルトが「……不自由ないかな、何か手伝えることは…」とエルダの右腕を心配そうに眺めて言う。


「大丈夫よ。人間片腕でもそこそこ生活できるものだわ」

「そう……?分かった。」


しかし彼の顔色はあまり分かったようなふうでは無かった。

まるで自分のことのようにもの悲しげに、吊られた腕を眺められるのでエルダはおかしくてなってしまう。


「じゃあ、悪いんだけど……教本をここで抑えててもらえるかしら。
文字を書くとき、すぐにそこが見えると助かるから……」


エルダの頼みをベルトルトは快く引き受けた。

自身よりも随分大きな掌が教本に添えられる。

………骨張っていて男の人の手だな…とエルダは何とはなしに感心した。



「ありがとう、もう大丈夫よ」


しばらくして礼を述べると、彼はやや名残惜しそうに手を離した。

それに従ってぱたんと分厚い書籍は閉じていく。


「………僕も、課題が残ってるから…傍でしても良い?」

「勿論よ。一緒にやりましょう」


エルダは慎重に左手で文字を書きながら答えた。

頷いてベルトルトは立ち上がる。……勉学の為の道具を持ってくるのだろう。







元よりあまり喋る二人では無い。課題をこなす間、室内は静けさに満ちていた。

その間を縫って雨音だけが繰り返し絶え間なく響く。



「あの………」


やがてベルトルトが遠慮がちに声をかけた。


「なに?」


端的にエルダは返事をする。


「腕のこと……その、怒ってない?」

「まさか怒らないわよ。自分の不注意を残念に思うくらいだわ」


エルダは顔を上げてベルトルトのほうを見た。

しかし彼は視線を逸らしてしまう。それから「いや…でも。ほとんど僕の所為だ」と囁いた。


「それは気負いすぎよ。全部私自身の責任なんだから……貴方がしょんぼりする必要は全然無いのよ」


項垂れる彼の頭髪にエルダは左手をそっと伸ばした。

………短く、固い毛質をしている。少女たちとはやはり違うなと彼女はしみじみ思う。


「それに兵士なんだもの。怪我をしたり食べられちゃったりすることだってあるでしょう」

「僕の所為で……人が傷付くのは嫌なんだ。」

「当たり前よ、人が傷付いて喜ぶ人間なんてごく少数派だわ」

「……そういうことじゃなくて」


ベルトルトはそこで口を噤んでしまった。

ゆっくりとエルダは頭を撫で続けてくる。安らかな雨音も手伝って、彼は少し眠くなった。


「……やっぱり君ひとりじゃ心配だから、教官に頼んで僕もここに留まることにしたんだ」

「そうなの、つくづく貴方は律儀ねえ…でもよく許可が下りたわね」

「うん……。そうだね」

「まあ貴方は元から優秀だから……日頃の行いの良さからでしょうね。
嬉しいわ、これから数日間寂しくないもの」


………本当は許可など下りていない。

でもライナーがどうにかするから残れと言ってくれた。それに雪山に行っても心あらずで何も出来ないに違いない。


「ごめん……」

「本当に貴方の所為じゃないのよ。元気を出して欲しいわ」

「………………。」


ベルトルトの様子に、エルダは少し困った笑いを浮かべた。


「………早いけど、夕ご飯にしましょうか。温かいものを食べれば心も落ち着くわ」


彼女は立ち上がって少し首を傾げる。ベルトルトは無言でそれに従った。


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