ユミルと月の話 [ 139/167 ]
「いってえよ!!!」
ユミルの怒号に似た声が医務室に響いた。
エルダはその様を眺めてゆっくりと瞬きをした後、再び擦り剥けた彼女の手の甲に消毒薬で湿ったガーゼをひたりとあてがる。
「だから痛えっつってんだろうが!!!」
「我慢我慢。ユミルは強い子よねえ」
「うるせえよ!?誰の所為でこうなったと思っていやがる!!」
「あら、やっぱり私の為だったの?」
…………ユミルは再び何かを訴えようとするが、結局声は発せずに口を噤んだ。
エルダは思わず小さく笑みを漏らす。
「ごめんなさいね。……でもありがとう、助けてくれてとても嬉しかったわ」
大人しくなったユミルの傷口の消毒を済ましてから、白い包帯を巻いてやりつつエルダが零した。
「……………………。」
ユミルは、隠れていく自身の傷口に視線を落として黙っている。
エルダもまた話かける事はしなかったので、沈黙のうちにつつがなく治療は進んでいった。
「…………。お前、言いたい事はきちんと言えよ。」
ふいに、ユミルが口に開く。
エルダは自分の作業に集中しているのか、「うん?」と相槌を打つだけであった。
「嫌なら嫌だって言わねえと損するのはお前だぞ」
「そうね……」
「今回だってもしかするとどうなっていたと思う。お前一人で男数人を去なせられるとでも考えていたのか?」
「…………。大丈夫よ、だってユミルがいつも私を助けてくれるもの」
エルダは一通り作業を終えたらしく、彼女の掌をそっと離す。
「今日もすごく格好良かったわ。
私、そこいらの男の子よりユミルの方がずっと強くて素敵だと思うのよ」
「………嬉しくねえよ」
「あら、安心してちょうだい。ちゃんと貴方の女の子らしくてかわいいところだって知ってるわ」
「そういうのやめろよ…」
…………思わずユミルは溜め息をした。そして無傷の方の手で自身の黒い髪を少し乱雑にかく。
「私がもしいなくなったらどうするつもりなんだよ……。」
呟かれた彼女の言葉に、エルダは少し首を傾げた。
「あら、ユミルはどこかにいなくなっちゃうのかしら」
自然に返された応えに、ユミルは言葉に窮する。
やっとの思いで「別に……そうとは」とだけ漏らせば、エルダはいつものように柔和に笑った。
そして「そうよね、良かったわ」とゆっくり言った。
*
月が出ている。満月だった。
浴場へと向かう道すがら、ユミルは一人歩きながらぼんやりとそれを見つめていた。
星は無い。空にはただその明りひとつである。
青ずんだ闇の中にはまっ白な漣雲が流れて、辺りはしんとしていた。
(さむ………)
彼女は思わず身震いをする。それからなんとはなしに昼にエルダからなされた質問について……考えた。
何故、あの時答えに迷ってしまったのだろうか。
嘘を吐いても良かったし、突っぱねても問題は無かった筈だ。それなのに何も言えなかった。
………まったく、自分もやきが回って来てしまったのかと思う。
絆されているのか、感化されているのか、甘えているのか……
とにかく、何かが不安で焦燥していた。
目的を達し得ない可能性とか、この生温い生活に別れを告げることとか、奴と二度とは相見えることもなくなることとか……
分からなかった。………自分自身が分からないことばかりで嫌になる。
「月が綺麗ですね」
ふと、後ろから聞き慣れた声がかけられた。
………正直今は聞きたくはないものだったが…彼女は構わないようでユミルの隣に並んで歩きながら空を眺める。
「別に……。いつもと変わんねえだろ、月なんて」
愛想無く言えば、エルダは何かをおかしそうに含み笑った。
意味深な表情である。……この女のことも不可解だらけで嫌になった。
昔からどんなに気難しい人間であれ、ある程度の思考を読む事は出来ていたのに…彼女にはそれが通じないらしい。
笑っている様で泣いているのかもしれない。悲しんでいる様でおかしくて仕様が無いのかもしれない。
ただ……いつも穏やかな瞳の色から、どんな形であれ自分を想っていてくれているのだと……それだけは理解ができた。
ユミルとエルダは隣り合って歩きながらも静かだった。
時折互いの肩口や手の甲が触れあう。
その度に少しずつ身体の距離が近くなった。二人とも、寒かったのかもしれない。
「なあ……。昼言ってたこと。」
ユミルがぽつんと白い息と共に口にすれば、エルダは落ち着いた声で相槌を打った。
「どこかにいなくなるのか…ってお前に聞かれて。
……私は嘘を吐いたのかもしれない。きっと……その通りに私はいなくなる…のかも。」
少し躊躇った後に、正直な事実を言ってみる。
こういうところで狡猾になりきれないことがユミルにとってはひどくもどかしかった。
「あら」
エルダが喋るときにもまた、白い息吹がふわりと大気の中に溶ける。
彼女は少し考えるようにしてユミルのことを見上げた。
「………それは寂しくなるわね。」
口ではそう言いながらも、表情は微笑している。
「全然寂しそうには見えねえな」とユミルが不機嫌に零すと微笑はちょっとした苦笑に変わった。
「だってユミルが私に、ずっと一緒だ…なんて言う方がびっくりしちゃうわ。
それに嘘だって別に良いのよ。貴方が嘘吐きなのは結構前から分かってるもの」
「おいなんだと」
「だって貴方平気で約束破るじゃない。可哀想なサシャが何回でも騙されるからってやり過ぎちゃ駄目よ」
「………………。お前、結構言うようになったな」
「そうかしら」
「そうだよ。昔はもっと………、いや。昔っからお前はどこか厚かましくて図太い奴だったよな」
「あらやだ、そんなことないわよ」
ユミルに頬を抓られる気配を察したエルダは小さくあらら、と零してその掌から逃れた。
接していた身体と共に温もりが離れて、寒さがより一層厳しく感じられる。
二人は一通りの追いかけっこをしたあとに、また元のように並んで凍てつく道を歩いた。
先の方まで満月が照らすので、夜なのに不思議と昏くは無い。
「……………ねえユミル。」
入浴場の棟の灯りが見えて来た頃に、エルダが上機嫌に隣り合う彼女の腕に手を回した。
「お伽噺でね、月の女神様が羊飼いの青年に恋をするものがあるのよ。知ってる?」
…………ユミルは全く持って興味の引かれない話題をふられたので、無反応に徹する。
「でも月は神様で青年は人間だから、生きている年月がどうしても違うわ。……別れがくるのは明白よね。
だから女神様は大神様に、青年に永遠の命を与えてくれるように頼んでみたの。」
エルダはそれでも気にせずに話を続ける。
………同期の訓練兵の中で、姉や母の役割を買って出ることの多い彼女はこういった語りや読み聞かせがうまい。
眠れない、恐ろしい夢を見た、家が恋しい…様々な理由でまんじりと出来ない彼等の夜に寄り添って、この女は色々な話をひっそりとすることがよくあった。
「大神様は月の女神様の頼みを聞き届けたわ。
そして羊飼いの青年は永遠の眠りに落ちる代わりに、美しい姿のままでこの世に留まることを許されたのよ。」
そこまで語って、エルダは口を閉ざす。
しばらくしてからユミルが「…………で?」と事も無げに聞けば…
エルダは「永遠に目覚めない美青年を愛し続ける月の女神様だなんてすごくロマンスがあるけれど……それって幸せなことか少し疑問よねえ」と独り言のように応えた。
二人で古びた木の扉を開け、室内へと入る。
中は浴場からの湯気で少しむっとしていた。
「だから……。何が言いたいんだよ、それとも馬鹿な女に有りがちな会話が飛躍し過ぎる悪い症状か」
ユミルにもエルダが言わんとしていることが少し分かる気がしていた。
しかし……分かりたくはなかったのだと思う。何故か。
「まあ……。神様でさえそうなのよ。
だから私たち人間が永遠とかずっと共に在る…となるにはどこかで必ず無理が生じるわ。」
脱衣所にてエルダは着ていた濃色のカーディガンを脱ぎながら言う。続けて白いシャツを。
ユミルは……現れつつある…久々に見るかもしれない彼女の豊かな胸元をなんとはなしに観察してしまった。
「だから……私は貴方がどこかに行きたいっていうなら止めはしないわよ。
私たちって元から一人ずつの生き物だもの。」
エルダはユミルがぼんやりとしてしまってるのに気が付いては、あらどうしたの、服を脱がないとお風呂には入れないわよ、と不思議そうにする。
ユミルは慌てて自身の脱衣に取りかかった。
………入浴の準備を済ませてもう一度エルダの方を見れば、すっかり大切なところはタオルに隠されてしまっている。
だがしかし……それでも分かる迫力だった。
幸か不幸かエルダはユミルの何か言いたげな視線には気が付かないようである。
「でも、私から貴方のところに偶には遊びにいきたいわ。
………遠くても大丈夫よ、旅には慣れてるから……」
私たち友達だもの、きっと会いたくなっちゃうわ。と優しく目を細めながら、エルダはユミルの包帯が外された掌を自然に引いて浴場へと歩き出した。
……………実に簡単に言ってみせるエルダに対して……ユミルは思わず脱力する。
正直に言えば少し、呆れていた。相変わらずだな、と口の中で呟く。
す、と握られていない方の手の人差し指を立てて、先程から気になり過ぎていたエルダの柔らかそうな胸元に軽くつきたてた。
流石に……それにはエルダも驚いたらしく、「えっ……」と小さく声を上げて困惑の表情で隣のユミルを見る。
彼女の慌てた様子にユミルはとても愉快になった。
いつものように悪そうに笑っては「良いだろ、減るもんじゃなし」と指を離す。
「あら、減るわよ。弁償してもらわなくちゃ」
「やなこった」
ユミルはエルダの掌を強く引き返す。少々よろめきつつも、彼女は嬉しそうに隣に並んでくれた。
まる様のリクエストより
襲われかけたところをユミルが助けるで書かせて頂きました。
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