アニと媚薬 01 [ 133/167 ]
(ifアニと恋人設定)
(ん……)
サシャが淹れてくれた紅茶を一口飲んだエルダが何かに気が付いて、テーブルを挟んで向かいに座る彼女のことを見た。
「サシャ、この紅茶にお砂糖入れた?」
そう尋ねれば、サシャはいいえと答える。
「そう…何だか甘いし香りも不思議ね…。」
首を傾げながらエルダはそれをもう一口飲んだ。
「私のは別に普段と格別変わったようには感じないけれど。」
隣に腰掛けていたアニがその様を流し見ながら言う。
「……変ねえ。」
そう零しつつも白いカップに再び口を付けているところから、不味くはないのだろう。
「それは多分…これの所為だと思います。」
不思議そうにするエルダの前にサシャはトン、と小さく透明な瓶を置いた。
中身は既に空である。だが底の方に僅かに残る物質から鑑みるに薄い紅色の液体が入っていたのだろう。
「エルダが今飲んだ紅茶にはこれが入っていましたので…」
にこりとしながら、サシャはこれもまた透明なガラスの蓋を指先でつついた。
「………これ、なあに?」
どういう訳かサシャがとても嬉しそうにしているので…エルダも自然と笑顔になって尋ねてみる。
何かのジャムかシロップだろうか。
「うーん、よく分かりません。」
しかし返されたサシャの言葉に、エルダは一拍置いた後にまたしても首をひねってしまう。
「この前、調査兵団の公舎に体験訓練しにいったじゃないですか。」
「ええ…そうねえ。」
「その時にどえらく沢山の荷物を抱えた眼鏡の人がいたので、運ぶのを手伝ってあげたらくれたんです。」
「………そうなの。でも何なのかは聞かなかったの?」
エルダは段々に得体の知れない物体を飲まされた実感が湧いて来て、少しの不安を抱く。
「ええ、何だか聞いても答えてくれなくて。ただ好きな人に飲ませてみると良いことがあるよー、と言われたので…」
サシャは相も変わらず朗らかな表情でエルダの方を見た。
「と言う訳で、大好きなエルダに飲ませてみました。」
どうです、良いことありましたか。とサシャは期待に満ちた視線を向けてくる。
………エルダはそれを受けて少々困った表情をした後に、「知らない人にもらったものは簡単に食べちゃ駄目だし食べさせちゃ駄目よ…」と軽く彼女を嗜めてみた。
だがその声色は相変わらず穏やかで落ち着いていたので…毒を盛られた、とかそういう訳では無いのだろう。
では……先程までこの小瓶に入っていた薄紅色の液体は何なのか。
(…………………。)
アニは無言でサシャが指先でいじっていた瓶を取り上げ、観察する。
そして底に貼られたラベルに書かれている…ほとんど隠す様に掠れて小さい…文字を発見した。
(……………………!?)
アニはそれを認めた瞬間、バッと素早くエルダの方を見る。
訓練時以外は緩慢な動作しかしないアニの突然の行動に、エルダとサシャは少々驚いた。
そして次にサシャを激しくねめつける。アニの平素より鋭い視線は更に険しくて、睨まれた彼女は思わずヒッと悲鳴をあげる。
…………もう一度アニはエルダの方を見た。
彼女はどうしたの、といったふうにアニの方を見つめ返す。
「………………エルダ。本当に身体は何ともないの。」
そしてアニは念を押す様にゆっくりとした声で尋ねた。
エルダはその迫力に気圧されながらも「え、ええ…。大丈夫よ。」と答える。
「身体が熱っぽかったり鼓動が浅かったり…息苦しくは無い」
「別段いつも通りよ…?」
「変に興奮したり…人肌寂しくは」
「大丈夫だけれど…人肌はちょっと寂しいかも…」
そう言ってうふふ、と含み笑いながらエルダはアニの掌をそっと握った。
…………恐らくこれはいつものおふざけの類だ。
こうやって自身を弄んでくるのは彼女の悪い癖だとアニは内心舌打ちをしたくなる。
(だが………)
別段いつも通りのエルダを見て…アニはこの甘苦い薬物は冗談、イミテーションの類なのだろうと判断した。
恐らく愚直なサシャをからかった悪い遊びの一種である。
(…………誰だか知らないが面倒なことを……。)
アニがそう思いながら眉間に刻まれた皺を元に戻す様に揉む頃には、もうエルダとサシャは別の話題に興じていた。
……………昔馴染みの二人はやはり仲が良い。
別にエルダの交友関係に口出しをするつもりは無いが、僅かばかりでも嫉妬を感じていないかと尋ねられれば…きっとアニは答えに窮してしまうだろう。
問題の紅茶を飲み干してしまったエルダは、結構この味好きだわ、今度会ったらその人にお礼を言っておいて…と自分が偽物とはいえ何を飲まされたか気が付かず、呑気にそんなことを言っている。
(変わらない………。)
いつもと。そしてやはり自分もいつもと変わらず、エルダに先程触れられた掌がじんとするのを感じていた。
……………ほんの少し、期待してしまっていたのだろうか。
いつだってそういう感情を抱くのは自分だけだから…もし仮に薬の力とはいえエルダが
(いや…)
アニはゆるく頭を振った。馬鹿なことを考えてしまったと。
そしてすっかり冷めていた紅茶を飲み干して、楽しそうに額を寄せて話す二人を尻目に無言で席を立った。
*
翌朝、寒いのを堪え堪え平素通りの時間にアニは目を覚まし、ベッドから起き上がる。
すると…すぐ近くのベッドで、未だに上半身を起こしたままぼんやりと虚空を見つめていたエルダが目に入った。
(………?)
おかしい。
エルダという人物は老人臭さで有名であるように、女子寮…いやこの訓練場の兵士の中では誰よりも早く起きて…
今、自分が起きてくる頃にはもうすっかり全ての仕度が整っているのが常であるのに、今朝の彼女は寝間着姿のままである。
そしてただひたすらにぼうっとしながら瞼を半分閉じかけてしまっていた。
アニは訝しげに思いながらも…ひとまず覚醒させてやらないとと思い床に足をつけて立ち上がる。
そうしてエルダのベッドの傍まで寄り、「……ねえ」と声をかけた。
それに応えて彼女はゆっくりアニを見る。
いつもは澄んで新緑の時期、爽やかな山中の空気を思わす瞳はどういう訳かとろりとして滲んでしまっていた。
「エルダ。………そろそろ起きないと」
そう言いながら彼女の肩に手をかけようとする。
だがアニの指先がエルダの肩に触れる前に、それはやんわりとしたけれど堅牢な仕草で遮られた。
エルダの掌がすっと自身との間に挙げられ、拒否の姿勢を取ったのである。
………こんなことは初めてである。
アニの方から嫌がる素振りを何度となく照れ隠しに見せても、エルダがアニからの行為を拒むことは無かった。
いつだって彼女は温柔にアニを受け入れた。
しかしだからこそ、アニはどこまで自分の気持ちのままに赴いて良いのだろうかと判断に困っていた。
…………晴れて恋人同士となった今、エルダはきっと何をしても許してくれる。でもそれに慣らされて良いのだろうか。
そこに、彼女もまた自分と同じ様に求めてくれる心理も存在しているのか。
ただ流されて……『皆のおかあさん』の延長線上の行為となってしまう、アニにとってはそれだけは厭われた。
だからこそ今日の今日まで悶々として友人としての関係以上に踏み出せずにいて…でも、やはりエルダの優しさに甘えるようにただ傍にいた。
なんとなくそんな日々が続いてしまった。
勿論それは不満だった。けれど近くにいるだけで幸せなんだと自分を誤摩化し誤摩化し………
「自分で…起きれるわ。」
エルダはそうぽつりと呟くと、ベッドの中からおもむろに抜け出して顔を洗いに立ってしまう。
いつものように笑顔でおはようと言ってくれることも無かった。
…………何故だろう。
たったそれだけの、ちょっと寝ぼけているだけの態度の変化かもしれないのに、アニには堪らなく寂しく感じた。
そうだ。……傍にいて、大事にしてくれるだけでどうにか満足は出来ていたのだ。
けれど今、それをなされなかった。拒否された。
………悔しい。
(………なんて子供じみた………。)
アニは思わずじっとして眉をしかめてしまう。
自分の中に、こんなどうしようもない我が儘な感情があったなんて。
…………切り替える様に、また皺が刻まれてしまった眉間を揉む。
エルダだって人間だ。具合の良くない時だってある。
彼女が気遣ってくれるよう、自分だってエルダを分かろうとしてやらねば。
(でも……いつまで?)
いつまで心の内を必死に覗こうとしてでも分からなくて、これ以上求めても嫌われないのかいやがられないのか、
自分が汚いもののような、彼女を穢してはいけない罪悪感、
そんな混乱の内を彷徨わなくてはいけないのか。
……………今まで見ないふりをしていた自身とエルダの間に横たわる膠着した迷いを垣間見てしまった朝だった。
そしてアニは、初めて不安を感じる。このままで良いのか。………このままでは嫌なのだろう。
朝から色々と考え過ぎる。
窓からはその複雑な心理とは対照的に曇りひとつ無い、真っ白な光が少し擦れたガラスを通して緩やかに室内に広がっていった。
[
*prev] [
next#]
top