エレンと迷子ちゃん 02 [ 122/167 ]
(げえ)
エレンは、思わずそんな声をあげそうになった。
何故なら目下彼にとってジャンとは別のベクトルでまったく得意としないエルダその人と、休日の街中でばったりと出くわしてしまったからである。
そんな彼におかまい無しにエルダは穏やかな、その年にして母性すら感じさせる表情で笑い続けていた。
何も見なかったふりをしてエレンはその場……彼女が腰掛ける喫茶店のテラスを離れようとしたが、より一層笑みを濃くしたエルダがこちらにゆっくりと手招きしては、向かいの席を指し示す。
「……………………。」
それすらも無視しても良かったのだが、エレンはそこまで嫌な奴にはなりきれなかった。あの馬面じゃあるまいし。
……………そして、非常に不本意ながら四角いテーブル、エルダの向かいの席に腰を下ろす。
彼女はその様子を上品な所作で頬杖をついては見守って、くすりと小さく笑った。
「こんにちは、偶然ねえ。」
エルダはエレンに対してメニューを薦めてくる。
いらない、と首を振るが…奢るわよ、臨時収入があったから、と言われて強引に押し付けられる。
………いよいよ逃げ場を断たれた気分だった。
「一人なのかしら、珍しいわね。」
遠慮してコーヒーを一杯にしようかとしたが、こんなチャンスまたとないんだから美味しいものを頼みなさい、といつもの有無を言わさない笑顔で言われたので…
もうこうなればヤケだと思い、一番ごてごてとしたケーキを注文してやることにした。
「オレだってたまにはひとりになる時だってある。……そういうお前だっていつものやかましい女連中はどうしたんだ。」
…………本当はミカサとアルミンの三人で街には出掛けて来たのだが、何かの拍子ではぐれてしまったのである。
何だか格好悪い気がして、それは伏せておいたが。
「私も今日はみんなの予定が合わなくておひとり様なのよ。お揃いね。」
エルダはウェイターを呼んで自分のカフェオレのお代わりと、エレンのケーキを頼んでは何故か嬉しそうに笑った。
「…………………あの。」
そこで、エレンはずっと気になっていたことを聞こうと口を開く。
何かしら、とエルダは少し目を伏せて、ソーサーからカップを持ち上げて聞き返した。
「こいつ、何?」
エレンが指し示した先には、こじんまりと二人に挟まれて椅子に収まった…恐らく5、6才ほどの女児。
唐突に自分に話を振られたことにびっくりとしたのか、おろおろと大きなハシバミ色の瞳を泳がせた後に下を向く。
「お友達よ。」
女児の慌てぶりに反してエルダは事も無げに言ってみせる。
そして彼女の口についていたタルトタタンの欠片をハンカチで拭ってやった。
「いや。そういうことじゃなくて…………」
女児はエレンの鋭い目付きに耐えきれなくなったらしくどこか泣きそうになってしまう。
エルダはその様子をあらあら、と言って少しだけ眉を下げて見守った。
「………ここでエレンに会えたのも何かの運命かしら。」
そして何処かいたずらっぽく薄緑の目を細めてみせる。
エレンは彼女の言葉の意味がよく分からず、首を傾げるばかりだった。
「この子ね、調査兵団の公舎に行きたいんですって。迷っちゃっているところをさっき偶然見つけて……
だから調査兵団に詳しいエレンなら行き方が分かるんじゃないかなって思ったんだけれど。」
良かったわ、このまま二人で人に道を聞きながら行くことになるかと心配してたのよ、とエルダは心からほっとしたようにしながら、サーブされた装飾過多なほどにごっちゃりとしたケーキをエレンに渡してくる。
「いやまあ…そりゃ分かるけどよ。」
当たり前である。何度街に出ては、憧れのその堂々たる公舎を眺めてそこへの思いを募らせたことか。
………すっかりエルダのペースに乗せられていたエレンは、目の前に置かれたケーキを何も考えずに口に含む。
甘過ぎて驚くが、不味くはなかった。
「お前は何で調査編団の公舎に行きたいんだよ。まずはそれを教えてくれよ。」
そして、エレンは少女に尋ねる。
彼女は……恐る恐ると言った感じでこちらを見上げて口を小さく開くが、ためらってはまた閉じてしまう。
その、どうにも気弱な態度に段々エレンはいらいらとしてくるが、エルダは呑気に頑張って、大丈夫よ、と少女に優しく声をかけ続ける。
「………お兄ちゃんに、会いにゆくの。」
そうしてようやく少女の口から出て来たちいさなちいさな言葉の羅列。
エレンは……少し考え込んだあと、「そんなの…家で待ってりゃ偶には帰ってくるだろ。次の壁外調査は随分と先の筈だし。」と言ってはケーキのふた口目を大きく切り取って口に運ぶ。
どうやら重大でもない理由だと判断したらしく、さらさら案内を引き受ける気は失せたようだ。
「うん………。わかってるけど……。…………………。」
エレンの気の無い反応に少女は萎縮してしまい、しゅんと俯いてしまう。
エルダは少々苦笑してから、「そんなこと言わないの。」と穏やかにエレンをたしなめてきた。
「おにいちゃん…。このまえ帰れるって言ったときも、そのまえのまえに帰れるって言ったときも帰ってこなかったから………。」
やがて少女はどうにも我慢が出来なくなったらしく、声を漏らす。言葉の端々には涙ぐましい色が滲んでいた。
「昨日こそはぜったい帰れるって、手紙でも言ってたのに………。」
しかし、その声は徐々に小さくなっていく。
エレンは溜め息を吐いて少女に同情しかけるが、ここは未だ訓練兵とはいえ兵士として大人の意見を言わなくちゃいけない、と咳払いをひとつして、彼女に「あのな、」とゆっくりと話しかけた。
「兵士っていうのはな、普通の仕事と違って厳しいものなんだ。
……休みたくても休めないときだってあるし、何より…お前の兄貴は調査兵団だろう?
人類の平和のために一生懸命戦ってるんだ。それを家族であるお前が理解して、きちんと待っててやらなくてどうするんだよ。」
分かりやすいようになるべく優しい言葉を選んで言ったつもりだったが、エレンの言葉が終る頃には少女の大きな瞳にはいっぱいに涙が溜まっていた。
………エレンは、何か悪いことをしている気持ちになって口をつぐむが…自分は何も間違ってはいないとはっきり自覚していたので、「とにかく、大人しく家に帰れ。」とにべもなく言ってみせる。
「あらあら……。」
一拍置いた後、エルダは淡く溜め息を吐いた。
………そして、今にも泣いてしまいそうな少女の灰色の髪を安心させるようにそっとなでる。
優しい仕草だった。彼女にはどうやら生まれつき母性が強く宿っているようである。
「………でもお兄さんは昨日には帰ってくる、って約束してくれたのよね。」
そして、確かめるように少女の瞳を覗き込んで尋ねる。彼女は無言ではあったが、強く頷いた。
「それは駄目ねえ……。約束をしておいて破るだなんて。しかもそれは一回や二回じゃないのね……。」
エルダは、微かに目を細めた。…それは先程の柔和なものとは少し違う種類の表情の動きだった。
「………エレン。やっぱり調査兵団への案内をお願いできるかしら。」
そこで、エルダは片手を上げてウェイターを呼んでは会計を頼みながらエレンに声をかける。
「なっ………、お前さっきのオレの話聞いてたか?調査兵団なんて言ったら多忙も多忙なのはお前も知ってるだろ?
こいつが良い子にして家で待ってるのが一番良いんだ、兄貴もきっと困るぞ!」
エルダはエレンの言葉も何のその、やってきたウェイターに優雅な仕草で紙幣を数枚渡す。
それから優しく微笑んで、眼前に着席する彼のことをじっと見つめた。
「………いいえ、この子のほうがもっと困ってるわ。
それに……家族との約束も守れない人が、人類を守ることのできる立派な調査兵と言えるのかしら。疑問よねえ。」
視線、仕草、声色。全てが晴れやかで柔和なのに、どこか反論することができない。
エレンは背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
「で、でも………「エレン」
それでもどうにか反論しようと口を開きかけた彼の声にかぶせて、エルダが名前を呼ぶ。
「ケーキ、美味しかったでしょう?」
そして、それはもう良い笑顔で言ってみせた。
………エレンの目の前には空になった皿。それを見た瞬間、彼の体からは全身の血が引けるざわりという音がした。
そう、計算か天然かは分からないが、全てはエルダの思惑通りに進んでいたのである。
エレンには……エルダに呼ばれて、彼女の向かいに腰掛けた瞬間から、決して勝ち目はなかったのだ。
「さあさあ、このお兄さんが案内してくれるからもう大丈夫よ。行きましょう。」
エルダは小さく鼻歌をしながら少女の手を引いて立ち上がる。
そして空いている方の手をエレンへと向けて差し出しては、「エレン、よろしくね。」とそれこそ事情を知らなければ見とれてしまいそうな美しい笑顔を向けてみせた。
エレンは釈然としないを通り越して脳内で何かが切れる気配を感じ、「ふざけんなああああ!!!!」と思わず叫んでしまった。
「あらまあ大きな声ねえ」
エルダは楽しそうにしながらそんなエレンの掌を強引に取っては歩き出す。
…………エレンは理解した。この女、怒ったことがないんじゃない。
誰も、怒ったことに気付いてないだけなんだ。
とんでもない女に関わっちまったと気付いた時にはすでに色々と手遅れで、エルダは大通りの方へと歩く速度を更にあげていく。
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