君がいない場所 04 [ 112/167 ]
抱き締めていると、エルダの香りが体中に染み渡って行く様で、とても幸せだった。
彼女の後頭部をしっかりと掌で覆い、その細い毛を何本も指に絡まして、ひたすら今までの距離を縮める様に自らに密着させた。
「あ、あの…………!」
………そうしてしばらく経った後、非常に困惑したエルダの声が胸の内から漏れてくる。
(あ……………)
ふと…我に返ったベルトルトは、自分自身が仕出かしてしまった行為に少しの混乱を覚えるが………不思議と、後悔は全く無かった。
「ごめん………」
呟きながらゆっくりと体を離してやる。…………本当に久しぶりにその顔を近くで見た気がした。
だが、彼女は自分の方を決して見ようとはしない。目を伏せて少々眉根を寄せ……そして頬は、燃える様に色付いていた。
「あの、僕は………」
初めて見る彼女の得も言われない表情を見て、ベルトルトは何かを言おうと口を開きかける。
だが…彼の言葉が言い終わらぬうちに、エルダはへなりと膝を折り、地面へと力なく座り込んでしまった。
「エルダ……?」
それに合わせてベルトルトも渇いた土の上へと片膝をついて屈み込む。
…………そのままの姿勢で、ベルトルトはエルダの掌をしっかりと握った。何かを訴える様に。
傍の松の樹からは蝉の声がぎんぎんと聞こえてくる。
1日のうちで最も気温の高い今の時間帯、二人の手はすぐにしっとりと湿ってきた。
………だが、それでもベルトルトは決してエルダの白い掌を離す事はしなかった。
「……………ごめん。嫌だった………?」
呟く様に尋ねると、エルダはゆっくりと首を横に振る。
「嫌じゃ無いわ…………」
そして、ようやく伏せていた顔を上げてベルトルトの事を見上げた。
彼女の瞳の中は潤んでおり、夏の強い日差しを幾千の光の粒にして反射している。
「ちょっと、驚いただけ…………」
そう零しながらエルダはそろりと空いている方の手でベルトルトの頬に触れた。
「ただいま、ベルトルト。」
そう言ってエルダはようやく……少しだけ笑う。
…………見慣れた微笑みの穏やかさに、ベルトルトは胸の奥が支えて息が出来なくなる感覚に陥った。
何かを言おうと口を開きかけるが、声も勿論でなくなっている。脳髄はじんとした熱を持ち、このまま溶け出してしまいそうだった。
……………………びしゃり。
だが、彼の体を巡る熱は、急速に冷やされる事となる。物理的に。
「つめっ…………」
体を襲った予想外の感覚に、ベルトルトは思わず身震いをする。
「いつまで引っ付いてやがるこのドスケベ野郎」
次に、この世のものとは思えぬ地鳴りの様な低い声が背後から響き渡った。
ああ、勿論、この声の主が誰だかは予想がつく訳で…………
「あらユミル。しばらくねえ。」
そしていつもの調子を取り戻したエルダが朗らかに片手を上げて彼女へと言葉をかける。
だが、エルダの上げた片手はユミルにしっかりと掴まれ、その体は凄い力でベルトルトの傍から引き剥がされてしまう。
………その際に「あらら」と思わずよろめいた彼女もまた、ベルトルトと同じくぐしゃぐしゃに濡れていた。
「もー、ユミル。久しぶりの挨拶にしては荒っぽすぎないかしら」
びっしょりと湿った長いスカートを絞りながらエルダが零す。
しかし口でそうは言っていても、何故か彼女は楽しそうであった。
「うるせえ、この熱い中べたべたしやがって目障りなんだよ。」
ほら行くぞ、とそのままエルダの掌をしっかりと握って訓練場に戻ろうとするユミルの、もう片方の手には、じょろじょろと水が零れ出るホースが握られていた。
………恐らく二人はこれに攻撃を受けたのだろう。
「あ………あの、ちょっと待って………。」
遠ざかろうとする二人に、ベルトルトは何かを思い出した様に声をかける。
………そして、ズボンのポケットからぐしゃぐしゃに丸められた紙を取り出してはその皺を懸命に伸ばした。
「あのさ…これ。出せなかったんだけど。手紙………折角、書いたから…………」
ベルトルトは徐々に小さくなる声でしどろもどろに説明しながら、ユミルに手を繋がれたままこちらを振り向くエルダへと手紙を渡す。
「…………………。」
彼女は手の中に収まったそれをしばらく眺めた後、ちょっと良いかしら、と女性にしては長身の友人に手を離す様促した。
…………今日のエルダの微笑にはどうやら不思議な力が宿っているらしい。
無言のうちに見つめ合う二人だったが、やがてユミルは渋々と言った体で掌を離した。
…………ベルトルトのズボンが水を吸っていた所為で湿っている手紙の封を、エルダは丁寧に開ける。
そして中身の………これもまたくしゃくしゃな上に濡れている書簡箋を取り出しては、破かない様、慎重になりながら広げた。
エルダがしばらく、手紙に視線を落としている間。ベルトルトの心臓は早鐘の様に激しく鼓動を打ち鳴らしていた。
ユミルによって冷やされた体も再び熱を取り戻していたが、心の中は読み終えた後の彼女がどんな反応をするのかが不安で底冷えに似た感覚に襲われる。
「…………ベルトルト。」
やがて、エルダはゆっくりと彼の名を呼んだ。
思わず息を呑んでその方を見ると、エルダもまたこちらを眺めている。
彼女はおもむろに手紙をベルトルトの方に広げて見せると、「インクが滲んじゃって何も読めないわ」と可笑しそうに笑った。
……………………辺りには、蝉の声が空高らかに響く。
ベルトルトは…………なんでや!!と叫び出したいのを堪え、ユミルは、ざまあ。と嘲りたいのを堪えもせずに口に出した。
「…………残念ね。」
エルダはそっと目を細めながらインクが滲んで灰色になった書簡箋へと視線を落とす。
「でも、読む必要はもう無いものね。問題ないわ。」
そう言いながらエルダは手紙を畳んで封筒へと戻し、視線をもう一度ベルトルトへと戻す。
「え…………」
彼女の物言いに少し傷付いた表情を見せるベルトルトの方へと、エルダは一歩踏み出してその顔を覗き込んだ。
「だって書いた本人がここにいるのだもの。」
エルダは手を伸ばして先程と同じ様にベルトルトの頬を撫でる。
……その幸せそうな仕草から、ベルトルトは………随分と自分はエルダに大事に思われているのだな……という事実に思い当たり、ひどく嬉しい気持ちになった。
「何て書いたのか、貴方に直接教えてもらいたいわ。」
掌をそっと離しながらも、エルダはベルトルトの瞳をしっかり見据えて発言した。
その声は妙にしんみりとしていて、どこかの遠い木に澄み渡っていく様にも聞こえる。
ベルトルトは……真っ直ぐに向けられた彼女の言葉と視線を、少しだけ遮る様に目を伏せた後、もう一度瞼を開いた。
そこには、相も変わらず故郷の山間を思わせる薄緑が広がっている。
「その………」
………ゆっくりと、口を開く。正直に言えば…何を言えば良いのかの整理はまだついていないし、あれだけ一生懸命書いた手紙の内容も、頭の中で真っ白に飛んでしまっている。
「……………僕は。」
じゃあ、今、僕は何を言おうとしているのだろう。
………今一番に彼女に伝えたい事は……伝えなくちゃいけない事は…………
そうだ。たった一言、ずっと伝えなくちゃって……………
「………エルダ。ごめんなさい…………。」
やっとの思いでそれだけ零すと、ベルトルトは項垂れる様に頭を下げた。
今更ながら、こんなにも大好きな子にひどい事を言ってしまった自覚が胸中で蘇ってくる。
…………しばらく、辺りは沈黙が支配した。聞こえてくるのは、焼かれるが如くやかましい蝉の声だけである。
その中、エルダはゆっくりゆっくりベルトルトの方へと三度、手を伸ばした。彼女に触れられる瞬間、ベルトルトは思わず肩を震わす。
「えい」
だが………何を思ったのか、エルダは小さなかけ声と共にベルトルトの鼻をきゅっと摘んでは「高い鼻ねえ」と感心した様に言ってみせた。
「………………???」
彼女の謎の行動に戸惑いながら顔を上げるベルトルト。眼前のエルダは、何が面白いのかくすぐったそうに笑っている。
「私も色々と説明不足で……ごめんなさい。」
エルダはベルトルトの鼻から手を離しつつ空を仰いで、続けた。
「でも。さっき……嬉しかったのよ。あんなに強く抱いてもらったのは、初めてだったから。」
そこには白銀の分厚い雲がなだらかな形を描いて、澄み切った青空のここかしこに屯している。如何にも夏空と言った風景だった。
「………だから、その……。もう一度、私と仲良くしてくれる気が、貴方にあるのだろうかと………思えたから。
………………とても。嬉しかったのよ…………。」
エルダにしては珍しく、整然としない言い方だった。
空を眺めていた瞳はいつの間にか地面に落とされ、頬はまた先程の様にじわりと色付いている。
「…………うん。僕も…………。」
それを眺めていたベルトルトは、胸の奥に心地良い穏やかさが訪れるのを感じていた。
…………そして彼女がこの数週間、随分と自分との諍いを気にしてしまった事を理解し、申し訳ないと思うと同時に少しだけ……嬉しくなってしまう。
顔を伏せる彼女の目の高さに合わせる様に少しだけ屈み、先程の彼女が自分にした様に片頬に手を添えた。
ゆっくりと二人の目が合う。彼女の瞳は熱を持って潤んでいた。現在の気温の高さがなんかよりずっと、その視線は熱く感じられた。
「おかえり、エルダ。」
静かに囁くと、彼女は少し驚いた表情をして……泣き出しそうになった後、心から嬉しそうに、笑った。
[
*prev] [
next#]
top