君がいない場所 03 [ 111/167 ]
『あれも、またひとつの生き方なのでしょう。』
煙る湯気の中、水滴の音に混じってひどく穏やかな声が残響した。
『食べずには、殺さずにはいられないのでしょうね。....』
季節はとっくに夏を示しているのに関わらず、彼女の言葉は冬の雪の様に静かに降り積もって行く。
深々とした響きの中、エルダが私の肩に頭をもたせてきた。心地良い重みと触れ合いに、安堵した事を…なんとなく、覚えている………。
周りの空気がやにわに騒がしくなり、ユミルの意識は緩やかに眠りの底から現実へと戻ってくる。
(ん…………)
机に突っ伏していた姿勢をのろのろと起こし、頬杖をついて欠伸をひとつした。
(ようやく終ったか………)
講義室から次の訓練へと移動し始める兵士たちを横目に見ながら、ユミルはうんざりとした感慨を胸に抱く。
……くそ、何て夢だ……
溜め息をひとつ吐いて窓の外へと視線を移す。
……そこには、いつもと変わり映えの無い、空と大地の間に茂る木々を並べたつまらない景色が広がっていた。
ユミルはもう一度溜め息を吐いて先程の夢の面影を振り払う様に首を振る。
………………エルダが別に帰って来なくても………私には関係の無い事だ。
だが……、頭ではそう考えていても、送られて来た几帳面な見慣れた書体の手紙を見て、どうしてかひどく懐かしい気持ちを抱いてしまったのだ。
…………エルダの何処に惹き付けられているのかはよく分からない。
そもそも、自分が………エルダに抱く感情は非常に複雑なのだ。
愛しい愛しいクリスタが異常に懐いている事に対して気に食わないと思うのがまず第一、変に落ち着いて常に自分よりも余裕な態度が鼻につくのが第二…………
………………そして。
………………
…………いや。奴は私とは、私たちとは違う。愛されて育った、幸せなお嬢様だ。
それでも……………
『きっと巨人も寂しい生き物なのよ。』
…………そうだよ。その通りだよ。
寂しくて寂しくて堪らないから………心から優しくしてもらいたいんだ。
そしてその時の私は、お前にそれをして欲しかったに違いない。
では、今の私はどうなのだろう。
……………いや、そうだな………。きっと。
「ユミル?早くしないと次の訓練に遅れちゃうよ?」
未だに椅子に腰掛けたまま、窓の外をぼんやりと眺めるユミルへとクリスタが声をかける。
「窓の外に何か面白いものでもあるんですかあ?」
ユミルと同じく講義中に爆睡していたサシャもまた目を擦り擦り尋ねた。
「いや……何でもねえよ…………」
そう言って窓から彼女たちに向き直ろうとするユミルの視界の端に、何かがちらりと映る。
(……………?)
………………人、である。
遠方に胡麻の様なサイズに見える人影は確実にこちらへと歩みを進めていた。制服を着ていない事から兵士では無いのだろう………。
「どうしたんですか、ユミル。」
固まるユミルにサシャが不思議そうに声をかけた。
「いや………人が。」
ユミルの言葉に、サシャとクリスタも窓の傍まで寄って外を眺める。
「………迷子かなあ。」
人影を確認すると、クリスタも首をひねりながら発言した。
「こんな人里離れたところでか?」
「誰かのお客さんじゃないですかね。」
「客が来るなら訓練が終った夕方頃だろ。」
三人でだらだらと話ををしている間にも、人影はどんどんと近付いてくる。
「おい、お前等。」
………が、その顔をはっきりと拝む前に、彼女たちの背後から低い声がかけられる。
振り向くと、ライナーがやや呆れた様にしながら窓の外を覗き込む三人を眺めていた。
その背後にはいつもの様にベルトルトが影の如く付き従っている。
「もう施錠するからとっとと出て行かんか。次の訓練に遅刻しちまうぞ。」
それとも何かあったのか、と尋ねてくるライナーに、サシャが「誰かいるんですよ!ほら、あそこ」と外を指差す。
胡麻粒程だった人影は、今は空豆程度の大きさにまでなっていた。
彼女の言葉に従って外を覗き込むライナーとベルトルト。
そこで……一貫して興味が無さそうであったベルトルトの表情ががらりと変化する。
目を見開いて窓硝子に穴を空けんばかりの眼力で人影を捕えた後、唐突に窓を開け放ってしまう。
「………おま、何して…………」
彼の突然の行動に戸惑った声をあげるライナー。女子三人もまた状況をよく理解していないらしく、目を瞬かせていた。
ライナーの質問には答えず、ベルトルトはまたいつぞやの様に窓の桟に足をかけて、太陽に焼かれて土埃が舞う地面に着地する。
……………後、全速力で走り出した。
彼は背後に驚いた四つ分の気配をひしひしと感じたが、今はそんな事に構う余裕は無かった。
走って行くと、空豆大だった彼女の姿がじゃが芋程に変わって、もう顔もきちんと見える様になる。
やはり変わらずに綺麗だった。たった二週間程しか離れていないのに、改めて見るとそれの清廉さに目眩がした。
世間一般で見ればどうとない顔なのだろうが、ただ懐かしくて堪らなく、今の自分の中では絶対的な基準のひとつだった。
猛然と自らの元に駆けてくる気配に気付いたエルダもまた、彼の方を向く。
…………そして、ハッとした様にその顔を眺めた。
ベルトルトと彼女の距離はもう十数メートル程に縮まっている。
エルダは困惑した表情を浮かべた後、思わず数歩後退して彼から逃れようとした。
その行為の理由は……ベルトルト自身が大いに理解していた。
…………もう一度会えた時に、最初に何を言おう。これはずっと悩んでいた事だった。
けれど………彼女の少しの怯えを含んだ瞳と、愛しくて堪らない今の気持ち、ごめんエルダ、また会えて本当に嬉しい、許してもらえないかも、いやそんな事はない、僕が知っているエルダは必ず、
色んな気持ちがそれこそ活栓の様に湧き出して、何も言えず、ただ、気付いた時には彼女の事を強く腕の中に閉じ込めていた。
――――――
「「「「………………………!?!?!?」」」」」
一方、その様子を講義室の窓から覗いていた面々には衝撃が走っていた。
全員が全員、まさかあのベルトルトがこうも積極的な行動に出るとは思っていなかったのだ。
………一番最初に我に返ったのはライナーだった。
「お、お前等、ほら……子供の見るもんじゃない。」
言いながらクリスタとサシャの瞳をその大きな掌で覆うライナー。
ちなみに彼等の年の差は1、2年程である。正直彼もパニックで自分が何を言っているのかよく分かっていないのだろう。
「あの野郎………」
次にユミルの意識が現実に戻ってくる。何故か彼女は胸の内にひどい憤りが滾り、今眼前で繰り広げられている光景を許す事が出来なかった。
そして素早く窓の桟に足をかけるユミル。
どすんと荒々しく炎天下に着地すると、先程のベルトルトよろしく凄まじいスピードでそれに向けて走り出して行った。
…………後に残されたライナー、サシャ、クリスタは………お互いの顔を見つめ合っては、微妙な空気を漂わす。
「…………俺達も、行くか。」
そこでライナーがぽつりと呟くと、サシャが嬉しそうに「そうしましょう!」と言って窓の桟に足をかける。
しかし、すぐに後ろから襟首を猫の様に摘まれて窓の桟から離されてしまう。
「言っておくが窓は出入口では無い。きちんと扉を使って外に出るんだ。」
サシャの体を空中にぶら下げたままライナーは空いている方の手を軽く腰にあてて説く様に言った。
………が、そう言っている合間にもクリスタがよいしょ、と窓から外へと降り立つ。
思わずライナーはずっこけそうになったがそれを寸での所で堪えた。
「おい、クリスタ。お前は人の話を聞いてるのか、だから窓は出入口では無いと「ライナー」
クリスタにも先程と同じ注意をしようと口を開いたライナーの声を遮って、クリスタが彼の事を呼ぶ。
そして眩いばかりの笑顔で、「ライナーも一緒に、行こう?」と軽く首を傾げた。
………………ライナーは思わず低く唸る様にして少しの間眉間を軽く揉んだ後、顔を上げてもう一度クリスタの事を眺める。
「うん、行く!」
そう言い放ってのけた彼の顔つきはこれ以上無い位精悍なものであった。
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