君がいない場所 02 [ 110/167 ]
深夜の図書室で、ベルトルトはきちんと封をされてはふっくりと膨らんだ手紙を両手で持って、うん、とひとつ頷いた。
その顔は充足感で満ち満ちている。そして彼が向かう机には沢山の丸まった紙が転がされていた。恐らく失敗した手紙の成れの果てだろう。
(……………手紙ってなんか照れるなあ。)
封筒に繁々と視線を落としながらそれを思うとほんの少し頬が熱を持つのが分かった。
………これを見て、エルダはどう思ってくれるだろう。驚く?……厚かましいと思う?それとも……ちょっと、嬉しかったりするのかな………。
それを考えると無意識の内に口角が上がってしまう。ベルトルトは完成した手紙をそっと机の上に戻して、椅子の背もたれの寄りかかった。
(…………少し、疲れたな。)
この時間まで机に向かって作業する事など、ベルトルトにとってはひどく珍しい事である。
いくらハイになっていたとは言え、疲労は確実に体を蝕んでいた。
………図書室の壁に据えられた柱時計の針の音がやたらと大きく感じる。
肩と首も痛かった。目を閉じるとじんとした熱い感触が。随分と眼球が渇いていたらしい。
(あ………。駄目だ、ちゃんと部屋に帰って寝ないと。)
…………意識ではそう考えていても、夜更かしに慣れていない体は言う事を聞いてはくれない。
(駄目…………)
朦朧とする意識の中、ベルトルトは泥の様な眠りの淵へずるずると引きずり込まれて行った。
『………エルダは。ここからいなくなるの?』
『それで、僕の傍からもいなくなるんだ?』
『まあ。それはエルダの勝手だから……僕に引き止める権利は無いのかもしれないけれど……』
『でも………それなら、何で僕と約束してくれたの。』
『一緒に……故郷に来てくれるって……何で、そんな事。僕は……ずっと、それを信じて頑張って来れたのに。』
『…………こんな事になるのなら、最初から優しくなんてしないでよ。…………僕は、‥‥‥僕は。』
『…………嘘つき。』
………………目を開いた時、呼吸の荒さと不快に体を濡らす汗、そして何故か止まらない涙で自分の置かれた状況がいまいちよく分からなかった。
ここは………何処だろう。何で僕は、こんなに埃まみれの床で、頭を曲げ手足を縮め海老みたいな状態で困臥しているのか。
上半身を起き上げて辺りを見回すと背の高い書架が白い朝日の中で静かに聳えている。
…………そこで、ようやく自分が昨晩図書室で作業をしていた事に思い当たった。
痛む関節をぱきりと鳴らしながら立ち上がると、机の上にはきちんと封をされた手紙が置かれている。
当たり前だが、眠りに落ちる前と変わらずにある佇まいだ。
しかし、昨日とは打って変わってそれを目の前にしたベルトルトの胸中は大いに乱れる。
『…………嘘つき。』
………………そうだ。僕は。
エルダにひどい事、言って…………
(何、呑気に手紙なんか書いてたんだろう)
丁寧に仕上げられた封書を思わず、くしゃりと握りつぶす。
……………初めて。初めて、彼女に対して悪意を持った。
そして、それを感情のままぶつけてしまった。
もっと他に方法はあったのかも知れない。けれど、僕には誰もそれを教えてはくれなかったから。
凄く後悔している。何よりも一番大事にしたいと思っていたのに。自分が許せなかった。
…………だから、罪の意識から逃れる為に、彼女に言った事を全部忘れようと努めた。
(こんな事………何の解決にもならないのに。)
無惨な皺が縦横に描かれた封筒を見下ろして溜め息を吐く。寝起きから流れ続けていた涙はようやく止まり、頬は渇き始めてひりひりとしていた。
(お願いだから戻って来てほしい、だって…………?)
封書の中で何度も使用した言葉を頭の中で反言する。あれだけ真面目に書き連ねたにも関わらず、今はひどく滑稽な響きに聞こえた。
「……………そんな事言う資格、ある訳無いじゃないか。」
瞳から、涙がまた零れてくる。それなのに何故か喉の奥は可笑しそうにくつりと鳴った。
嫌だな、エルダと出会ってから僕は泣いてばっかりだ。
そのほとんどが時間が経てば掛け替えの無い嬉しい涙だったと分かるけれど、今の涙だけはどれだけ時が過ぎても辛いものなのだろうとはっきり理解できた。
「エルダ…………。」
鼻水も垂れて来たので鼻を啜って彼女の名前を呼ぶ。
………今の僕は、最高に汚い顔をしているのだろう。エルダは愚か、友人たちにも見せられない位。
手紙をもう一度握りつぶして、ズボンのポケットにねじ込む。質の悪い安手の紙の質感ががさがさと不快だ。
「それでも会いたい…………。」
呟きながら、書架を背にしてずるずると床に座り込む。
「会って、謝らなくちゃ…………!」
掠れた悲鳴に近い声が唇から漏れる。
……ベルトルトの心理とは対照的に、本の背ひとつひとつを嘗める日はいよいよ高くなり美しさを増す。
窓から差し込む透き通った光を浴びながら、彼は顔を覆って深く深く呼吸をした。
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