サシャの憂鬱 04 [ 108/167 ]
(あれ…………。)
その日のベルトルトは、朝食にてエルダの姿が見えない事に勿論気付いていた。
「ねえねえライナー。エルダがいないよ。」
そして隣に着席していたライナーへと不安げに話しかける。
「………ああ、本当だ。まあ偶には寝坊する事位あるだろう。先日だって遅刻していたし」
「うん………。でも、体調が悪かったりしたらどうしよう……。………心配だよ。」
「そこら辺は女子共が細やかに面倒を見るから平気だろう。何せ男より女にモテるタイプのエルダだ。放っとかれる事は恐らく無い。」
正直羨ましい、クリスタ一人位譲らんか……とぶつぶつ零しながらライナーはパンへと手を伸ばす。
………しかし次の瞬間、ベルトルトが凄い勢いで立ち上がった衝撃で、ライナーのパンは見事に埃まみれの床へとダイヴしてしまった。
「………エルダだ。」
呆然としながら床に転がるパンを見つめていたライナーの耳に、ベルトルトの呟く様な声が聞こえる。
「おま、この落とし前をどう「こんな時間にあんな場所で……何してるんだろう……」
ライナーの嘆きを大いに含んだ言葉を無視しつつ、ベルトルトはエルダの姿が見えた窓の傍へと駆け寄って行く。
その際に床に落っこちたライナーのパンを踏んづけながら。彼に他意は無い。多分。
開け放たれた窓から身を乗り出して彼女の姿を確認しようとする。
…………確かにエルダである。間違いない。それは日々穴が空く程に眺めている事からすぐに理解できた。
ただ……制服も着ずに、見知らぬ不吉な人相の人物と会話を交わす姿は明らかに日常からかけ離れて異質である。
普段なら、彼女は僕よりも先にこの食堂に訪れていて……おはよう、と言ってくれる筈で…………
「ああ、あいつか。」
ふいに隣から声がするのでその方……自分の斜め下に視線を向けると、何故かジャンがベルトルトと同じ方向を眺めていた。
「…………………。」
何の事かと、ベルトルトが視線で尋ねると、ジャンもまた瞳だけ動かしてベルトルトを見上げる。
「何だかこの一週間位芋女の奴がやたら騒いでてよ、あいつ見合いするらしいぜ。」
さらりと告げられたジャンの言葉に、ベルトルトの中で何かがぱきりと音を立てて歪む気配がした。
「………良いよなあ。兵役に堪えられなくなった場合、男なら即開拓地行きだけどよ、女でちょっと顔が良けりゃ玉の輿が可能だからな。」
俺も女に生まれりゃ良かったかな、いや俺位優秀ならその心配はいらねえか、と何やらぞっとする様な事を言ってジャンは笑うが、今一度ベルトルトの顔を見上げた時にその笑顔はたちまち拭い去られてしまう。
「お前……どうした、そんな怖い顔して………。」
いつもと取り巻く雰囲気が全く持って異なるベルトルトに対して訝しげに発言するジャンの肩が、強く掴まれた。それはもう痛い位。
「エルダは」
そしてゆっくりとベルトルトの口からは言葉が紡がれる。こちらを覗き込んでくる暗緑色の瞳は光を通さず、真っ黒に染まって見えた。
「エルダは、お見合いなんかしない。………する訳が無い。」
「いや、でも現に今」「絶対にあり得ない。だって………」
徐々にベルトルトの声色は泣きそうなか細いものに変化していく。
唖然としているジャンの肩を離してベルトルトは今一度窓の向こう、姿が少しずつ遠くなって行くエルダの事を眺めた。
そして少しの間何事かを考え込んだ後、何を思ったのか非常に素早い動作で窓枠を乗り越え外へと降り立つ。
「おい、お前っ……何処に」
焦った様なジャンの気配を背後に感じ取りつつも、ベルトルトはここ数ヶ月で一番と言って良い程全力でエルダとの距離を詰めては走って行った。
*
「エルダ!!」
大きな声に名前を呼ばれてエルダは立ち止まった。
振り返ると、そこには息を切らせてこちらに走ってくるベルトルトの姿が。
「あら、おはよう。良い天気ね、ベルトルト。」
…………彼女の様子はいつも通りだった。いつもの様に柔和に微笑み、それで優しい声だ。
僕が………好きで、大好きな……………
「あ、あの。エルダ、お見合い……するって。」
呼吸が整わない為に途切れ途切れになりながらベルトルトはエルダに尋ねる。よろよろとその肩を縋る様に掴みながら。
……………正直に言うと、未だ、ジャンがまたふざけた事を言っていたのだという可能性を信じていた。
だってあれ程男性を得意としないエルダだ。何だって今更お見合いなんか………
「ええ……そうよ。」
しかしエルダは何処かばつが悪そうにではあるが、彼の質問を肯定する。
瞬間、先程と同じ様に、ベルトルトは自身の中身が大きく歪むのを感じた。
……………だが。
まだ、お見合いするだけだ。何も結婚する訳じゃない。………もしかしたらままならぬ事情があったのかもしれない。
きっとそうだ。そうに違いない。
「………そっか。じゃあ、いつここに戻って来てくれるの?」
本当はエルダが見合いをするというだけで吐き気がする程の嫌悪感を覚えるが、それは隠して努めて笑顔で尋ねる。
………ベルトルトの予想が当たったのか、エルダは少し表情を和らげて「そうね、確か…」と口を開いた。
しかし、隣で死神の様に佇んでいた痩身の男が突如としてエルダの腕を強く引く。
前起きないあまりにも突然の行為に、エルダは思わずよろめいてしまった。
「時間が。」
彼は端的に言うと、そのままエルダの手を引いて歩き出そうとする。
…………が、今一度ベルトルトの方に向き直って足を止め、彼の長身を頭から爪先まで観察してみせた。
「………君は、エルダと一緒に写真に写っていた方ですね。」
ぞっとする程冷たい声にベルトルトは一言「は、はい」と返事をするしかできなかった。
「生憎ですが………。エルダはもうここには戻りません。」
「は…………?」
「兵士は当然辞める事になるでしょうから。それでは、失礼します。」
大層驚いた表情をしたエルダが何かを男性に訴えようと口を開きかけるが、それは彼の鋭い眼光に睨まれて口の外に出る事は適わなかった。
…………またしても、佇むベルトルトと腕を引かれて歩き出すエルダとの間の距離は開いていく。
ベルトルトは………呆然としていた。
しかし、足だけはすぐに彼等との距離を縮めて追い付く。
エルダの空いている方の腕を掴んで…………強く引き止めた。
振り向いたエルダの薄緑の瞳を眺めた時、ベルトルトの胸の中で初めて彼女に対して抱く感情が、活栓の様に湧き出すのを感じた。
…………いつだって心穏やかにしてくれる君の瞳が、こんなにも汚濁した気持ちを齎してくれるとは知らなかった。
知りたくなんか無かったよ。君が僕の傍にいてくれさえすれば、知らずにすんだのに。
「………エルダは。ここからいなくなるの?」
暗澹とした瞳でエルダを見下ろしつつ尋ねると、エルダは咄嗟に首を振って否定する。
「そんな事ないわ。また必ず………」「それで、僕の傍からもいなくなるんだ?」
しかし、エルダの声は最早ベルトルトには届いていない様だ。
つらつらと並べられる彼の淡白な言葉とは対照的に、腕を掴む力はどんどん強くなっていく。
「まあ。それはエルダの勝手だから……僕に引き止める権利は無いのかもしれないけれど……」
エルダは腕を折ってしまいそうな程の力が籠ったベルトルトの掌を眺めていよいよ眉をしかめた。相当の痛みを体に伝えている様である。
「でも………それなら、何で僕と約束してくれたの。」
…………そこで、ベルトルトは掴んでいた腕の力を急激に緩めた。彼の手の跡がくっきりと赤く残ったエルダの腕はだらりと垂れ下がる。
「一緒に……故郷に来てくれるって……何で、そんな事。僕は……ずっと、それを信じて頑張って来れたのに。」
言っていて、ベルトルトは頬に生暖かい液体が滑って行くのを感じた。
世界が終ってしまったかの様な虚脱感が体を襲う。懸命にエルダが何かを訴えかけているがそれはまるで耳に入る事はなかった。
「…………こんな事になるのなら、最初から優しくなんてしないでよ。…………僕は、‥‥‥僕は。」
そこでベルトルトは目尻を拭ってから再びエルダの事を見下ろす。
よく晴れた空の下で彼女の瞳の色は相変わらず美しかった。まるで硝子玉みたいだ。綺麗で、透き通っていて、子供時代の宝石の様な。
「…………嘘つき。」
ベルトルトはそれだけ告げると、踵を返して訓練場の方へと足を向けた。
後ろを振り返る事は決してしない。ただ、瞳からは次々と涙が溢れ出てくる。
自分の陰鬱とした胸の内と対照的に、空が眼にしみる程綺麗な青だから、それがまた余計に悲しく感じさせてきて………
涙を流し続けるに連れて、頭は冷静になってくる。
そして、ふいに………僕は、何てことを言ってしまったんだ、という後悔がじわりと胸に沁みた。
それが全身を隈無く巡る頃には、ぽっかりと空いてしまった心の穴の中に、焦りが目一杯に詰め込まれていくのを感じる。
…………今すぐ、謝らないと。
そう思って後ろを振り返るが、そこにはもう誰の姿も無かった。
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