サシャの憂鬱 02 [ 106/167 ]
エルダと男性は、空いた教室の一角、向かい合って椅子に座っていた。
………一日の訓練が終了し、本来なら和やかな空気が訓練場全体には流れている筈なのだが、どういう訳だかその部屋だけは固くわだかまった雰囲気に閉ざされている。
「………あの。どうしてこちらに…………。」
エルダはやっとの思いで言葉を紡いだ。未だに呆然としている事を読み取れる声色である。
「……………。人にものを尋ねる時。釦位留めてはどうです。みっともない。」
彼の言葉にエルダはハッとした様に自分の襟元へと視線を注ぐ。
そこには訓練中、無意識の息苦しさから釦を外したのであろう。開いた服の隙間から肌が少々だらしなく覗いていた。
エルダは「……申し訳ありません。」と言った後に急いで釦を留める。
「…………まずは………、無事で何よりです。」
冷ややかな響きの声だった。しかし、彼のその言葉にエルダの気持ちは僅かに安堵する。
「はい……。おじ様も」
表情を和らげてそう応えるエルダ。しかし、男性の表情は未だに固いままだった。
「まさか………貴方が兵士になっているとは。」
そして緩慢な動作で掌を組んで膝の上に乗せる。痩せた顔に刻まれた切れ長の瞳の鋭さはいよいよ凄みを増していた。
「は、はい……。優秀な兵士にはまだ程遠いですが…13の時よりは多くの事は学べ「兵士とは」
しどろもどろになりながら紡がれるエルダの言葉を遮る様に声を発した彼は、傍に据えられた机の上に何かの写真が印刷された紙を二枚はらりと置く。
「……………兵士とは、写真のモデル等とどこぞの街女の様な低俗な真似をする職業なのでしょうか。」
…………何かと思ってエルダはそれを覗き込んだ。……と、同時に息を呑む。
そこには、真っ白なドレスに身を包み、それぞれ別の人物の腕を取って傍らに佇む自分の姿が。
…………そう。紛れも無く例の、結婚式場にてベルトルト、そしてアニと撮影した写真である。
「これがきっかけで貴方の居場所が分かった事は喜ぶべき事ですが。
婚礼前の娘がこんな露出の高い服を着て…………貴方のお父様が見たらなんと仰るでしょう。」
父の名を出されたエルダの肩は僅かに震える。
「それに女の身で兵士等と……何やら女性の自立だとかが最近流行っている様ですが、品性に事欠く動きだと思います。
家庭を守ってこその立派な女性と言えるのではないのでしょうか。」
「いえ、でも………。」
「…………貴方のお父様に私は数多くの恩があります。それを返す為にも………私は、貴方だけは幸せになってもらいたいのです。」
彼は溜め息をひとつ吐いてから花嫁衣装を纏って笑顔でこちらを見つめるエルダの写真を眺める。
どこか寂しげなその視線に、エルダの口からは思わず「おじ様………。」と目の前の男性を呼ぶ声が漏れた。
「………………私の知り合いの息子が、丁度成人を迎えました。」
「はい?」
しっとりと静まっていた空気の中、突然彼が固い口調を取り戻して唐突に言葉を紡ぐ。
思わずエルダは首を傾げてしまった。
「…………ですから。勝手な事とは思いましたが、年も合うし貴方の事を先方にお伝えしてみた所……一度是非会ってみたいと仰って下さいました。」
「えっ、はい?」
「安心して下さい。貴族ではありませんが旧家の名門で家柄はしっかりした方ですので、何の問題もありません。
……………一週間後に約束を取り付けてあります。こちらの教官にも先程その旨は伝えさせてもらいましたし……」
「いえ、あのっ………おじ様。ちょっと待って下さい。」
珍しく相当量の焦りを内包したエルダの声が部屋に響く。男性は片眉を上げてそれに反応した。
「あの……。私、今の生活をとても気に入ってるんです。だから………、その。」
「兵士なんか続けていても体力と無駄な時間を浪費するだけです。何故自ら不幸になる道を選ぶのですか。」
「不幸なんかじゃありませんよ。……とても、良い友人たちに恵まれましたし。
……おじ様のお心遣いだけ受け取っておきます。………わざわざこんな場所まで出向いて下さって、本当にありがとうございました。」
エルダは軽くお辞儀をして感謝を表すと同時に、明確な自分の意思を男性へと伝える。
………彼は少しうんざりした様に眼を細めると、今一度刺す様な眼光でエルダの事を捕えた。
「…………貴方は昔からのんびりし過ぎているというか……少し世の中を甘く見過ぎているという印象を受けます。
本当に………変な所まで父親似で………。」
彼は掌を組み直してゆっくりと言い聞かせる様に言う。遠回された物言いが、余計に語調を冷たく感じさせた。
「こんな事を言うのは私だって本意ではありませんが、貴方みたいな虫も殺せない気質の人間は兵士になっても恐らく何の成果も得られません。
それどころか周りの足を引っ張ってしまうでしょう。」
部屋の外では、何かがみしりと嫌な音を立てた。この建物も相当古いものだから……何処かが老朽しているのだろう。
「兵士なんかやめなさい。貴方には向いていません。」
「貴方に何が分かるって言うんですか!!!!」
その時、ばあん、と凄い音がして教室の扉が勢い良く開かれた。
室内にいた二人は驚いてその方を見る。開かれた扉からは怖い顔をしたサシャが大股になりながらこちらに近付いてきた。
恐らく聞き耳を立てていたのであろう。ハラハラした表情のクリスタとニヤニヤと面白そうにしたユミルの顔もまた入口の影から覗いていた。
「エルダの事、何にも知らない癖に偉そうな事言わないで下さい!!」
サシャは初老の男性とエルダの間に立って凄まじい剣幕で彼へと訴えかける。相当頭に血が上っている様だ。
「エルダは兵士に向いてなくなんかありませんし、お見合いだってやりません!!
貴方よりもエルダの事ずっとずっと分かってる私が言うんですから間違いありません!!」
ヒートアップしているサシャに対して男性はあくまで冷静だった。彼女の方をちらと見た後、エルダに向かって「彼女は?」と尋ねる。
「え、ええ…。幼馴染です。ダウパー村に訪れた時いつも良くしてくれたところのお嬢さんで……」
「…………ほう。」
男性は小さく息を吐いて今一度サシャを見つめた。彼女は未だに興奮覚めやらないのか肩で息をしていた。
「年に一度……たった数週間の滞在だけの期間で、全てを分かった様な気になるとは随分ですね。」
「……………!?」
彼の言葉にサシャの肩は激しく震えた。
「……………貴方っ」いよいよ掴み掛からんばかりの勢いになるが、それは咄嗟に立ち上がったエルダによって後ろから抱かれる形で抑えられてしまった。
「…………おじ様。今日は少々込み入っているのでこの辺で構わないでしょうか……。申し訳ありません。」
それから至極申し訳無さそうに言うエルダに、サシャは「こんな奴に何で謝るんですか!?」と大きな声で訴える。
男性は無言で頷いて立ち上がると、今一度エルダの方へ向き直りゆっくりと口を開いた。
「…………一週間後に、また迎えに来ます。……何も無理にとは言いませんから、一度。会うだけでも。」
サシャを間に挟んで、しばし見つめ合う二人。エルダは小さく溜め息を吐いた後……淡く、笑った。
「ええ、分かりました。謹んでお受けいたしますわ。」
彼女のその言葉に、サシャのみならずユミルとクリスタの表情も凍り付く。
男性は少々目を伏せて何かを考える様にした後、「それでは。お元気で。」と簡単な別れの挨拶を告げて足早に部屋を立ち去ってしまった。
*
「エルダ!!どうしてあんな話を了承したんですか!?訳が分からないですよ!!」
「あらあら、ここは図書室だから静かにしないと駄目よ。」
翌日、図書室にはいつもと変わらず本を読むエルダの姿が。
そしてその向かいには思わず立ち上がって両の拳を机の上で握りしめるサシャがいた。
「折角おじ様が持って来て下さった話だもの。無下にはできないわ。」
微笑みながらページを捲るエルダの表情はあくまで穏やかだった。それが余計にサシャを苛立たせる。
「おじ様おじ様って……何であんなクソジジイの肩を持つんですか?エルダちょっとおかしいですよ!!」
「おかしくなんかないわよ。………少し厳しい事を言う人だけれど、優しい所もある方だわ。」
…………サシャには……何故、あんな冷たい人間に対してエルダがこんなにも優しい表情をするのかが理解できなかった。
そして………その度に、彼の言葉が思い出されて胸が苦しく支えた気持ちがするのである。
『年に一度……たった数週間の滞在だけの期間で、全てを分かった様な気になるとは随分ですね。』
(………私が。私が……一番にエルダを知っている、筈なんです…………。)
もう一度自分に言い聞かせて、サシャはそろそろとエルダの掌へと手を伸ばす。
触れて握ると、どうしたの、と言う様にエルダがこちらを見つめて来た。
それから………エルダは、ほんの少し眼を伏せて「ごめんなさい。」と零す。
「何でエルダが謝るんですか……。」
サシャが尋ねると、エルダもまた彼女の手を握り返して来た。
「サシャに、嫌な思いをさせてしまったわ。………でも、嬉しかったのよ。貴方が昨日言ってくれた事が、全部。」
エルダの言葉に、サシャは胸の内でじわりとした熱い何かが溶け出すのを感じた。
ぼんやりとエルダの事を見下ろすと、彼女は口からは再び言葉が漏れ出る。
「でもね……。あの方も、若い時に奥様と娘さんを亡くされて、とても寂しい思いをなさった方なのよ。
もしかしたら娘さんは私に似ていたのかも知れないわね。だから必要以上に心配性で、少し厳しいんだわ。」
「エルダと………。あの人は………」
「随分と昔から……父さんと懇意にしていた人よ。時には預かってもらった事もあるわ。
それはそれは怖かったから、あんまり得意では無かったけれど……。」
エルダは一度窓の外を眺めて眼を細めた。鮮やかなダリヤが咲き誇った、風のない夏の午過ぎである。
「でも、やっぱり大切な人だから……。厚意には応えたいのよ。」
分かった?と優しく言ってエルダはそっと掌を離そうとするが……サシャが強い力で握り続けるので、それは適わなかった。
「ぜんぜん分かんないです………。」
ぽつり、とサシャが呟く。エルダの表情に、少しの困惑が浮かび上がった。
「厚意に応える形がなんでお見合いを受ける事に繋がるんですか!?訳分かんないですよ!!」
「サシャ………。」
「第一おかしいと思わないんですか?
私たちはまだ10代半ばですよ、それに対してお見合いを考える男性なんて…変態以外の何者でも無いじゃないですか!!」
遂にサシャは机に飛び乗ってエルダのすぐ傍までその身を寄せる。
掌を握っていたサシャの手は離され、代わりに肩へと乗せられていた。
「もし………変な事とかされたら、どうするんです。エルダにはっきり嫌だって言えるだけの度胸があるって言うんですか?」
「………考えが飛躍し過ぎよ。」
それに机は乗るものじゃないわ、とエルダは困った様に言う。
サシャは………自分の気持ちを上手く言葉にできない事と、伝わらないもどかしさを胸に抱えて黙り込んだ。
「昼休みがそろそろ終ってしまうわ。………行きましょう、サシャ。」
エルダはそれに気付かないのか、それとも気付いて知らないふりをしているのか………どちらにしても何でも無い風な所作でサシャを机から降りる様に促す。
そして昨日と同じにエルダに手を引かれて図書室を後にするサシャ。
だが決定的に違うのは、笑い出したい程楽しかったあの日の気分から転じて、泣き出したい程悲しくて、何処か寂しい事だった。
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