三年目の夜に 04 [ 97/167 ]
「今日はありがとう」
そう言って目を細めるエルダの事を眺めながら………ライナーは、情けない程に自分がほっとしているのに気が付いた。
……………今日。
あの日から、3年。
誰もが心に傷を負い、未だに苛まれ続けた3年間。
エルダだって、勿論辛く無い筈は無いだろう。
が、彼女が全くそれを感じさせずに、当たり前の様に変わらない笑顔を見せてくれる事で、随分と救われた様な………そんな、気持ちがした。
「何、良いって事だ。」
穏やかに返しながら、ライナーは蒸し暑い外気が皮膚に纏わりつく感覚を振り払う様に、掌を意味も無く宙に泳がせた。指の間を、生温い風が通り抜けて行く。
星の無い、雲のかかった夜である。
その雲の奥にまた雲が隠れ、雲と雲との間の底に深い蒼空が月に背負われて現われた。
雲の月面に接する所は白銀の色とも黄金の色とも例え難い純白の様な透明の様な光った色で、それで何となく穏やかな淡々しい色を帯びている。そこで空が一段と奥深く昏紺と見えた。
「…………また、俺の、悪い癖だったかのもしれないな」
息苦しい程の暑さにも関わらず吹く風はひやりとしていて、ライナーはそれに身体を一度震わせてから微かな声で漏らす。
彼の言葉に、エルダは不思議そうな視線を向けた。
ライナーは短い自分の髪をがしがしと掻き、その手でエルダの頭をぽんぽんとやや乱暴に撫でる。
「…………お前を、一人にしてはいけない気がした。」
静かな虫の声が何処からか聞こえていた。エルダはその声の主を探すかの様に視線を空の向こうへと向ける。
「俺の、お節介だ。…………気にしないでくれ。」
そう言ってライナーはエルダの頭から掌をそっと離した。
「……………良いのよ。」
ライナーの離れて行く手を繋ぎ止める様にエルダは腕を伸ばして、それを握る。
「私、きっとそれに、随分と救われたわ。」
そして、エルダはライナーの茶色い瞳を、真っ直ぐに見つめた。
たったひとつ。
たったひと筋だけ、エルダは涙を零した。
それきりだった。
エルダはただそのひと雫を流しただけで、後はいつもと同じ……もしかしたらそれ以上に、穏やかに、優しく笑っていた。
何処からか焦げた様な匂いがする。それに混ざって、焼け付く様に甘い木槿の香り。
無意識にライナーはエルダに握られた手を、強く握り返した。
エルダもまた、それに応える様に両の手で包み込む様にしてくる。
…………昏々とした空には、月がたったひとつ、浮かんでいた。
銀の光を反射するエルダの淡い色の瞳の中を、ライナーは、随分と長い間…じっと、見つめた。
そして、徐々に…心の底から、痺れる様な痛みが這い上がってくるのを感じる。
エルダはやがてそっとライナーの掌から両の手を外した。そして今一度、しっかりと彼の左手を右手で繋ぎ止める。
「帰りましょうか。」
静かにそう言って、エルダはライナーの手を引いて夜道を歩み始める。
自分の一歩前を歩くエルダの旋毛を眺めながら、ライナーは……胸の痛みがより強く、嫌らしく、大きくなっていくのを感じていた。
………………もっと、大きな声を上げて泣いてくれれば…悲しさを、無念を表現してくれれば……まだ、気が楽だったかもしれない。
決まりきった、いつもの兵士としての行動の内で、励ましの言葉を、優しい行為に及んで………それで、エルダの心も俺の心も充分に満たされた筈だ。
だが、今のエルダはそれを許してはくれなかった。…………そんな行為は、きっと、届かない。
………やはり、自分たちはどうあっても償う事の出来ない罪を犯して生きているのだと、まざまざと、改めて思い知らされた様で………胸が、ひどく、痛んだ。
「お前には…………、俺が。………俺達が、ついているから…………安心しろ。」
その痛みから目を背ける様に一言呟けば、エルダが強く俺の左手を握る。
だから…………俺にも、俺達にも…………ついてきて、くれよな…………。
…………なあ、エルダ。
「……………ありがとう、ライナー。」
月明かりの下、零されたエルダの言葉はいつまでも耳に残り、眠りについた床の中までも、追いかける様にやってきて、消えてはくれなかった。
ラル様のリクエストより
ライナーにお父さんとの事を励まされる(または慰められる)お話で書かせて頂きました。
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