三年目の夜に 03 [ 96/167 ]
「さて……」
エルダは食器の山を目の前にしてひとつ息を吐き、袖を捲って両頬を軽く叩いた。
(ちょっと大変だけれど……)
「やりますかあ。」
一言、小さく零して流し台へと向かおうとするエルダ。しかしどういう訳だかその足が前へと進まない。
理由は……何者かに頭をがっしりと掴まれているからであって……しかも恐らく片の掌で。
そんな事ができる大きな手の持ち主……しかもある程度気心知れた……はエルダの記憶の中では一人しかおらず、彼の方を見上げては、ああやっぱり、と微笑んだ。
「何がやりますかあ、だ。」
対照的にライナーは眉間に皺を寄せて何やら不機嫌そうな表情をしている。エルダはどういう訳かその顔を見た途端に安堵の様な懐かしい様な気持ちが胸に溢れて、より表情を柔らかくして彼の名前を呼んだ。
「どうしたの、ライナー。」
エルダはようやくライナーの掌が離された頭上の、乱れた髪を整えながら尋ねる。
不思議そうに首を傾げながらの彼女の問いに、ライナーは小さく息を吐いた。
「これ、お前一人でやるつもりだったのか?」
ライナーの視線の先には山積みとなった食器。エルダは事も無げに頷いて、「同じ当番のミカサは少し具合が悪そうだったから、ね。」と答えた。
ライナーは更にもうひとつ溜め息を吐いて今度はこつりと拳でエルダの額の辺りを軽く叩く。
エルダは「あらあら」と小さく声を上げて叩かれた箇所を抑えた。
「……………この量を一人でやってたらいくらお前でも朝になっちまうぞ」
「そんな事無いわ。大袈裟ねえ。」
可笑しそうに吹き出したエルダの言葉には応えず、ライナーは少々くたびれたシャツを腕捲りして彼女に向き直った。
「…………手伝うからさっさと終らすぞ。」
そしてそれだけ述べると後は何も言わずに流し場へと歩を進める。
エルダはそれを惚けた様に眺めていたが………やがて少しだけ目を伏せて笑うと、「ありがとう、ライナー。」とゆっくり、一音ずつ確かめる様に言葉を紡いだ。
「…………良いって。」
少しして、ライナーが微かな声で返す。エルダはライナーから濡れた食器を受け取りながら、ふいに泣きそうになって、それを堪える様に古びた木材でできた天井を見上げた。…………しかし、それは気の所為で、涙は流れる事は無かった。
…………水音と、食器の触れ合う音。そして微かな息遣い。
流し場にある音はそれだけだった。
…………蒸し暑さは更に色濃さを増す。
窓の外では煤けた様な深い群青の空気が野にさして、雲は紫色だ。林は銅色。
遠くに立体起動装置の古びた倉庫。白樺。黄色く塗られた木造は随分とペンキが剥げている。赤錆をこしらえた蛇口が一人ぼっちでその傍に佇んでいた。
その中を、鋭い音が切り裂く様に響く。エルダは思わず肩を揺らしてその方を眺めた。
「あらあら。」
そして、心配そうな声を上げてライナーの血が溢れ出ている指先を目に留める。
…………エルダがライナーの掌へとそっと触れて、傷口を確かめる様に自分の傍へと持って行った。
ライナーは、彼女の指先がこの暑さに反比例してあまりに冷たい事にどういう訳だか一抹の不安を覚える。
だが………エルダは相変わらずいつもと変わらない。自分の傷痕をしばらく見つめた後、「ちょっと待っていてね」と言ってスカートのポケットの中を弄っている。
「これ位なら、絆創膏で大丈夫ね。」
………いつも持ち歩いているのだろうか。濡れたライナーの手をハンカチで拭ってやった後、エルダは器用に彼の指へと絆創膏を貼ってやった。
「…………変わりましょう。私が洗うから、貴方は拭いて頂戴。」
床に散らばる破片を片しながらエルダが言う。俯いた時に顔に落ちてくる髪を耳にかける姿に不思議な女性らしさを感じ、ライナーはしばらくそれを眺めていた。………が、思い出した様に自分も皿の欠片を集め始める。
「また、手を切らない様にね。」
エルダはそう言って苦笑した。それに対してライナーはただ無言で頷く。………二人の間には、相も変わらず静かな空気が流れていた。
「確か、俺達が初めて会ったときも………お前に手当してもらったな」
食器洗いを再開させて少しした時、ライナーがぽつりと零す。
エルダは「嫌ねえ。こんなの手当っていう程では無いわ」と小さく笑いながらライナーに濡れたコップを手渡した。
「…………あの時から、お前は変わらないな………。」
ライナーは受け取ったコップの水分を布巾で拭いながら言葉を続ける。エルダは「……そう?」と相槌を打ちながら皿に付着した石鹸の泡を水で注いだ。
「ああ、ずっと変わらず、穏やかで……優しいままだ。」
その言葉に、エルダは照れ臭そうに頬を染めて彼の事を見上げる。
「いやだ、褒めても、何にも出ないわよ。」
彼女が渡して来た皿には、未だ泡が少し残っていた。その事に気付いたのかエルダはもう一度それを水で濯ぎ直す。
「………貴方だって、変わっていないわ。」
今度こそ汚れの落ち切った皿をライナーに手渡しながら、エルダは水を張った盥に沈んだ皿を一枚、取り上げる。
「…………ずっと格好良くて頼れる、素敵な人のままだわ。」
また、綺麗になった皿がライナーへと手渡された。ぴちゃり、と水滴がひとつ垂れる音がする。
皿が確かにライナーの手の内に収まった事を確認すると、エルダは淡く笑って再び流しに視線を落とした。
「中々に………褒められるというのは、恥ずかしいな。」
手の内のものを拭いてやりながらライナーは溜め息交じりに零す。
「でしょう?仕返しよ」
そう言ってエルダは楽しそうに笑った。
それから……二人は、いつもの様に何でも無い話をしながら皿を洗い続ける。
会話を交わしながらの作業は思ったよりも早く片付き、お互いに自分の仕事に満足感を覚えながら、流し場を後にした。
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