光の道 | ナノ
三年目の夜に 02 [ 95/167 ]

「お隣、良いかしら。」


柔らかな女性の声に、ミカサは顔を上げた。………そして、声の主が意外な人物だった為に少しだけ目を見張る。

が……、すぐにいつもの無表情に戻り、「構わない」と端的に返した。


エルダは「ありがとう」とそれに微笑って返し、ミカサの隣に着席する。



「今日は、エレンとアルミンは一緒じゃないの?」


行儀良くパンを千切って口に運びながらエルダがミカサに尋ねた。


ミカサは視線でひとつ向こう側のテーブルを示す。そこにはエレンとアルミンが向かい合って食事を摂っていた。



「…………少し遅い時間に行ったら、彼等の近くの席はもう埋まっていた。」


それだけ零すと、ミカサは自分のスープへと視線を落とす。少々残念がっているのだろう。


…………だが、珍しい。いつもの彼女ならそんな事おかまい無しに……先客を強引にどかしてでもエレンの隣に着席すると言うのに………。



「………そっか。私と、同じね。」


エルダは困った様に笑って肩をすくめる。彼女の視線の先、遠く離れたテーブルではユミル、クリスタ、サシャが楽しげに談笑していた。



…………しばらく、二人は無言でそれぞれの食事を進める。



時々、ミカサは横目でエルダの事を盗み見た。…………一年程、寝食を共にしているがあまり話をした事は無い。ここまでの近い距離で彼女の事を眺めるのも初めてだった。



「…………今日は、暑いわね。」


ふと、エルダが零す。今まさに彼女の事を凝視している最中だったミカサは思わず肩を揺らした。



ミカサが何も応えずにいると、エルダは独り言の様に「暑いわね……本当に。」と続けて呟く。どうやら相槌を求めている訳では無いらしい。



またしても二人の間には沈黙が横たわる。そして、周りの楽しげな喧噪が随分と遠くに感じた。



「そういえば……、今日、貴方と私が夕食の片付けの当番だったわよね?」


エルダが思い出した様にミカサへと尋ねる。その声は先程のぼんやりとした響きは無く、常日頃の印象と変わらない、柔らかなものだった。


「…………そうね。」


何故だかほっとしながらミカサは頷く。エルダは優しく目を細めながら、「頑張りましょうね」と微笑った。


それに対してもう一度頷いて、ミカサはテーブルに視線を落とす。そこには………先程から全く量を減らしていないスープと、手つかずのパンが転がっていた。


「あら……食欲、無いの?」


エルダもまたミカサの視線をなぞる様にそれに瞳を向け、心配そうに声をかける。


「いや……そんな事は、………、」


そう言いながらもミカサは違和感を覚え始めた腹部に掌を当てた。エルダはそれを察したのかそっと彼女の背中を温める様に擦った。



「大丈夫?医務室に行った方が良いかしら」


「…………問題無い。これ位……」


「じゃあお薬だけでももらって来ましょう。」


少し待っていてね、と言ってエルダは立ち上がって食堂を出て行こうとする。………が、ミカサは彼女の腕を掴んでそれを阻止した。



エルダは予想外のミカサの行動に少々驚いた様な表情をする。ミカサもまた自分の咄嗟の行為に戸惑っていた。


………すぐに手を離して、「必要無い。」と愛想無く言う。


エルダは大人しくミカサの言葉に従い、再び隣の席に収まった。


しかし、それでもなお気遣わしげに彼女が何かを言おうと口を開きかけるので、遮る様にミカサは手つかずだったパンを無理矢理齧って喉に押し込む。まるで泥を飲み込むかの様に辛い作業だった。



……………エルダは開きかけた口を噤んでその光景を眺めていたが、やがてパンを持つミカサの手をごく自然な所作で握る。


何かと思ってミカサは彼女の方を見た。エルダは首を微かに横に振って、そっとミカサの掌をパンごと机の上に戻す。



「食欲が無ければ残しても良いのよ。無理に、食べる必要は無いわ。」


……こんな日だもの。と言ってエルダは更に左手を添えて両の掌でミカサの右手を包み込んだ。



「ゆっくりで、大丈夫だから。」



エルダは安心させる様に握る手に少しだけ力をこめる。この暑さの中、どういう訳だか彼女の指先はひやりとしていて、心地良かった。



「でも、スープを少し飲んでおいた方が良いわ。温かいものはこういう時によく効くのよ」



ミカサが少々落ち着いたのを感じ取ったのか、エルダは彼女の手を離してスープを薦めてくる。


何故か抗う事ができずにすっかり温くなってしまったそれを一口、口に含む。


エルダはそれを眺めながら、偉い、偉い、と言ってミカサの背中を優しく擦った。



しばらくして………エルダもまた食事を再開する。その隣で、少しずつ食欲が回復してきたミカサは緩慢な動作でスープを口に運んだ。



それに合わせてくれているのだろうか、エルダの食事の速度も随分とゆっくりである。エルダとミカサは遂に、誰もが食事を終えて寮へと帰り、静まり帰った食堂内で食事を終えた。



「……………ねえ、ミカサ。」



シンとした室内でエルダの声はよく通った。彼女はスプーンをカタリと机の上に置いてミカサの方へと向き直る。



「今日の当番は、しなくて大丈夫よ。」



エルダの言葉に、ミカサは訝しげに顔を上げた。視線の先の彼女はあくまで微笑んでいる。



「私に任せて、貴方はもう寝なさい、ね。」



そう言いながらエルダは自分とミカサの食器を重ね始めた。



「え………、でも。それは………」



ミカサが抗議の声を上げようとするが、エルダは構わず食器を片そうと立ち上がる。



「今の貴方に、早く休む事はきっと必要よ。」


首を小さく傾げながらエルダは空いている方の手でミカサ濃艶の髪を撫でた。



「それに、ちょっとは年上に良い格好をさせて頂戴。」


分かった?とエルダは小さい子に言い聞かせる様にミカサの顔を覗き込む。



………その柔らかな笑顔を前に、ミカサはただ頷くしかできなかった。彼女の反応を見て、エルダもまた満足そうに微笑む。



「………辛い様だったら後で言ってね。私の常備薬で良く効くのがあるから。」



エルダはミカサの髪からそっと手を離しながら優しく零し、「さ、もう戻りなさい」とミカサを女子寮へと促した。



「エルダ。」


食堂の入口で、ミカサは初めてエルダの名を呼んだ。流し場へと向かおうとしていた彼女は不思議そうに振り返る。



「……………ありがとう。」



本当に、小さな小さな声だった。だが……確かにエルダの耳には届いた様で、「どういたしまして。」と綺麗に、そして嬉しそうに目を細めてみせる。



ミカサはもう一度ありがとう、と感謝の気持ちを伝えると、今度こそ食堂を後にした。



…………腹部の痛みは、いつの間にか収まっていた。



けれど、彼女が片付けから帰って来た時に薬は一応もらっておこう。



…………………話す、きっかけになるかもしれない。



この一年間、エルダの事を知らずにいたのは、実はとても勿体ない事だったんじゃないのか…とミカサは少々の後悔と理由の分からぬ幸せな気持ちを抱えて、女子寮への道を辿った。


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